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第十三話 王太子妃の席は、涙では埋まりませんでした
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第十三話 王太子妃の席は、涙では埋まりませんでした
翌朝の王宮は、妙に早く目覚めていた。
まだ朝靄の名残が中庭に沈んでいるというのに、女官たちの足音はすでに忙しい。帳簿を抱えた会計係が廊下を急ぎ、侍従が確認のために何度も部屋を出入りし、王妃付きの者たちは普段より低い声で必要事項だけを交わしている。
騒がしいわけではない。
むしろ静かだった。
だが、その静けさの中に、王宮全体の苛立ちが沈んでいた。
止まっている。
引っかかっている。
確認しなければ進めない。
そういう小さな滞りが、朝からあちこちで顔を出し始めているのだ。
そして誰もが、その原因を知っていた。
王太子カイルの軽率な婚約破棄。
たった一晩で済むはずだった“恋愛沙汰”が、今は王宮の実務にまで手を伸ばしている。
王妃ロザリアは、いつもより早く小会議室へ入っていた。
長机の上には朝から書類が積まれている。王立学園からの照会、街道整備の進捗確認、支払い手順の見直しを求める文書、王太子付きの会計整理の一覧。どれもこれも、本来ならばもっと滑らかに流れていたはずのものだ。
「こちらが、今朝届いた分でございます」
女官長が差し出した書類を、ロザリアは黙って受け取った。
一枚目を読む。
王立学園からの返答だった。
追加拠出について、従来の“王太子後援”ではなく、別名義での調整が可能か確認したい、とある。
二枚目を見る。
東部街道整備について、次の資材搬入は保証再確認まで保留、とある。
三枚目は、王宮御用達の仕立屋からだった。
今後の注文について、これまでと同じ便宜は難しいため、正式な会計手順に従いたいという申し出だ。
ロザリアは、そこでようやく息を吐いた。
「……本当に、あちらこちらね」
「はい」
会計係がすぐに頭を下げる。
「今朝の時点では、局所的な混乱と見ておりました。ですが、現時点では複数の案件が同時に止まりかけております」
「止まった、ではなく?」
「はい。正確には、皆が確認待ちで手を止めている状態にございます」
確認待ち。
その言葉が妙に重く響いた。
壊れたわけではない。だが誰も、以前と同じ前提で動けなくなっている。つまり、それだけ今までの流れが“誰か”の信用の上に乗っていたということだ。
「学園の件は?」
「完全に支援が消えたわけではございません」
会計係は書類をめくりながら答える。
「ただ、名目を変えたいとの意向です。王太子後援の形は避けたいようで」
ロザリアは指先で机を軽く叩いた。
避けたい。
それはつまり、そういうことだ。
金がなくなったのではない。だが、王太子の名の下で流れることに、皆が急に慎重になっている。
それが何を意味するか、ロザリアには分かった。
王太子の名が、信用の足しではなく、いまや確認すべき危うさになり始めているのだ。
女官長が慎重に口を開く。
「王妃陛下」
「何です」
「率直に申し上げれば、皆ようやく気づき始めております」
「何に?」
「今まで滞りなく流れていたものの多くが、当然ではなかったということにございます」
ロザリアはすぐには答えなかった。
その当然ではなかった流れを、彼女自身もどこかで当然と見なしていたからだ。
王太子は未熟だが、いずれ育つだろう。
婚約者のリディアナは冷静で、多少堅いがよくできた娘だ。
王太子妃となれば、うまく王宮を整えてくれるだろう。
そういう期待は、たしかにあった。
だが今、書類の形になって机へ積み上がっているのは、期待ではない。
損失だった。
見えなかった支えが失われたことで、どこまでが揺らぐのかを示す、具体的な紙の山だった。
「カイルは?」
ロザリアが問うと、女官長と会計係がほんのわずかに視線を交わした。
その一瞬で、良くないことは分かる。
「まだお見えではございません」
「呼んだのでしょう」
「はい」
「それで?」
「少々お疲れであると……」
ロザリアは目を伏せた。
怒りよりも先に、疲労が差した。
疲れているのはこちらも同じだ。いや、この部屋にいる全員が同じだろう。だが、その疲れの中で席を外せる者と外せない者がいる。その違いすら、息子はまだ理解していない。
「後で構いません。先に進めましょう」
そう言ったとき、扉の外で足音が止まった。
侍従が開けると、ようやくカイルが姿を見せた。
礼装は整っている。だが顔つきは明らかに不機嫌で、朝から機嫌を悪くしている男のそれだった。
「遅かったわね」
ロザリアが言うと、カイルは眉をひそめた。
「呼ばれたので来ました」
以前なら、その刺のある言い方にロザリアも眉を動かしたかもしれない。だが今は、そういうやり取りに使う気力が惜しかった。
「座りなさい」
カイルは不承不承といった様子で席につく。
女官長が一覧を差し出した。
「こちらが、現在滞りが出ている項目にございます」
カイルは一瞥しただけで顔をしかめた。
「多すぎるな」
「多すぎるのではなく、多かったものが見えるようになったのです」
ロザリアが淡々と言う。
「ひとつずつ確認しなさい」
「なぜ私がそんなことを」
「あなたの名で動いていたものが多いからよ」
当然の返答だった。
だがカイルは、それでも納得がいかない顔をしている。
今まで、こんなことは自分の仕事ではなかった。目の前に整った形で出されるものに判を押すだけで済んでいた。そういう感覚が抜けきっていないのだろう。
そして、その“整った形”を誰が作っていたのかも、まだ完全には理解していない。
「まず、衣装関係と宝飾品の手配です」
女官長が説明を始める。
「これまで殿下個人のご利用であっても、婚約関係を含む信用により、かなり柔軟に処理されていた部分がございました」
「柔軟に、とは何だ」
カイルが不機嫌そうに言う。
女官長は一拍置いてから答えた。
「本来なら確認が必要な品を、後日処理で済ませていたということです」
「それがどうした」
「今後は、そうはいかぬということです」
短いやり取りだったが、部屋の空気は冷えた。
カイルは顔をしかめ、次の書類へ目を落とす。
「では次に、街道整備の件です」
会計係が引き取った。
「こちらは婚約関係を前提にした保証が組み込まれていたため、再確認が済むまで次工程が保留になっております」
「馬鹿馬鹿しい」
カイルが吐き捨てる。
「婚約ひとつ終わったくらいで、そこまで大げさにする必要があるのか」
ロザリアが、そこで初めてはっきりと顔を上げた。
「婚約ひとつ、ですって?」
「そうだ」
「何度も言いますが」
ロザリアの声は低かった。
「あなたが終わらせたのは、ただの恋愛ではありません」
「婚約は、家と家、信用と実務の前提でもあったのです」
「それを大勢の前で、一方的に切った。その結果が今、この紙の山になっているのよ」
カイルは言い返そうとした。
だが、すぐには言葉が出ない。
その沈黙の間に、会計係が次の一枚を差し出した。
「王立学園については、支援そのものを完全に止めたい意図ではないようです」
「では何だ」
「王太子後援の名目を避けたいと」
カイルの顔が歪む。
「避けたい?」
「はい」
会計係の声はますます慎重になる。
「今の状況で、その名で金が動くことを、先方は警戒しております」
部屋の空気が重く沈む。
ロザリアはそこでようやく、机の上の書類をひとまとめに整えた。
その仕草には妙な静けさがあった。
「カイル」
「何です」
「あなた、叱られることには慣れているのでしょうね」
突然の言葉に、カイルが目を瞬く。
「……は?」
「国王に眉をひそめられることも。私に咎められることも」
「それは王太子である以上、多少は覚悟しております」
「でしょうね」
ロザリアは視線を逸らさなかった。
「でも、笑われることには慣れていないはずよ」
その一言に、カイルの顔つきが変わった。
ぴたりと、空気が止まる。
女官長も会計係も動かない。
それほど、その言葉は直接的だった。
「何を仰りたいのです」
かすかに掠れた声で、カイルが言う。
ロザリアは容赦しなかった。
「王宮内の者たちは、まだ笑いません。仕事があるからよ。でも社交界は違うわ。彼らはもう、あなたを“婚約を壊した後の責任も取れず、周囲の支えが消えた途端に立ち往生した王太子”として見始めている」
カイルの手が、机の上でわずかに握られる。
図星だった。
感じているのだろう。その空気を。誰も露骨には言わない。けれど、以前のような緊張も遠慮もない、薄い笑いの膜みたいなものが自分を包み始めていることを。
「誰がそんなことを」
やっと絞り出した反論は、それだけだった。
「誰かが明言したかどうかの話ではありません」
ロザリアはきっぱりと切る。
「空気の話よ。視線の話よ。あなたも感じているから、そんな顔をしているのでしょう」
カイルは口を閉ざした。
怒鳴ることもできない。
なぜなら、本当に感じているからだ。
倶楽部での軽い問いかけ。侍従の一瞬の目。女官たちの職務だけの礼。すべてが、少しずつ、だが確実に変わっている。
そしてその変化は、叱責よりずっと痛い。
叱られるうちは、まだ相手にとって問題として扱われている。だが笑われるというのは、相手がもう自分を上に見ていないということだ。
その痛みが、遅れて彼を刺し始めていた。
「……母上は」
カイルがようやく言う。
「私が笑われていると、そう仰るのですか」
「もう始まっているわ」
ロザリアの答えは冷たかった。
「そして、放っておけば広がる。だから私は、あなたの機嫌より先に、損失を止めることにしたの」
その言葉で、ようやくカイルの顔に本当の衝撃が走った。
母が自分の味方をやめた、と思ったのかもしれない。
だが違う。
ロザリアは最初から王家の側にいる。ただ今までは、息子の失点を“王太子として未熟だから”という甘さで見てきた。今はもう、それが通らないだけだ。
「今日はここまでにします」
ロザリアが言った。
「ですが、逃げても消えませんよ。この損失も、この笑いも」
カイルは椅子を引いた。
乱暴ではない。むしろ妙に静かだった。
その静けさの方が危うかった。
何も言わずに部屋を出ていく。その背中は怒りで張っているのに、どこか小さく見えた。
扉が閉まる。
女官長が、そっと息を吐いた。
「かなりお伝えになりましたね」
「ええ」
ロザリアは視線を机へ落とす。
「でも、あの子にはあのくらい言わないと届かないわ。叱責ではもう足りないもの」
その頃、本邸ではミレイユが一人で窓辺に立っていた。
王太子を見限った静けさは、まだ彼女の中に残っている。けれど心が軽くなったわけではない。頼る相手を一つ失っただけで、自分が急に何かを持てるようになるわけではなかった。
彼女はただ、夜の庭を見ながら考えていた。
王太子は自分を選んだ。
だが、それだけだった。
何も整えず、何も守らず、何も与えなかった。
それなら、自分はいったい何のためにあの男へ縋ろうとしていたのだろう。
答えは出ない。
ただ、以前のように夢を見ることだけはできなかった。
別邸では、グラントが簡潔な報告を伝えていた。
「王妃陛下が、殿下へはっきりお伝えになったようです」
「何を?」
リディアナが尋ねる。
「叱責よりも、笑われることの方が痛いと、殿下が知る段に入った、と」
リディアナは小さく目を伏せた。
「そう」
「かなり堪えておられるようでございます」
「でしょうね」
彼女は静かに答える。
「叱られるうちは、まだ自分が上にいるつもりでいられるもの。でも笑われたら終わりよ。自分が舞台の上から落ちたって、嫌でも分かるから」
マリアベルが黙ってうなずく。
窓の外では、夕方の光が庭を薄く染めていた。
笑いは残酷だ。
怒りのように燃えない。
断罪のように派手でもない。
ただ、静かに人の足場を削っていく。
そしてその削れた場所に立っている本人だけが、遅れて痛みを知る。
「王太子は、叱られるより笑われる方が痛いと知ったのね」
「はい」
「なら、ようやく本当の意味で傷つき始めたのだわ」
リディアナの声は穏やかだった。
けれどそこには、冷えた確信があった。
大勢の前で人を切り捨てた男が、今になってようやく知る。
自分が切ったものより、自分が笑われる痛みの方が、ずっと長く残るのだと。
翌朝の王宮は、妙に早く目覚めていた。
まだ朝靄の名残が中庭に沈んでいるというのに、女官たちの足音はすでに忙しい。帳簿を抱えた会計係が廊下を急ぎ、侍従が確認のために何度も部屋を出入りし、王妃付きの者たちは普段より低い声で必要事項だけを交わしている。
騒がしいわけではない。
むしろ静かだった。
だが、その静けさの中に、王宮全体の苛立ちが沈んでいた。
止まっている。
引っかかっている。
確認しなければ進めない。
そういう小さな滞りが、朝からあちこちで顔を出し始めているのだ。
そして誰もが、その原因を知っていた。
王太子カイルの軽率な婚約破棄。
たった一晩で済むはずだった“恋愛沙汰”が、今は王宮の実務にまで手を伸ばしている。
王妃ロザリアは、いつもより早く小会議室へ入っていた。
長机の上には朝から書類が積まれている。王立学園からの照会、街道整備の進捗確認、支払い手順の見直しを求める文書、王太子付きの会計整理の一覧。どれもこれも、本来ならばもっと滑らかに流れていたはずのものだ。
「こちらが、今朝届いた分でございます」
女官長が差し出した書類を、ロザリアは黙って受け取った。
一枚目を読む。
王立学園からの返答だった。
追加拠出について、従来の“王太子後援”ではなく、別名義での調整が可能か確認したい、とある。
二枚目を見る。
東部街道整備について、次の資材搬入は保証再確認まで保留、とある。
三枚目は、王宮御用達の仕立屋からだった。
今後の注文について、これまでと同じ便宜は難しいため、正式な会計手順に従いたいという申し出だ。
ロザリアは、そこでようやく息を吐いた。
「……本当に、あちらこちらね」
「はい」
会計係がすぐに頭を下げる。
「今朝の時点では、局所的な混乱と見ておりました。ですが、現時点では複数の案件が同時に止まりかけております」
「止まった、ではなく?」
「はい。正確には、皆が確認待ちで手を止めている状態にございます」
確認待ち。
その言葉が妙に重く響いた。
壊れたわけではない。だが誰も、以前と同じ前提で動けなくなっている。つまり、それだけ今までの流れが“誰か”の信用の上に乗っていたということだ。
「学園の件は?」
「完全に支援が消えたわけではございません」
会計係は書類をめくりながら答える。
「ただ、名目を変えたいとの意向です。王太子後援の形は避けたいようで」
ロザリアは指先で机を軽く叩いた。
避けたい。
それはつまり、そういうことだ。
金がなくなったのではない。だが、王太子の名の下で流れることに、皆が急に慎重になっている。
それが何を意味するか、ロザリアには分かった。
王太子の名が、信用の足しではなく、いまや確認すべき危うさになり始めているのだ。
女官長が慎重に口を開く。
「王妃陛下」
「何です」
「率直に申し上げれば、皆ようやく気づき始めております」
「何に?」
「今まで滞りなく流れていたものの多くが、当然ではなかったということにございます」
ロザリアはすぐには答えなかった。
その当然ではなかった流れを、彼女自身もどこかで当然と見なしていたからだ。
王太子は未熟だが、いずれ育つだろう。
婚約者のリディアナは冷静で、多少堅いがよくできた娘だ。
王太子妃となれば、うまく王宮を整えてくれるだろう。
そういう期待は、たしかにあった。
だが今、書類の形になって机へ積み上がっているのは、期待ではない。
損失だった。
見えなかった支えが失われたことで、どこまでが揺らぐのかを示す、具体的な紙の山だった。
「カイルは?」
ロザリアが問うと、女官長と会計係がほんのわずかに視線を交わした。
その一瞬で、良くないことは分かる。
「まだお見えではございません」
「呼んだのでしょう」
「はい」
「それで?」
「少々お疲れであると……」
ロザリアは目を伏せた。
怒りよりも先に、疲労が差した。
疲れているのはこちらも同じだ。いや、この部屋にいる全員が同じだろう。だが、その疲れの中で席を外せる者と外せない者がいる。その違いすら、息子はまだ理解していない。
「後で構いません。先に進めましょう」
そう言ったとき、扉の外で足音が止まった。
侍従が開けると、ようやくカイルが姿を見せた。
礼装は整っている。だが顔つきは明らかに不機嫌で、朝から機嫌を悪くしている男のそれだった。
「遅かったわね」
ロザリアが言うと、カイルは眉をひそめた。
「呼ばれたので来ました」
以前なら、その刺のある言い方にロザリアも眉を動かしたかもしれない。だが今は、そういうやり取りに使う気力が惜しかった。
「座りなさい」
カイルは不承不承といった様子で席につく。
女官長が一覧を差し出した。
「こちらが、現在滞りが出ている項目にございます」
カイルは一瞥しただけで顔をしかめた。
「多すぎるな」
「多すぎるのではなく、多かったものが見えるようになったのです」
ロザリアが淡々と言う。
「ひとつずつ確認しなさい」
「なぜ私がそんなことを」
「あなたの名で動いていたものが多いからよ」
当然の返答だった。
だがカイルは、それでも納得がいかない顔をしている。
今まで、こんなことは自分の仕事ではなかった。目の前に整った形で出されるものに判を押すだけで済んでいた。そういう感覚が抜けきっていないのだろう。
そして、その“整った形”を誰が作っていたのかも、まだ完全には理解していない。
「まず、衣装関係と宝飾品の手配です」
女官長が説明を始める。
「これまで殿下個人のご利用であっても、婚約関係を含む信用により、かなり柔軟に処理されていた部分がございました」
「柔軟に、とは何だ」
カイルが不機嫌そうに言う。
女官長は一拍置いてから答えた。
「本来なら確認が必要な品を、後日処理で済ませていたということです」
「それがどうした」
「今後は、そうはいかぬということです」
短いやり取りだったが、部屋の空気は冷えた。
カイルは顔をしかめ、次の書類へ目を落とす。
「では次に、街道整備の件です」
会計係が引き取った。
「こちらは婚約関係を前提にした保証が組み込まれていたため、再確認が済むまで次工程が保留になっております」
「馬鹿馬鹿しい」
カイルが吐き捨てる。
「婚約ひとつ終わったくらいで、そこまで大げさにする必要があるのか」
ロザリアが、そこで初めてはっきりと顔を上げた。
「婚約ひとつ、ですって?」
「そうだ」
「何度も言いますが」
ロザリアの声は低かった。
「あなたが終わらせたのは、ただの恋愛ではありません」
「婚約は、家と家、信用と実務の前提でもあったのです」
「それを大勢の前で、一方的に切った。その結果が今、この紙の山になっているのよ」
カイルは言い返そうとした。
だが、すぐには言葉が出ない。
その沈黙の間に、会計係が次の一枚を差し出した。
「王立学園については、支援そのものを完全に止めたい意図ではないようです」
「では何だ」
「王太子後援の名目を避けたいと」
カイルの顔が歪む。
「避けたい?」
「はい」
会計係の声はますます慎重になる。
「今の状況で、その名で金が動くことを、先方は警戒しております」
部屋の空気が重く沈む。
ロザリアはそこでようやく、机の上の書類をひとまとめに整えた。
その仕草には妙な静けさがあった。
「カイル」
「何です」
「あなた、叱られることには慣れているのでしょうね」
突然の言葉に、カイルが目を瞬く。
「……は?」
「国王に眉をひそめられることも。私に咎められることも」
「それは王太子である以上、多少は覚悟しております」
「でしょうね」
ロザリアは視線を逸らさなかった。
「でも、笑われることには慣れていないはずよ」
その一言に、カイルの顔つきが変わった。
ぴたりと、空気が止まる。
女官長も会計係も動かない。
それほど、その言葉は直接的だった。
「何を仰りたいのです」
かすかに掠れた声で、カイルが言う。
ロザリアは容赦しなかった。
「王宮内の者たちは、まだ笑いません。仕事があるからよ。でも社交界は違うわ。彼らはもう、あなたを“婚約を壊した後の責任も取れず、周囲の支えが消えた途端に立ち往生した王太子”として見始めている」
カイルの手が、机の上でわずかに握られる。
図星だった。
感じているのだろう。その空気を。誰も露骨には言わない。けれど、以前のような緊張も遠慮もない、薄い笑いの膜みたいなものが自分を包み始めていることを。
「誰がそんなことを」
やっと絞り出した反論は、それだけだった。
「誰かが明言したかどうかの話ではありません」
ロザリアはきっぱりと切る。
「空気の話よ。視線の話よ。あなたも感じているから、そんな顔をしているのでしょう」
カイルは口を閉ざした。
怒鳴ることもできない。
なぜなら、本当に感じているからだ。
倶楽部での軽い問いかけ。侍従の一瞬の目。女官たちの職務だけの礼。すべてが、少しずつ、だが確実に変わっている。
そしてその変化は、叱責よりずっと痛い。
叱られるうちは、まだ相手にとって問題として扱われている。だが笑われるというのは、相手がもう自分を上に見ていないということだ。
その痛みが、遅れて彼を刺し始めていた。
「……母上は」
カイルがようやく言う。
「私が笑われていると、そう仰るのですか」
「もう始まっているわ」
ロザリアの答えは冷たかった。
「そして、放っておけば広がる。だから私は、あなたの機嫌より先に、損失を止めることにしたの」
その言葉で、ようやくカイルの顔に本当の衝撃が走った。
母が自分の味方をやめた、と思ったのかもしれない。
だが違う。
ロザリアは最初から王家の側にいる。ただ今までは、息子の失点を“王太子として未熟だから”という甘さで見てきた。今はもう、それが通らないだけだ。
「今日はここまでにします」
ロザリアが言った。
「ですが、逃げても消えませんよ。この損失も、この笑いも」
カイルは椅子を引いた。
乱暴ではない。むしろ妙に静かだった。
その静けさの方が危うかった。
何も言わずに部屋を出ていく。その背中は怒りで張っているのに、どこか小さく見えた。
扉が閉まる。
女官長が、そっと息を吐いた。
「かなりお伝えになりましたね」
「ええ」
ロザリアは視線を机へ落とす。
「でも、あの子にはあのくらい言わないと届かないわ。叱責ではもう足りないもの」
その頃、本邸ではミレイユが一人で窓辺に立っていた。
王太子を見限った静けさは、まだ彼女の中に残っている。けれど心が軽くなったわけではない。頼る相手を一つ失っただけで、自分が急に何かを持てるようになるわけではなかった。
彼女はただ、夜の庭を見ながら考えていた。
王太子は自分を選んだ。
だが、それだけだった。
何も整えず、何も守らず、何も与えなかった。
それなら、自分はいったい何のためにあの男へ縋ろうとしていたのだろう。
答えは出ない。
ただ、以前のように夢を見ることだけはできなかった。
別邸では、グラントが簡潔な報告を伝えていた。
「王妃陛下が、殿下へはっきりお伝えになったようです」
「何を?」
リディアナが尋ねる。
「叱責よりも、笑われることの方が痛いと、殿下が知る段に入った、と」
リディアナは小さく目を伏せた。
「そう」
「かなり堪えておられるようでございます」
「でしょうね」
彼女は静かに答える。
「叱られるうちは、まだ自分が上にいるつもりでいられるもの。でも笑われたら終わりよ。自分が舞台の上から落ちたって、嫌でも分かるから」
マリアベルが黙ってうなずく。
窓の外では、夕方の光が庭を薄く染めていた。
笑いは残酷だ。
怒りのように燃えない。
断罪のように派手でもない。
ただ、静かに人の足場を削っていく。
そしてその削れた場所に立っている本人だけが、遅れて痛みを知る。
「王太子は、叱られるより笑われる方が痛いと知ったのね」
「はい」
「なら、ようやく本当の意味で傷つき始めたのだわ」
リディアナの声は穏やかだった。
けれどそこには、冷えた確信があった。
大勢の前で人を切り捨てた男が、今になってようやく知る。
自分が切ったものより、自分が笑われる痛みの方が、ずっと長く残るのだと。
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だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。
「ぜひ辺境へ来て欲しい」
※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
真実の愛がどうなろうと関係ありません。
希猫 ゆうみ
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