婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第十四話 義妹は、初めて自分が空っぽだと知りました

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第十四話 義妹は、初めて自分が空っぽだと知りました

その夜、本邸のミレイユの部屋は異様に静かだった。

昨日までなら、泣き声が響いていた。物を投げる音がしていた。侍女たちが怯えながら立ち尽くし、ヘレナが甘い声で宥める気配があった。

だが今夜は違う。

暖炉の火だけが小さく揺れ、部屋の隅に控える侍女たちも、ただ息を殺しているだけだった。

ミレイユは化粧台の前に座り、鏡を見つめていた。

泣いてはいない。

怒ってもいない。

その代わり、顔から表情が消えていた。

さきほど耳に入った王宮での言葉が、まだ頭の中で反響しているのだろう。

王太子妃の席は、泣いてすがるだけの方に整うものではない。

誰がどう言い換えようと、その言葉が自分へ向けられたものだと分かる程度の知恵は、ミレイユにもあった。

だからこそ痛かった。

「ミレイユ様……」

侍女リナが、おそるおそる声をかける。

返事はない。

鏡の中のミレイユは、ただ自分の顔だけを見ていた。

大きな瞳。

白い肌。

守ってあげたくなるような、儚げな雰囲気。

それが自分の武器だった。

ずっとそうだった。

少し困った顔をすれば、誰かが助けてくれた。少し涙を見せれば、誰かが味方してくれた。母はいつも言っていた。お前は可愛いのだから大丈夫。お前は愛される子だから大丈夫。お前は選ばれる側なのだから、無理に何かを持たなくていいのだと。

その言葉を、ミレイユは一度も疑わなかった。

けれど今は違う。

鏡の中の顔を見ていて、初めて分からなくなった。

この顔で、何ができるのだろう。

可愛いと言われて、それで何になるのだろう。

王宮は招かなかった。

社交界は祝福しなかった。

王太子は選んだくせに、何一つ整えてくれない。

それなら、自分の手元には何が残るのか。

「……リナ」

かすれた声だった。

侍女が弾かれたように顔を上げる。

「は、はい」

「わたくし、何ができるのかしら」

リナは固まった。

叱責でもなく、愚痴でもなく、泣き言でもない。ただ、自分の中身を確かめようとする問いだった。

それが、ひどく残酷だった。

「ミレイユ様は……お可愛らしいです」

やっと絞り出した答えは、それだった。

口にした瞬間、リナ自身が青ざめる。

違う。

今、求められているのはそんな答えではない。

ミレイユも分かったのだろう。

鏡の中の自分の口元が、ゆっくり歪んでいく。

「それだけ?」

小さな声だった。

だが、その小ささの方が痛かった。

「わたくし、可愛いだけなの?」

リナは答えられなかった。

歌が上手いわけでもない。礼法が完璧なわけでもない。学園で抜きん出ていたわけでもない。帳簿が読めるわけでも、社交の采配ができるわけでもない。

では何ができるのか。

誰も、本気で考えたことがなかった。

可愛いから。

王子に好かれたから。

それだけで何とかなるつもりで、ここまで来てしまったからだ。

沈黙は、そのまま答えになった。

ミレイユはしばらく動かなかった。

それから、化粧台の上に置かれた香水瓶へ手を伸ばす。高価な硝子瓶だった。柔らかな花の香りがする、彼女の好きな香水だ。母が、令嬢は香りまで武器にしなさいと言って贈ってくれたものだった。

ミレイユはそれを持ち上げた。

そして次の瞬間、鏡へ向かって叩きつけた。

鋭い音が弾ける。

侍女たちが悲鳴を呑み込んだ。

鏡に白い筋が走り、香水が飛び散る。甘い匂いが一気に濃く部屋を満たした。

「ミレイユ様!」

リナが駆け寄ろうとする。

だがミレイユは振り向かなかった。

ひび割れた鏡の中に映る自分を、じっと見ていた。

綺麗な顔が亀裂のせいでいくつにも分かれて見える。それが妙に、本当の自分みたいだった。

可愛いだけ。

泣くだけ。

縋るだけ。

その程度のものが、王太子妃になれると思っていた。

社交界の女たちが、どうしてあんな目で自分を見たのか。王宮の女官たちが、どうしてあんなに冷たかったのか。今なら少しだけ分かる。

自分には、そこへ座るための中身が何もなかったのだ。

ただ、それを誰も教えなかった。

母でさえ。

いや、母こそが教えなかった。

そのとき、扉が勢いよく開いた。

「何事なの!」

ヘレナだった。

後ろには使用人たちが青ざめた顔で控えている。

部屋の惨状を見た瞬間、ヘレナは眉をひそめた。割れた鏡。香水の匂い。蒼白な侍女たち。そして化粧台の前に座り尽くす娘。

「ミレイユ、あなた……」

ヘレナが近づく。

その声には驚きと苛立ちが混じっていた。泣き喚いてくれた方が、まだ扱いやすい。だが今の娘は違う。妙に静かで、その静けさが気味悪かった。

「お母様」

ミレイユが、鏡から目を離さないまま言う。

「何かしら」

「わたくし、何ができるの?」

ヘレナの顔が強張る。

昨日から続いていた不安が、ようやく輪郭を持ったようだった。

この問いにまともに答えれば、娘は壊れる。だが曖昧に誤魔化せば、もう通じない気もした。

「急に、どうしたの」

「答えて」

ミレイユがゆっくり振り向く。

その目には涙がなかった。

泣きすぎて枯れたのかもしれない。あるいは、涙ではもうどうにもならないと知ってしまったのかもしれない。

「わたくし、可愛いだけ?」

ヘレナは一瞬、言葉を失った。

けれどすぐに、母親らしい顔を作り直す。

「そんなわけないでしょう。あなたは優しいわ。愛らしいし、人の心を和ませることもできる。殿下だって、それに惹かれたのよ」

ミレイユはじっと母を見ていた。

昔なら、その言葉で救われた。

昔なら、素直に信じられた。

けれど今は、その言葉がひどく薄く感じる。

優しい。

愛らしい。

和ませる。

それで王宮は動かなかった。

社交界も席を空けなかった。

誰も、自分のために何かを整えてはくれなかった。

「それで?」

ミレイユが問う。

ヘレナが眉を寄せる。

「え?」

「それで、何ができるの?」

追い詰める口調ではなかった。

ただ知りたいのだ。

自分の中身を。

空っぽではないと証明できる何かを。

だが、ヘレナには出せない。

なぜなら、育ててこなかったからだ。

教養も。

礼法も。

家を背負う感覚も。

必要ないと思っていた。

どうせこの子は愛されれば勝てる、と信じていたからだ。

「今さら何を言っているの」

苦し紛れのように、ヘレナは言った。

「あなたは殿下に選ばれたのよ。それが何よりの証でしょう」

「違う!」

初めてミレイユが声を荒げた。

部屋中が震えたようだった。

「違うわ! 選ばれたのに、誰も祝ってくれない! 選ばれたのに、王宮は入れてくれない! 選ばれたのに、何も変わらないじゃない!」

その声は悲鳴に近かった。

ヘレナは娘の顔を見て、初めて背筋が冷えた。

この子は気づき始めている。

王太子に選ばれたことが、万能の通行証ではなかったことに。

そして、その気づきがもっと進めば、いずれ自分にも向かう。

どうして教えてくれなかったの、と。

「ミレイユ」

「うるさい!」

娘は立ち上がった。

ひび割れた鏡の前で、肩を震わせている。

「お母様はいつも大丈夫って言うわ! 可愛いから大丈夫、愛されるから大丈夫、選ばれるから大丈夫って! でも何も大丈夫じゃないじゃない!」

ヘレナが言葉に詰まる。

侍女たちは息もできずに立ち尽くしていた。

誰も入れない。

これはもう、母娘の間で初めて起きた破綻だった。

「わたくし……」

ミレイユの声が、急に小さくなる。

「わたくし、本当に何もないの……?」

その問いは、叫びよりもずっと痛かった。

ヘレナは一歩だけ近づいた。

抱きしめようとしたのかもしれない。けれどミレイユは、さっと身を引いた。

初めてだった。

母の手を、自分から避けたのは。

その一瞬で、部屋の空気が決定的に変わる。

ヘレナの顔色が変わった。

ミレイユ自身も、自分が何をしたか分かっただろう。だがもう戻れない。

一度見えてしまった空っぽさは、見なかったことにはできない。

「……下がって」

ミレイユが侍女たちに言う。

震えてはいたが、泣いてはいなかった。

「皆、下がって」

リナたちはヘレナの顔色を窺う。

ヘレナは数秒黙っていたが、やがてうなずいた。

使用人たちが静かに退室していく。

最後にリナが扉を閉めると、部屋の中には母娘だけが残された。

その頃、別邸ではリディアナがグラントから報告を受けていた。

「本邸で、かなり大きな騒ぎがあったようです」

「そう」

「義妹様が、とうとう継母様へ食ってかかったとか」

リディアナの手が便箋の上で止まる。

「何を言ったの?」

「自分には何ができるのか、と」

マリアベルが小さく目を見開いた。

「まあ」

リディアナはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……遅かったわね」

「はい」

グラントが低く答える。

「ですが、気づかぬまま老いるよりは、まだましかもしれません」

「そうね」

リディアナは静かに頷いた。

可哀想だとは思わない。

同情もしない。

けれど、少しだけ分かる気もした。

ずっと“可愛いだけでいい”と扱われてきた娘が、初めて自分の中身を見ようとしたのだ。そのとき見えたのが空っぽだったなら、それはたしかに残酷だろう。

けれど、それでも見ないよりはましだ。

「義妹は、初めて自分が空っぽだと知ったのね」

「ええ」

「でも、気づいただけでは何も埋まらないわ」

その言葉は冷たかった。

だが、優しさでもあった。

空っぽだと知るところが、ようやく始まりだからだ。

けれどミレイユには、その始まりに耐えるだけの強さがあるだろうか。

リディアナには、まだ分からなかった。
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