婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第十五話 継母は、娘の空っぽさより自分の敗北を恐れました

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第十五話 継母は、娘の空っぽさより自分の敗北を恐れました

本邸の一室に、重い沈黙が落ちていた。

先ほどまで香水の甘い匂いと、割れた鏡の破片に満ちていたミレイユの部屋は、今やそれ以上に、言葉にしづらいものの気配で満ちている。

娘は泣いていない。

怒鳴ってもいない。

ただ、母を見ていた。

その目が、ヘレナには恐ろしかった。

泣いて縋る娘なら扱いやすい。怒って物を投げる娘でも、まだ宥めようがある。だが今のミレイユは違う。初めて、自分の足元を見た者の目をしている。

そして、その目はいずれ自分へ向く。

どうして教えてくれなかったの。

どうして私は、何も持たないままここまで来てしまったの。

そう問われる未来が、ヘレナにははっきり見えた。

それが怖かった。

娘が傷つくことより先に、自分が責められることの方が。

「ミレイユ」

ヘレナは努めて柔らかな声を作った。

「少し落ち着きなさいな」

「落ち着いてるわ」

返ってきた声は、むしろ静かだった。

その静けさに、ヘレナの指先がわずかに強張る。

「では、座りましょう。お茶を淹れさせるわ」

「いらない」

間髪入れずに断られ、ヘレナは一瞬だけ言葉を失った。

昔ならなかったことだ。

ミレイユはいつも、母の差し出すものを素直に受け取った。慰めも、言い訳も、夢の続きを見せる言葉も。

だが今は、そこに手を伸ばさない。

「どうしたの、そんな顔をして」

「そんな顔?」

ミレイユが、ゆっくりと首をかしげる。

ひび割れた鏡の前で、その仕草だけはまだ愛らしく見えた。けれどもう、その愛らしさが何も救わないことを、本人も知ってしまっている。

「お母様こそ、どうしてそんなに怖そうなの」

ヘレナの胸が冷えた。

怖い。

その通りだった。

だが認められるはずもない。

「怖いだなんて、とんでもないわ」

「私はあなたの母よ。あなたのために考えているの」

「本当に?」

ミレイユの問いは、小さいのに妙に鋭かった。

「もちろんよ」

「じゃあ、どうしてわたくしに何も教えてくれなかったの」

ヘレナは息を詰める。

やはり来た。

来ると思っていた言葉が、とうとう目の前に落ちてきた。

「何も、とは」

「礼法でも、帳簿でも、社交でも、王宮のことでも」

ミレイユは一つずつ数えるように言った。

「お姉様は、きっと何でも知っていたのよね」

その一言に、ヘレナの顔がわずかに歪む。

この場でリディアナの名が出ること自体、彼女には面白くなかった。あの娘の名は、今や自分たちの失敗を照らす灯のようになっている。

「リディアナの話は関係ないわ」

「あるわ」

ミレイユは即座に言い返した。

「だって、皆お姉様のことを見ているんでしょう?」

「王宮も」

「社交界も」

「お姉様がいなくなって、困ってるんでしょう?」

ヘレナは答えられなかった。

答えないことが、そのまま答えになってしまうのを分かっていても。

今や王都中が、少しずつそれに気づき始めている。婚約破棄されたのに泣き崩れたのはリディアナではなかった。恥をかいているのも、追い詰められているのも、自分たちの方だ。

「わたくし、お姉様みたいにはなれないの?」

その問いは、ミレイユにしては珍しく素直だった。

嫉妬や当てつけではない。

本気で知りたいのだろう。

どうすれば、自分にも中身が持てるのか。

けれどヘレナは、その問いにも怯えた。

なれるわけがない、と口にすれば娘は壊れる。なれるわよ、と軽く言えば、今度は自分の言葉が完全に空になる。

「あなたはあなたよ」

結局、そんな答えしか出てこなかった。

「リディアナとは違う魅力があるわ」

「またそれ」

ミレイユの口元が歪む。

それは泣き顔ではなく、失望だった。

「違う魅力って、何?」

「可愛いとか、愛されるとか、そういうの?」

「それじゃ足りないって、もう分かったのに」

ヘレナは苛立ちを飲み込めなくなり始めていた。

娘が苦しんでいるのは分かる。だが、ここまで露骨に自分の言葉を否定されれば、母としてではなく、一人の女として腹も立つ。

「足りない足りないって、あなたね」

つい声が硬くなる。

「では聞くけれど、今さら何をしようというの?」

「王宮の礼法を一日で覚えられるとでも?」

「公爵令嬢のように何年も積み上げたものを、すぐに身につけられると?」

言ってから、しまったと思った。

だが遅い。

ミレイユの顔から、最後の血の気まで消えた。

そこまで言われるとは思っていなかったのだろう。自分でも薄々分かっていたことを、母の口から聞かされる。その残酷さを、ヘレナは止められなかった。

「……やっぱり」

ミレイユの唇が震える。

「無理なのね」

「そういう意味ではないわ」

「じゃあどういう意味?」

「私はただ、現実を見なさいと――」

「お母様が、それを言うの?」

その返しは鋭かった。

ヘレナは完全に黙る。

現実を見なかったのは、誰より自分たちだったからだ。王子に選ばれた。それだけで勝ったと思った。相手が何を持っているかも、自分たちが何を持っていないかも、ろくに考えずに。

「……でも、ここで諦めるわけにはいかないの」

ヘレナはようやく絞り出すように言った。

その声には、娘を励ます響きと、自分自身へ言い聞かせる響きが混ざっていた。

「あなたは殿下に選ばれたのよ。その事実は消えないわ。だから、ここから――」

「ここから、何?」

ミレイユが問う。

静かな声だった。

なのに、ヘレナには責め立てられているように聞こえた。

ここから何をするのか。

社交界は冷たい。

王宮は招かない。

王太子は頼りにならない。

娘は空っぽだと知ってしまった。

その状態で、ここから何を積むのか。

ヘレナの頭の中は真っ白だった。

何もない。

何一つ、確かな道がない。

あるのは、ここで負けたくないという意地だけ。

その瞬間、彼女ははっきり理解した。

自分が今、一番恐れているのは娘の空っぽさではない。

自分が負けることだ。

リディアナに。

社交界に。

王妃に。

そして、自分が必ず勝たせられると思っていた娘にすら。

その理解は、ひどく醜かった。

けれど本物だった。

「……ミレイユ」

ヘレナは、もう一度娘へ手を伸ばした。

今度は優しく抱きしめるためではない。縋るために近かったのかもしれない。

「お母様は、あなたを王太子妃にするためにここまで来たの。だから、今さら立ち止まれないのよ」

ミレイユはその言葉を聞いて、しばらく無言だった。

そして、ゆっくりと笑った。

それは明るい笑みではなく、ひび割れた鏡みたいな笑みだった。

「それ、わたくしのためじゃないのね」

ヘレナの顔が固まる。

「何を――」

「お母様、自分のためなのね」

静かな断定だった。

ミレイユはもう泣いていなかった。

泣くより先に、冷えていた。

「わたくしが王太子妃になれば、お母様が勝ったことになる。そう思ってたのね」

「違うわ!」

ヘレナが思わず叫ぶ。

だが、その叫びはあまりに遅かった。

違わない。

少なくとも半分以上は。

それを自分でも分かっているからこそ、声が空々しい。

「……もう、出ていって」

ミレイユが言った。

「ミレイユ」

「出ていって」

今度は、はっきりしていた。

ヘレナは娘を見つめた。

さっきまでなら叱り飛ばせたかもしれない。けれど今はできない。娘の目が、自分を見抜き始めているからだ。これ以上ここにいれば、もっと醜いものをさらしてしまう気がした。

ヘレナは何も言えず、踵を返した。

扉の前で一度だけ立ち止まりかける。

だが結局、振り返らなかった。

扉が閉まる。

部屋に一人残されたミレイユは、その場に立ち尽くしたまま、長く息を吐いた。

泣きたいわけではない。

怒りたいわけでもない。

ただ、ひどく空っぽだった。

母は自分のために戦っていたのではなかった。

王太子は、自分を選んだくせに何も整えてくれない。

社交界も王宮も、自分には席を空けない。

それなら、自分には何が残るのか。

鏡の破片の向こうで、歪んだ自分の顔がいくつにも分かれていた。

それはまるで、空っぽの中身が散らばっているみたいだった。

その頃、別邸ではリディアナが書類を片づけ終えたところだった。

グラントが新たな報告を持って入ってくる。

「本邸ですが」

「ええ」

「継母様と義妹様の間で、かなり深い亀裂が入ったようです」

リディアナは手を止めた。

「そう」

「義妹様が、継母様へはっきり申し上げたとか」

「何を」

「自分のためではなく、ご自分の勝利のために動いていたのではないか、と」

マリアベルが小さく目を見開いた。

「まあ」

リディアナはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「やっと見えたのね」

「はい」

グラントが答える。

「継母様は、娘の空っぽさよりも、ご自身の敗北を恐れておられる。その通りでしょうな」

「ええ」

リディアナは窓の外へ視線を向けた。

本邸の方角は見えない。けれど、あの屋敷の中で何が壊れ始めているかは、もう十分に想像できた。

義妹は、自分が空っぽだと知った。

継母は、自分の醜さを娘に見抜かれた。

王太子は、まだ何も分かっていない。

誰もが少しずつ、自分の足元を失い始めている。

「継母は、娘の空っぽさより自分の敗北を恐れたのね」

「ええ」

「なら、まだ落ちるわ」

リディアナの声は穏やかだった。

だが、その静けさの中には冷えた確信があった。

自分のためではなく、勝つために娘を使った女は、娘に見放された瞬間から、もう一段深く沈む。

そしてそれは、これから始まる転落のほんの入り口でしかなかった。
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