婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第十六話 王太子は、義妹さえ支えきれませんでした

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第十六話 王太子は、義妹さえ支えきれませんでした

翌朝の王宮は、前日にも増して冷えていた。

冬の名残のような薄い空気が石造りの廊下に沈み、窓辺に差し込む光まで、どこか白々しい。行き交う侍従や女官たちは、皆、必要最低限の言葉しか交わさず、それぞれの役目へ急いでいた。

忙しいからではない。

余計なことを口にしたくないからだ。

今の王宮では、誰もが分かっている。原因は一つ。王太子カイルの軽率な婚約破棄と、その後の幼稚な振る舞いだった。

だが、分かっていることと口に出せることは違う。

だから皆、黙って働く。

その沈黙が、王宮全体をひどく冷たくしていた。

その中心にいるはずのカイルは、朝から不機嫌だった。

いや、不機嫌というより、苛立っていた。

昨夜はほとんど眠れなかったのだろう。髪もやや乱れ、礼装もどこか着慣れぬように見える。普段なら侍従が整えてくれる細かな部分まで、今日は雑だった。

細部が乱れる。

それだけで、この男がどれほど周囲に支えられていたかが分かる。

「殿下」

王太子付きの侍従が、おそるおそる声をかける。

「何だ」

「本日のご予定について、女官長より確認が」

「後でいい」

「ですが、午後には王妃殿下とのお時間が」

「後でいいと言った」

侍従はすぐに頭を下げた。

話しかけるだけ無駄だと分かっていても、業務として確認しなければならない。その苦労が顔に出ていた。

カイルは苛立ったまま窓辺へ歩み寄る。

窓の外には王宮の中庭が見えた。きちんと刈り込まれた低木、規則正しく行き交う下働きの者たち、無駄なく整えられた道筋。そのすべてが、彼には今ひどく鬱陶しく見えた。

なぜこんなに周囲が騒がしいのか。

なぜ皆、自分へ協力しようとしないのか。

自分は王太子だ。

この国の次代を担うはずの男だ。

ならば、リディアナとの婚約を終わらせ、ミレイユを選んだのなら、周囲はそれを整えるべきではないのか。

そう思っている顔だった。

そこへ、別の侍従が慌てて入ってくる。

「殿下」

「今度は何だ」

「その……ミレイユ様付きの侍女から、急ぎのお取り次ぎ願いが届いております」

カイルが振り向いた。

「ミレイユから?」

「はい。ご本人が、殿下にお会いしたいと」

一瞬、カイルの顔つきが変わる。

今の彼にとって、ミレイユだけはまだ“自分を選んでくれた世界”の象徴だったのだろう。王妃は冷たい。王宮はうるさい。書類は面倒だ。リディアナは従わない。そんな中で、ミレイユだけは自分を求めている。

そう思えば、少しは気分も戻る。

「会う」

即答だった。

侍従が目を伏せる。

「ですが、王妃殿下とのご予定が」

「後にしろ」

「殿下」

「聞こえなかったのか。会うと言った」

声が荒くなる。

侍従は青ざめて頭を下げた。

「失礼いたしました」

王妃との予定より、義妹との面会を優先する。

その幼稚さに、その場の誰もがうんざりしていた。

だが止められない。止めれば余計に面倒になるからだ。

その頃、本邸ではミレイユが客間で座っていた。

昨日までの華やかな装いではない。淡い色のドレスではあるが、襟元も袖口も少し乱れていて、顔色も良くなかった。泣きはらした目元をどうにか化粧で隠しているが、近くで見ればすぐ分かる。

ヘレナは少し離れた席にいた。

昨日の口論以来、母娘の間には妙な距離がある。あからさまに憎み合っているわけではない。だが、元通りではない。それだけははっきりしていた。

「本当にお呼びしてよかったのかしら」

ヘレナが低く言う。

ミレイユは正面を見たまま答えた。

「お呼びしたんじゃないわ。お願いしただけよ」

「同じことです」

「違うわ」

その言い方に、ヘレナは少しだけ眉をひそめた。

娘が妙に冷たい。

以前なら、王太子に会えると聞いただけで頬を染め、母と手を取り合って喜んだはずなのに。だが今のミレイユには、そんな甘さがない。残っているのは、不安と焦りだけだった。

自分は本当に選ばれたのか。

選ばれたのなら、なぜ何も整わないのか。

それを本人の口から聞かなければ、もう持ちこたえられないところまで来ているのだろう。

やがて、王宮からの馬車が到着した。

客間へ通されたカイルは、思っていたより疲れた顔をしていた。それでもミレイユを見ると、少しだけ表情を和らげる。

「ミレイユ」

「殿下」

ミレイユは立ち上がり、一礼した。

それはいつものような甘えた仕草ではなく、どこか張りつめた動きだった。カイルもそれに気づいたのか、わずかに戸惑った顔をする。

「どうした」

「お会いしたかったのです」

「私もだ」

そう言って近づこうとする。

けれどミレイユは、ほんの半歩だけ退いた。

カイルの足が止まる。

その小さな距離が、今の二人のすべてを表していた。

「聞きたいことがございます」

ミレイユが言う。

「何だ」

「わたくしは、本当に殿下に選ばれたのですか」

カイルが眉を寄せる。

「何を言っている。当たり前だろう」

「では、なぜ誰も祝ってくれないのですか」

カイルは一瞬、言葉を失った。

祝ってくれない。

たしかにそうだ。社交界は冷たい。王宮も動かない。王妃も協力的ではない。けれど彼の頭の中では、それは“周囲が理解していないせい”であって、自分の選択の価値とは別の問題だった。

だから答えが曖昧になる。

「今は少し、皆がうるさいだけだ」

「うるさい?」

「そうだ。婚約の整理だの何だの、くだらぬことを並べ立てている」

その言葉を聞いたとき、ヘレナがさっと顔色を変えた。

くだらぬこと。

この男は、今の状況をまだそう呼ぶのか。王宮の混乱も、王妃の不機嫌も、社交界の冷えも、全部“周囲がうるさい”で片づけるつもりなのか。

昨日までなら、ヘレナもそれに乗ったかもしれない。だが、さすがに今は少し違った。

「殿下」

口を開いたのはミレイユだった。

「では、王宮はいつわたくしを迎えてくださるのですか」

「それは……」

カイルが詰まる。

迎える。

準備。

整える。

そのどれ一つとして、まだ進んでいないのだ。彼自身が、そこをうまく回せていない。いや、回すという発想すら持っていない。

「そのうちだ」

やっと出た答えは、それだった。

あまりに薄い。

あまりに頼りない。

ミレイユの顔から、さらに色が引く。

「そのうちって、いつですの」

「落ち着けばだ」

「何が落ち着けば?」

「……王宮が」

「王宮が落ち着くまで、わたくしは何者でもないまま待てということですか」

声は荒くない。

けれど、その一言は鋭かった。

カイルは苛立ったように眉を寄せる。

「何者でもないとは何だ。お前は私が選んだ女だ。それだけで十分だろう」

その瞬間、ミレイユの目が完全に冷えた。

やっと分かったのだ。

この男は、自分を支えるつもりがない。

いや、支え方を知らない。

“選んだ”という言葉だけで、相手が満たされると思っている。その先を整える責任も、力も、覚悟もない。

ただ手を取った。

ただ言葉にした。

それだけで終わっている。

「……十分ではありません」

ミレイユが、はっきりと言った。

客間が静まり返る。

カイルの顔が硬くなる。

ミレイユはもう退かなかった。

「社交界は冷たいです。王宮は招きません。お母様は大丈夫だと仰るけれど、もうそれだけでは駄目だと分かりました。それでも殿下は、“そのうち”としか仰らないのですね」

その言葉には、責める響きより失望があった。

それがかえって、カイルの癇に障った。

「何だ、その言い方は。私はお前のために、あれだけのことをしたのだぞ」

あれだけのこと。

婚約破棄のことだろう。

大勢の前でリディアナを踏みにじり、周囲を混乱させ、王宮を怒らせたことを、この男は“してやったこと”として数えている。

ヘレナの背筋に、ぞっとするようなものが走った。

やはりこの男は危うい。

ミレイユを支えるどころか、自分のしたことを恩着せがましく語る。そのうえ、何も整えられない。

「わたくしのため?」

ミレイユが繰り返す。

その声はもう泣いていなかった。

「殿下は、本当にわたくしのために何かなさいましたか」

カイルの目が見開かれる。

反論しようとして、言葉が出ない。

自分は選んだ。その一点しかないからだ。

選んだあとに何をしたのか。

何もしていない。

何もできていない。

その事実が、今ここで初めて彼自身にも少しだけ触れたのかもしれない。けれどそれを認める代わりに、彼は怒った。

「お前まで私を責めるのか!」

声が大きくなる。

客間に控えていた侍女がびくりと肩を揺らす。ヘレナも、思わず顔をしかめた。

そこで怒鳴るのか。

支える力もないくせに、責められたら怒鳴るのか。

「責めてなどおりません」

ミレイユが静かに言った。

「ただ、知りたかっただけです。殿下は、わたくしを支えてくださるのかと」

その言葉に、カイルは何も返せなかった。

できないからだ。

支えるとはどういうことか、この男は知らない。リディアナが黙って支えていたから、自分が支える側に回る必要がなかった。だから今、何も持たない。

「……今日は、もうお帰りください」

ミレイユの声は冷たかった。

カイルが顔を上げる。

「何?」

「お帰りくださいませ」

「ミレイユ!」

「わたくし、少し疲れました」

それは追い返しだった。

しかも泣いて縋るのではなく、静かに切って捨てる形で。

カイルは一瞬、信じられないという顔をした。

自分が呼ばれて来たのに。

自分が選んだ女に。

追い返される。

その現実が、彼にはひどく屈辱だったのだろう。

「……勝手にしろ」

吐き捨てるように言うと、彼は踵を返した。

扉が荒く閉まる。

残された客間に、重たい静けさが落ちた。

ヘレナは何も言えなかった。

ミレイユの横顔を見て、分かってしまったからだ。

この子はもう、王太子に夢を見ていない。

少なくとも昨日までのようには。

「ミレイユ……」

「お母様」

先に口を開いたのは娘の方だった。

「何かしら」

「殿下は、何も持っていないのね」

ヘレナは答えられなかった。

その通りだからだ。

選ぶと口にするだけ。

責任も、段取りも、支える力もない。

そんな男に選ばれたところで、何の保証にもならない。

その現実は、娘だけでなく母にとっても残酷だった。

別邸では、その日のうちに報告が届いた。

グラントが簡潔に伝える。

「王太子殿下が本邸へ赴いたそうです」

「へえ」

リディアナは手元の書類から顔を上げた。

「それで?」

「義妹様に問い詰められたようです」

「何を」

「選んだあと、何をしてくれたのか、と」

マリアベルが静かに目を瞬いた。

「ずいぶん育ちましたね」

「ええ」

グラントも低く答える。

「そして殿下は、支えきれなかったようでございます」

リディアナは少しだけ黙ったあと、小さく息を吐いた。

予想通りだった。

あの男に、誰かを支える力などない。

あるのは、選ぶつもりでいる傲慢さだけ。

そしてその傲慢さは、相手が従うときにしか機能しない。従わなければ、ただの空虚な命令になる。

「王太子は、義妹さえ支えきれませんでしたのね」

「はい」

「なら、もう終わりが近いわ」

リディアナの声は静かだった。

けれど、その静けさには確信があった。

義妹は、継母の空虚さを知った。

そして今、王太子の空虚さも知った。

頼る先が二つとも中身のない殻だったと分かれば、人は急に立てなくなる。

そして、その崩れ方はたいてい醜い。

窓の外では、夕方の光が庭を長く染めていた。

一日ごとに、嘘の化粧が剥がれていく。

残るのは、最初からそこにあった空っぽさだけだった。
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