婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第十八話 王妃は、息子ではなく損失を見るようになりました

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第十八話 王妃は、息子ではなく損失を見るようになりました

王妃ロザリアの私室に隣接する小会議室は、夜でも明るかった。

壁際の燭台には火が絶やされず、長机の上には整然と書類が積まれている。帳簿、照会状、返答待ちの一覧、王太子付きから回ってきた未確認案件、そして商会ごとの支払い遅延記録。どれも本来なら、王妃が自ら夜更けまで目を通すようなものではない。

だが今は違った。

誰かに任せて済む段階を過ぎている。

王太子が何を壊し、何がどこまで揺らぎ始めているのかを、もう自分の目で確認しなければならなかった。

「こちらが、本日夕刻までに届いた追加分にございます」

女官長が新たな書類の束を差し出す。

ロザリアは受け取り、黙ったまま一枚目に目を通した。

王立学園より。

追加拠出の扱いについて、王太子後援名義ではなく、家名単独での寄付へ変更を希望。

二枚目。

王宮御用達の仕立屋より。

王太子殿下ご利用分の支払い手順見直しについて確認願い。

三枚目。

東部街道整備の現場管理より。

保証再確認が済むまで、次工程着手は困難。

ロザリアは紙を置いた。

音は小さい。

だが、その静けさがかえって部屋の空気を冷やした。

「増えているわね」

「はい」

会計係が頭を下げる。

「今朝までは局所的な混乱かと思われましたが、現時点では、複数の実務が同時に“確認待ち”へ移行しております」

「確認待ち……」

ロザリアはその言葉を繰り返した。

止まった、ではない。

壊れた、でもない。

確認待ち。

つまり、誰も前へ進めないのだ。

王太子の婚約破棄によって、今まで当然のように動いていた前提が消えた。その前提が何だったのか、皆がようやく気づき始めている。

「カイルは?」

ロザリアが問う。

女官長と会計係が、ほんのわずかに視線を交わした。

その一瞬で答えは見えた。

「先ほどお呼びしましたが、まだお見えではございません」

「理由は?」

「……お疲れとのことで」

ロザリアは何も言わなかった。

怒る気力すら惜しい。

疲れているのはこちらも同じだ。

いや、この部屋にいる全員が疲れている。

だが、疲れたからといって席を外せる者と、外せぬ者がいる。

その違いすら、息子はまだ学んでいない。

「王妃陛下」

女官長が、静かに言う。

「本日のご報告を総合いたしますと」

「何かしら」

「問題は、もはや殿下個人の不始末という範囲に収まっておりません」

「分かっています」

ロザリアは即答した。

「だからこそ、こうして見ているのでしょう」

女官長はそれ以上言わなかった。

だが、その沈黙の奥には、もう一つの意味がある。

見ているのは、息子の失態ではない。

失われたものの総量だ。

王妃はそのことを、自分でも認めざるを得なかった。

昨夜までは違った。

舞踏会での婚約破棄を聞いたとき、最初に頭へ浮かんだのは王家の体面だった。愚かな息子め、と思った。だがまだ、その程度だった。

王族の若気の至り。

後で整えればいい。

そういう感覚が、どこかにあった。

だが今は違う。

この一日半で、彼女は嫌でも理解し始めている。

失ったのは体面だけではない。

黙って埋めていた者の手だ。

表に出ないまま、王太子の未熟さを実務で支え、社交で整え、信用で覆っていた者の存在だ。

そして、その者は、ただ有能なだけではなかった。

王家全体を道連れにする愚かさまでは持っていない。

怒りの中でなお線を引ける女だった。

だからこそ、なおさら痛い。

「伯爵夫人からの報告は」

ロザリアが問うと、女官長が一通の封書を差し出した。

昼間の会談の要約だ。

ロザリアは封を切り、目を走らせる。

文面は簡潔だった。

リディアナは、殿下個人の尻拭いをする意志はない。

ただし、国の機能まで巻き込むつもりもない。

責任の所在を分けて考えている。

そこまで読んだところで、ロザリアは長く息を吐いた。

「……そうでしょうね」

「と、申しますと」

女官長が問う。

「リディアナはそういう娘です」

ロザリアは便箋をたたんだ。

「感情だけで全部を壊すほど愚かではない。ですが、それは同時に、こちらが“甘えられない”ということでもあるわ」

都合のいい時だけ頼り、都合が悪くなれば黙って支えさせる。

そういう相手ではないと、今さらながら王妃自身も理解していた。

以前から見ていたはずだった。

冷静で、よく周りが見えて、無駄に騒がず、必要なことを必要な順で片づける娘。次代の王太子妃として、王家には過ぎるほどの相手だった。

それなのに自分は、息子に甘かった。

どうせリディアナがうまく整えるだろうと、どこかで思っていた。

「王妃陛下は、お会いになるおつもりはあるのかしら」

ロザリアが問うと、女官長は少し考えてから答えた。

「今すぐには、ないでしょう。ですが、必要になれば必ず」

「必要に、ね」

「ええ」

ロザリアは短く笑った。

乾いた笑いだった。

今の王宮は、認めたくないことをいくつも認め始めている。その一つが、リディアナを失った痛手だ。

しかもその痛手は、感情ではなく書類の形で積み上がっている。

それが何よりきつかった。

「今後の方針について、いくつかご裁可をいただきたく」

会計係が、恐る恐る口を開く。

「申して」

「まず、王太子殿下周辺で個別に回していた支払いですが、一度王宮会計へ完全に戻した方がよろしいかと」

ロザリアはうなずいた。

当然だ。

今までの“誰かが何とかしてくれる”形を一度切らなければ、どこがどれだけ歪んでいるかさえ見えない。

「そうなさい。ただし、優先順位は明確に。体面のための飾りより、止まると困る現場から先です」

「かしこまりました」

会計係の顔が、ほんの少しだけ安堵する。

やるべきことが定まれば、人は多少は動ける。

「それから、王太子付きで勝手に進められていた案件は、すべて一覧化なさい。小さいものも漏らさず」

「はい」

「そして、どこまでが婚約前提で動いていたか、必ず印をつけて」

女官長が目を細めた。

「失われた部分を可視化なさるのですね」

「ええ。見ないままでは、息子を叱ることも、王家を立て直すこともできないわ」

それは本音だった。

感情ではもう足りない。

なんてことをしたの、では済まないのだ。

今必要なのは、数字と手順と停止箇所。

つまり損失そのものだった。

そのとき、扉の外で控えめなノックがした。

女官が入り、一礼する。

「王妃陛下」

「何」

「殿下がお見えです」

ロザリアは一拍おいてから言った。

「通しなさい」

やがて入ってきたカイルは、明らかに不機嫌だった。

だが王妃は、そんな息子の顔を見ても、もう以前ほど感情は動かなかった。情けない、とすら思わない。今はただ、面倒な確認対象が来た。それだけに近い。

「遅かったわね」

「呼ばれたので来ました」

とげのある言い方だった。

以前ならそれだけで眉をひそめたかもしれない。けれど今のロザリアは、息子の機嫌より机の上の書類の方が重要だった。

「座りなさい」

カイルは渋々椅子へ座る。

女官長が一覧を差し出す。

「こちらが、現在滞りの出ている項目でございます」

「多すぎる」

カイルは見るなり言った。

「だから整理しているのでしょう」

ロザリアの返しは冷たかった。

「一つずつ確認なさい」

「なぜ私が」

「あなたの名で動いていたものが多いからです」

その答えに、カイルは一瞬だけ言葉を失った。

それはそうだ。

だが、どこか納得がいかない。

今までそんな確認は必要なかった。

必要な形に整って出てきていたからだ。

そして、その“必要な形”を作っていたのが誰かを思い出すと、ひどく腹立たしい気持ちになった。

リディアナだ。

あの女は、いなくなるならいなくなるで、もっと穏便にやれなかったのか。

そう責める気持ちが頭をもたげる。

だが、それを口にすれば負けのような気もして、カイルは黙った。

「まず、仕立屋と宝飾商の件です」

女官長が説明を始める。

「これまで殿下個人のご利用分であっても、将来的な婚約関係を含めた信用により柔軟に処理されていたものが、現在は通常手順へ戻されております」

「通常手順へ戻ることの何が問題なのだ」

カイルが言う。

女官長は一瞬だけ目を伏せ、それから答えた。

「殿下が通常手順を面倒とお感じになる程度には、問題かと」

一瞬、部屋が凍った。

誰もが思っていることを、この女官長は言ってしまったのだ。

だが、言われても仕方のない状況だった。

「……つまり、ミレイユはまだ王宮へ入れられぬと?」

「正式には」

「では非公式でよい」

「なおさら不可能です」

今度は侍従長補佐が言った。

「昨夜の件で、すでに王宮内は大変敏感になっております。今そのような形でお迎えすれば、余計な憶測と反発を招きます」

要するに、歓迎されていないのだ。

少なくとも実務を回している側には。

だがカイルは、その現実をうまく飲み込めない。

ミレイユを選んだのは自分だ。

ならば、皆が道を開けるべきだと思っている。

そこに手続きがあり、体面があり、過去の婚約者との整理があり、王妃の思惑があることを、理解していない。

理解しようともしていない。

「覚えておきなさい」

ロザリアが静かに言った。

「私はもう、あなたの気分ではなく、損失を見ることにしたわ」

その一言に、カイルは初めて本当に言葉を失ったようだった。

母が自分の味方ではなくなった。

いや、正確には違う。

母は最初から王家の側にいる。

ただ今までは、息子を王家の中に含めて見ていた。

それが今、切り分けられ始めたのだ。

あなた個人と、王家の損失を。

その変化が、ようやく少しだけ伝わったのかもしれない。

「下がりなさい」

ロザリアが言う。

「今夜はもう結構です」

「母上……」

「下がりなさい」

二度目には、従うしかなかった。

カイルが立ち去ったあと、部屋には再び静けさが戻る。

女官長がそっと問うた。

「よろしかったのですか」

「何が」

「かなり明確に、お伝えになりました」

ロザリアは机の上の一覧へ目を落とした。

「もう、そうするしかないでしょう」

そして、誰に聞かせるでもなく続ける。

「息子として見るから、腹が立つのよ。でも損失として見れば、ようやく整理できるわ」

その言葉は母としてはひどく冷たかった。

だが王妃としては、むしろ正しかった。

感情で庇ってきた結果が、今のこの惨状なのだから。

その頃、別邸ではグラントが新しい報せを伝えていた。

「王妃陛下ですが」

「ええ」

「どうやら、殿下ではなく損失の方をご覧になるようになったようです」

リディアナは書きものの手を止めた。

「そう」

「はい。王宮内で、止まった実務と婚約前提案件の洗い出しが始まったとか」

マリアベルが静かにうなずく。

「やっと現実に触れ始めましたね」

「ええ」

リディアナは短く答えた。

驚きはない。

遅いとも思う。

だが、それでも大きな変化だった。

王妃が息子を“未熟な王子”としてではなく、“具体的な損失を出した人物”として見始めたなら、もう以前のようには戻らない。

それはカイルにとって、かなり痛いことのはずだ。

「王妃は、息子ではなく損失を見るようになったのね」

「そのようです」

「なら、少しは進むわ」

リディアナは再びペンを取った。

進む。

ただし、良い方向とは限らない。

現実が見えれば見えるほど、誰がどれだけ浅はかだったかもはっきりするからだ。

けれど、もう夢や感情だけで誤魔化せる段階ではない。

そこまで来たことだけは、確かだった。
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