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第二十話 王太子は、叱られるより笑われる方が痛いと知りました
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第二十話 王太子は、叱られるより笑われる方が痛いと知りました
その夜、王宮へ戻ったカイルは、明らかに機嫌を損ねていた。
いや、機嫌というより、傷ついていた。
ただし本人は、それを傷だと認めたくないらしい。だから苛立ちへ変えている。廊下ですれ違った侍従が一礼しても返事をせず、女官が予定確認のために立ち止まれば露骨に顔をしかめる。
子どもじみている。
だが今の王宮には、その幼さを面と向かって指摘する者はいない。
「殿下、お戻りでございますか」
控えの侍従が頭を下げる。
「見れば分かるだろう」
冷たい返答だった。
侍従はすぐに口を閉ざしたが、その一瞬だけ、目の奥に浮かんだ感情をカイルは見逃さなかった。
憐れみとも、呆れともつかない色。
それが、彼の神経を妙に逆撫でした。
倶楽部でもそうだった。
表向きは敬っている。
だが奥にある空気が違う。
以前のような緊張や遠慮ではなく、何か別の、薄い笑いの膜のようなものが張っている。
あれは何だ。
なぜあんな目で見られなければならない。
自室へ入るなり、カイルは外套を乱暴に椅子へ放った。
グラスを取り、酒を注ぐ。
飲みたいわけではない。
ただ、手持ち無沙汰を埋めたいだけだ。
だが一口飲んでも、不快さは薄れなかった。むしろ、倶楽部で交わされた何気ないやり取りが、妙に鮮明に蘇ってくる。
新しいご婚約のお話は、その後いかがですかな。
あの言い方。
気安く、軽く、探るような声音。
問いそのものより、その軽さが腹立たしかった。
以前なら、ああは聞かれなかった。王太子の婚約に関わる話題を、あんなふうに酒の肴みたいに扱う者はいなかったはずだ。
なのに今日は、あった。
それも一人ではない。
別の男の、妙に抑えた笑みも思い出す。
「……ふざけた連中め」
低く吐き捨てたそのとき、扉が叩かれた。
「何だ」
「王妃殿下より、お言葉を預かっております」
女官の声だった。
カイルは顔をしかめる。
今は母の顔など見たくもない。
だが伝言だけなら聞かないわけにもいかない。
「申せ」
扉越しに、女官は淡々と告げた。
「明朝一番に、未確認案件の確認をなさるようにと」
「またそれか」
思わず声が荒くなる。
「殿下。王妃殿下は、そのようにと」
「……分かった」
そう返すしかない。
女官の足音が遠ざかってから、カイルは舌打ちした。
書類、確認、支払い、整理。
ここ数日、そんな言葉ばかりだ。
なぜ自分がこんなことに煩わされなければならないのか。
だが、その苛立ちの下に、別の痛みがあることを、彼はまだうまく認められなかった。
叱られることには慣れている。
王妃に冷たくされるのも、国王に眉をひそめられるのも、今に始まったことではない。窮屈だとは思うが、それはまだ“自分が上にいる”感覚を残していた。
だが笑われるのは違う。
笑われるということは、相手が自分を上とは見ていないということだ。
その事実が、今の彼には妙に痛かった。
翌朝。
王宮の会議机には、また新しい一覧が並んでいた。
未確認案件。
婚約前提で動いていた便宜。
王太子個人の支払いと王宮会計が曖昧になっていた項目。
ロザリアは席についていたが、今朝は特に言葉が少ない。
怒りを通り越し、すでに作業の顔になっている。
それがかえってカイルには不快だった。
母が自分へ感情を向けない。
その代わりに書類を見る。
まるで自分が、問題の一部でしかないように。
実際そうなのだが、彼はまだそこまで割り切れない。
「座りなさい」
ロザリアが言う。
カイルは無言で席についた。
女官長が一覧を差し出す。
「こちらが、現在滞りが出ている項目にございます」
カイルは一瞥しただけで顔をしかめた。
「多すぎるな」
「多すぎるのではなく、多かったものが見えるようになったのです」
ロザリアが淡々と言う。
「ひとつずつ確認しなさい」
「なぜ私がそんなことを」
「あなたの名で動いていたものが多いからよ」
当然の返答だった。
だがカイルは、それでも納得がいかない顔をしている。今まで、こんなことは自分の仕事ではなかった。目の前に整った形で出されるものに判を押すだけで済んでいた。そういう感覚が抜けきっていないのだろう。
そして、その“整った形”を誰が作っていたのかも、まだ完全には理解していない。
「まず、衣装関係と宝飾品の手配です」
女官長が説明を始める。
「これまで殿下個人のご利用分であっても、婚約関係を含む信用により、かなり柔軟に処理されていた部分がございました」
「柔軟に、とは何だ」
カイルが不機嫌そうに言う。
女官長は一拍置いてから答えた。
「本来なら確認が必要な品を、後日処理で済ませていたということです」
「それがどうした」
「今後は、そうはいかぬということです」
短いやり取りだったが、部屋の空気は冷えた。
カイルは顔をしかめ、次の書類へ目を落とす。
「では次に、街道整備の件です」
会計係が引き取った。
「こちらは婚約関係を前提にした保証が組み込まれていたため、再確認が済むまで次工程が保留になっております」
「馬鹿馬鹿しい」
カイルが吐き捨てる。
「婚約ひとつ終わったくらいで、そこまで大げさにする必要があるのか」
ロザリアが、そこで初めてはっきりと顔を上げた。
「婚約ひとつ、ですって?」
「そうだ」
「何度も言いますが、あなたが終わらせたのは、ただの恋愛ではありません。婚約は、家と家、信用と実務の前提でもあったのです。それを大勢の前で、一方的に切った。その結果が今、この紙の山になっているのよ」
カイルは言い返そうとした。
だが、すぐには言葉が出ない。
その沈黙の間に、会計係が次の一枚を差し出した。
「王立学園については、支援そのものを完全に止めたい意図ではないようです」
「では何だ」
「王太子後援の名目を避けたいと」
カイルの顔が歪む。
「避けたい?」
「はい」
会計係の声はますます慎重になる。
「今の状況で、その名で金が動くことを、先方は警戒しております」
部屋の空気が重く沈む。
ロザリアはそこでようやく、机の上の書類をひとまとめに整えた。
その仕草には妙な静けさがあった。
「カイル」
「何です」
「あなた、叱られることには慣れているのでしょうね」
突然の言葉に、カイルが目を瞬く。
「……は?」
「国王に眉をひそめられることも。私に咎められることも」
「それは王太子である以上、多少は覚悟しております」
「でしょうね」
ロザリアは視線を逸らさなかった。
「でも、笑われることには慣れていないはずよ」
その一言に、カイルの顔つきが変わった。
ぴたりと、空気が止まる。
女官長も会計係も動かない。
それほど、その言葉は直接的だった。
「何を仰りたいのです」
かすかに掠れた声で、カイルが言う。
ロザリアは容赦しなかった。
「王宮内の者たちは、まだ笑いません。仕事があるからよ。でも社交界は違うわ。彼らはもう、あなたを『婚約を壊した後の責任も取れず、周囲の支えが消えた途端に立ち往生した王太子』として見始めている」
カイルの手が、机の上でわずかに握られる。
図星だった。
感じているのだろう。その空気を。誰も露骨には言わない。けれど、以前のような緊張も遠慮もない、薄い笑いの膜みたいなものが自分を包み始めていることを。
「誰がそんなことを」
やっと絞り出した反論は、それだけだった。
「誰かが明言したかどうかの話ではありません。空気の話よ。視線の話よ。あなたも感じているから、そんな顔をしているのでしょう」
カイルは口を閉ざした。
怒鳴ることもできない。
なぜなら、本当に感じているからだ。
倶楽部での軽い問いかけ。侍従の一瞬の目。女官たちの職務だけの礼。すべてが、少しずつ、だが確実に変わっている。
そしてその変化は、叱責よりずっと痛い。
叱られるうちは、まだ相手にとって問題として扱われている。だが笑われるというのは、相手がもう自分を上に見ていないということだ。
その痛みが、遅れて彼を刺し始めていた。
「……母上は」
カイルがようやく言う。
「私が笑われていると、そう仰るのですか」
「もう始まっているわ」
ロザリアの答えは冷たかった。
「そして、放っておけば広がる。だから私は、あなたの機嫌より先に、損失を止めることにしたの」
その言葉で、ようやくカイルの顔に本当の衝撃が走った。
母が自分の味方をやめた、と思ったのかもしれない。
だが違う。
ロザリアは最初から王家の側にいる。ただ今までは、息子の失点を“王太子として未熟だから”という甘さで見てきた。今はもう、それが通らないだけだ。
「今日はここまでにします」
ロザリアが言った。
「ですが、逃げても消えませんよ。この損失も、この笑いも」
カイルは椅子を引いた。
乱暴ではない。むしろ妙に静かだった。
その静けさの方が危うかった。
何も言わずに部屋を出ていく。その背中は怒りで張っているのに、どこか小さく見えた。
扉が閉まる。
女官長が、そっと息を吐いた。
「かなりお伝えになりましたね」
「ええ」
ロザリアは視線を机へ落とす。
「でも、あの子にはあのくらい言わないと届かないわ。叱責ではもう足りないもの」
その頃、本邸ではミレイユが一人で窓辺に立っていた。
王太子を見限った静けさは、まだ彼女の中に残っている。けれど心が軽くなったわけではない。頼る相手を一つ失っただけで、自分が急に何かを持てるようになるわけではなかった。
彼女はただ、夜の庭を見ながら考えていた。
王太子は自分を選んだ。
だが、それだけだった。
何も整えず、何も守らず、何も与えなかった。
それなら、自分はいったい何のためにあの男へ縋ろうとしていたのだろう。
答えは出ない。
ただ、以前のように夢を見ることだけはできなかった。
別邸では、グラントが簡潔な報告を伝えていた。
「王妃陛下が、殿下へはっきりお伝えになったようです」
「何を?」
リディアナが尋ねる。
「叱責よりも、笑われることの方が痛いと、殿下が知る段に入った、と」
リディアナは小さく目を伏せた。
「そう」
「かなり堪えておられるようでございます」
「でしょうね」
彼女は静かに答える。
「叱られるうちは、まだ自分が上にいるつもりでいられるもの。でも笑われたら終わりよ。自分が舞台の上から落ちたって、嫌でも分かるから」
マリアベルが黙ってうなずく。
窓の外では、夕方の光が庭を薄く染めていた。
笑いは残酷だ。
怒りのように燃えない。
断罪のように派手でもない。
ただ、静かに人の足場を削っていく。
そしてその削れた場所に立っている本人だけが、遅れて痛みを知る。
「王太子は、叱られるより笑われる方が痛いと知ったのね」
「はい」
「なら、ようやく本当の意味で傷つき始めたのだわ」
リディアナの声は穏やかだった。
けれどそこには、冷えた確信があった。
大勢の前で人を切り捨てた男が、今になってようやく知る。
自分が切ったものより、自分が笑われる痛みの方が、ずっと長く残るのだと。
その夜、王宮へ戻ったカイルは、明らかに機嫌を損ねていた。
いや、機嫌というより、傷ついていた。
ただし本人は、それを傷だと認めたくないらしい。だから苛立ちへ変えている。廊下ですれ違った侍従が一礼しても返事をせず、女官が予定確認のために立ち止まれば露骨に顔をしかめる。
子どもじみている。
だが今の王宮には、その幼さを面と向かって指摘する者はいない。
「殿下、お戻りでございますか」
控えの侍従が頭を下げる。
「見れば分かるだろう」
冷たい返答だった。
侍従はすぐに口を閉ざしたが、その一瞬だけ、目の奥に浮かんだ感情をカイルは見逃さなかった。
憐れみとも、呆れともつかない色。
それが、彼の神経を妙に逆撫でした。
倶楽部でもそうだった。
表向きは敬っている。
だが奥にある空気が違う。
以前のような緊張や遠慮ではなく、何か別の、薄い笑いの膜のようなものが張っている。
あれは何だ。
なぜあんな目で見られなければならない。
自室へ入るなり、カイルは外套を乱暴に椅子へ放った。
グラスを取り、酒を注ぐ。
飲みたいわけではない。
ただ、手持ち無沙汰を埋めたいだけだ。
だが一口飲んでも、不快さは薄れなかった。むしろ、倶楽部で交わされた何気ないやり取りが、妙に鮮明に蘇ってくる。
新しいご婚約のお話は、その後いかがですかな。
あの言い方。
気安く、軽く、探るような声音。
問いそのものより、その軽さが腹立たしかった。
以前なら、ああは聞かれなかった。王太子の婚約に関わる話題を、あんなふうに酒の肴みたいに扱う者はいなかったはずだ。
なのに今日は、あった。
それも一人ではない。
別の男の、妙に抑えた笑みも思い出す。
「……ふざけた連中め」
低く吐き捨てたそのとき、扉が叩かれた。
「何だ」
「王妃殿下より、お言葉を預かっております」
女官の声だった。
カイルは顔をしかめる。
今は母の顔など見たくもない。
だが伝言だけなら聞かないわけにもいかない。
「申せ」
扉越しに、女官は淡々と告げた。
「明朝一番に、未確認案件の確認をなさるようにと」
「またそれか」
思わず声が荒くなる。
「殿下。王妃殿下は、そのようにと」
「……分かった」
そう返すしかない。
女官の足音が遠ざかってから、カイルは舌打ちした。
書類、確認、支払い、整理。
ここ数日、そんな言葉ばかりだ。
なぜ自分がこんなことに煩わされなければならないのか。
だが、その苛立ちの下に、別の痛みがあることを、彼はまだうまく認められなかった。
叱られることには慣れている。
王妃に冷たくされるのも、国王に眉をひそめられるのも、今に始まったことではない。窮屈だとは思うが、それはまだ“自分が上にいる”感覚を残していた。
だが笑われるのは違う。
笑われるということは、相手が自分を上とは見ていないということだ。
その事実が、今の彼には妙に痛かった。
翌朝。
王宮の会議机には、また新しい一覧が並んでいた。
未確認案件。
婚約前提で動いていた便宜。
王太子個人の支払いと王宮会計が曖昧になっていた項目。
ロザリアは席についていたが、今朝は特に言葉が少ない。
怒りを通り越し、すでに作業の顔になっている。
それがかえってカイルには不快だった。
母が自分へ感情を向けない。
その代わりに書類を見る。
まるで自分が、問題の一部でしかないように。
実際そうなのだが、彼はまだそこまで割り切れない。
「座りなさい」
ロザリアが言う。
カイルは無言で席についた。
女官長が一覧を差し出す。
「こちらが、現在滞りが出ている項目にございます」
カイルは一瞥しただけで顔をしかめた。
「多すぎるな」
「多すぎるのではなく、多かったものが見えるようになったのです」
ロザリアが淡々と言う。
「ひとつずつ確認しなさい」
「なぜ私がそんなことを」
「あなたの名で動いていたものが多いからよ」
当然の返答だった。
だがカイルは、それでも納得がいかない顔をしている。今まで、こんなことは自分の仕事ではなかった。目の前に整った形で出されるものに判を押すだけで済んでいた。そういう感覚が抜けきっていないのだろう。
そして、その“整った形”を誰が作っていたのかも、まだ完全には理解していない。
「まず、衣装関係と宝飾品の手配です」
女官長が説明を始める。
「これまで殿下個人のご利用分であっても、婚約関係を含む信用により、かなり柔軟に処理されていた部分がございました」
「柔軟に、とは何だ」
カイルが不機嫌そうに言う。
女官長は一拍置いてから答えた。
「本来なら確認が必要な品を、後日処理で済ませていたということです」
「それがどうした」
「今後は、そうはいかぬということです」
短いやり取りだったが、部屋の空気は冷えた。
カイルは顔をしかめ、次の書類へ目を落とす。
「では次に、街道整備の件です」
会計係が引き取った。
「こちらは婚約関係を前提にした保証が組み込まれていたため、再確認が済むまで次工程が保留になっております」
「馬鹿馬鹿しい」
カイルが吐き捨てる。
「婚約ひとつ終わったくらいで、そこまで大げさにする必要があるのか」
ロザリアが、そこで初めてはっきりと顔を上げた。
「婚約ひとつ、ですって?」
「そうだ」
「何度も言いますが、あなたが終わらせたのは、ただの恋愛ではありません。婚約は、家と家、信用と実務の前提でもあったのです。それを大勢の前で、一方的に切った。その結果が今、この紙の山になっているのよ」
カイルは言い返そうとした。
だが、すぐには言葉が出ない。
その沈黙の間に、会計係が次の一枚を差し出した。
「王立学園については、支援そのものを完全に止めたい意図ではないようです」
「では何だ」
「王太子後援の名目を避けたいと」
カイルの顔が歪む。
「避けたい?」
「はい」
会計係の声はますます慎重になる。
「今の状況で、その名で金が動くことを、先方は警戒しております」
部屋の空気が重く沈む。
ロザリアはそこでようやく、机の上の書類をひとまとめに整えた。
その仕草には妙な静けさがあった。
「カイル」
「何です」
「あなた、叱られることには慣れているのでしょうね」
突然の言葉に、カイルが目を瞬く。
「……は?」
「国王に眉をひそめられることも。私に咎められることも」
「それは王太子である以上、多少は覚悟しております」
「でしょうね」
ロザリアは視線を逸らさなかった。
「でも、笑われることには慣れていないはずよ」
その一言に、カイルの顔つきが変わった。
ぴたりと、空気が止まる。
女官長も会計係も動かない。
それほど、その言葉は直接的だった。
「何を仰りたいのです」
かすかに掠れた声で、カイルが言う。
ロザリアは容赦しなかった。
「王宮内の者たちは、まだ笑いません。仕事があるからよ。でも社交界は違うわ。彼らはもう、あなたを『婚約を壊した後の責任も取れず、周囲の支えが消えた途端に立ち往生した王太子』として見始めている」
カイルの手が、机の上でわずかに握られる。
図星だった。
感じているのだろう。その空気を。誰も露骨には言わない。けれど、以前のような緊張も遠慮もない、薄い笑いの膜みたいなものが自分を包み始めていることを。
「誰がそんなことを」
やっと絞り出した反論は、それだけだった。
「誰かが明言したかどうかの話ではありません。空気の話よ。視線の話よ。あなたも感じているから、そんな顔をしているのでしょう」
カイルは口を閉ざした。
怒鳴ることもできない。
なぜなら、本当に感じているからだ。
倶楽部での軽い問いかけ。侍従の一瞬の目。女官たちの職務だけの礼。すべてが、少しずつ、だが確実に変わっている。
そしてその変化は、叱責よりずっと痛い。
叱られるうちは、まだ相手にとって問題として扱われている。だが笑われるというのは、相手がもう自分を上に見ていないということだ。
その痛みが、遅れて彼を刺し始めていた。
「……母上は」
カイルがようやく言う。
「私が笑われていると、そう仰るのですか」
「もう始まっているわ」
ロザリアの答えは冷たかった。
「そして、放っておけば広がる。だから私は、あなたの機嫌より先に、損失を止めることにしたの」
その言葉で、ようやくカイルの顔に本当の衝撃が走った。
母が自分の味方をやめた、と思ったのかもしれない。
だが違う。
ロザリアは最初から王家の側にいる。ただ今までは、息子の失点を“王太子として未熟だから”という甘さで見てきた。今はもう、それが通らないだけだ。
「今日はここまでにします」
ロザリアが言った。
「ですが、逃げても消えませんよ。この損失も、この笑いも」
カイルは椅子を引いた。
乱暴ではない。むしろ妙に静かだった。
その静けさの方が危うかった。
何も言わずに部屋を出ていく。その背中は怒りで張っているのに、どこか小さく見えた。
扉が閉まる。
女官長が、そっと息を吐いた。
「かなりお伝えになりましたね」
「ええ」
ロザリアは視線を机へ落とす。
「でも、あの子にはあのくらい言わないと届かないわ。叱責ではもう足りないもの」
その頃、本邸ではミレイユが一人で窓辺に立っていた。
王太子を見限った静けさは、まだ彼女の中に残っている。けれど心が軽くなったわけではない。頼る相手を一つ失っただけで、自分が急に何かを持てるようになるわけではなかった。
彼女はただ、夜の庭を見ながら考えていた。
王太子は自分を選んだ。
だが、それだけだった。
何も整えず、何も守らず、何も与えなかった。
それなら、自分はいったい何のためにあの男へ縋ろうとしていたのだろう。
答えは出ない。
ただ、以前のように夢を見ることだけはできなかった。
別邸では、グラントが簡潔な報告を伝えていた。
「王妃陛下が、殿下へはっきりお伝えになったようです」
「何を?」
リディアナが尋ねる。
「叱責よりも、笑われることの方が痛いと、殿下が知る段に入った、と」
リディアナは小さく目を伏せた。
「そう」
「かなり堪えておられるようでございます」
「でしょうね」
彼女は静かに答える。
「叱られるうちは、まだ自分が上にいるつもりでいられるもの。でも笑われたら終わりよ。自分が舞台の上から落ちたって、嫌でも分かるから」
マリアベルが黙ってうなずく。
窓の外では、夕方の光が庭を薄く染めていた。
笑いは残酷だ。
怒りのように燃えない。
断罪のように派手でもない。
ただ、静かに人の足場を削っていく。
そしてその削れた場所に立っている本人だけが、遅れて痛みを知る。
「王太子は、叱られるより笑われる方が痛いと知ったのね」
「はい」
「なら、ようやく本当の意味で傷つき始めたのだわ」
リディアナの声は穏やかだった。
けれどそこには、冷えた確信があった。
大勢の前で人を切り捨てた男が、今になってようやく知る。
自分が切ったものより、自分が笑われる痛みの方が、ずっと長く残るのだと。
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