婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第二十一話 王太子は、笑われるたびに自分の足場が消えていくのを知りました

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第二十一話 王太子は、笑われるたびに自分の足場が消えていくのを知りました

王宮の朝は早い。

けれど、その朝の早さが心地よい規律として感じられるか、追い立てられる圧としてのしかかるかは、その日そこにいる者の立場で変わる。

今のカイルにとって、王宮の朝は明らかに後者だった。

夜更けまで眠れず、ようやく浅い眠りに落ちたところを、侍従の控えめな呼びかけが起こす。以前なら、こうした声もどこか当然のものとして受け流していた。だが今は違う。ただ目覚めることすら不快だった。

「殿下、朝にございます」

扉の向こうから聞こえる声に、カイルは目を閉じたまま眉を寄せる。

「……うるさい」

「本日は、王妃殿下のご指示により、未確認案件の確認が――」

「聞こえている!」

つい強い声が出た。

外の気配が一瞬だけ止まる。

それがまた腹立たしい。

怒鳴らせたのはそちらのくせに、その沈黙で自分を乱暴者みたいに見せる。そういう被害者意識だけが、ここ数日で妙に育っていた。

ようやく起き上がり、乱暴に髪をかき上げる。

鏡に映った自分の顔は思ったより疲れていた。目の下には薄い影があり、肌も少し荒れている。王太子としては見苦しい顔だと思ったが、整えようという気力はなかなか湧かなかった。

着替えを済ませて執務室へ向かう廊下でも、空気は冷えていた。

誰も無礼ではない。

侍従も女官も一礼するし、道も開く。

だがそこにあるのは敬意ではなく、職務としての礼だった。以前はそれで十分だと思っていたはずなのに、今はそれが妙に薄く感じる。

恐れがない。

遠慮がない。

そして、ほんの少しだけ、腫れ物を触るような気配がある。

それが、いらだたしい。

執務室へ入ると、女官長と会計係がすでに待っていた。

机の上には今日も書類が積まれている。

「殿下、おはようございます」

女官長が言う。

「本日ご確認いただくのは、昨日の続きと、新たに保留となった三件です」

「三件?」

「はい。商会二件、学園関連一件でございます」

カイルは椅子へ腰を下ろし、一覧へ目を落とした。

見ただけで気分が悪くなる。

どれもこれも、以前なら自分の知らないところで片づいていたはずのことだ。それが今は、ひとつずつ自分の前へ持ち込まれる。

まるで、お前が壊したのだから見ろ、とでも言われているみたいだった。

実際その通りなのだが、彼はまだそこを素直に認めたくない。

「学園の件から」

女官長が言う。

「王太子後援名義での追加拠出について、先方は継続そのものを拒んではおりません。ただし、名目の変更を希望しております」

「またそれか」

カイルは書類を机へ落とした。

「どうして皆、私の名を避けたがる」

その問いに、女官長は一拍置いてから答えた。

「現在、その名の下で動くことに確認が必要になっているからです」

「確認、確認と、まるで私が信用できぬような言い方だな」

「信用とは、積み上げでございます」

静かな口調だった。

だがその言葉は、かなりきつかった。

カイルが顔を上げる。

女官長は視線を逸らさない。

「一度失えば、再確認が必要になるのは当然かと」

部屋の空気がわずかに張る。

会計係は黙ったまま目を伏せている。

こういうとき、以前ならリディアナが間に入って、言葉を丸くしたのだろう。今さらながら、その不在が妙に生々しかった。

「次を」

カイルは短く言った。

女官長が続ける。

「東部街道整備については、現場側が待機費用の扱いについて確認を求めております」

「待機費用?」

「はい。着工を止めている間にも、職人と資材置き場には費用がかかりますので」

カイルは眉をひそめた。

そんな細かな金のことまで自分が知る必要があるのかと思う。だが、今はそれが全部、自分の前に積まれてくる。

「王宮で払えばいいだろう」

「どこから、でございますか」

会計係が小さく問うた。

カイルが苛立って振り向く。

「何だと」

「失礼いたしました。ただ、現状ではどの名目で計上するかを決めていただかねば動かせません」

どの名目で計上するか。

そんなこと、前は聞かれなかった。

なぜなら前は、誰かがすでに整えた上で書類を持ってきたからだ。

その誰かの顔が、また頭に浮かぶ。

リディアナ。

いつも冷静で、余計なことは言わず、必要なことだけ整えてきた女。

今となっては、その静けさすら腹立たしい。

なぜもっと、面倒を起こさぬよう動かなかったのか。

なぜ黙って去るだけでは済まなかったのか。

そんな理不尽な怒りが胸を掠める。

だが、それを口にしたところでどうにもならないことも、彼は薄々知っていた。

会議が終わった頃には、カイルの顔色は朝よりさらに悪くなっていた。

書類を確認しただけなのに、妙に疲れる。

いや、疲れるのではない。

削られるのだ。

ひとつ書類を見るたびに、自分の知らなかったことが増える。ひとつ確認するたびに、今まで当然だと思っていた支えが、実は自分のものではなかったと分かる。

その感覚が、不快で仕方なかった。

執務室を出たあと、カイルは一人で中庭へ出た。

外気は冷たいが、閉じた部屋の中にいるよりましだった。

石畳の先では、下働きの者たちが忙しく動いている。庭師が枝を払い、給仕見習いが籠を抱えて走り、遠くでは女官が二人、何かを話しながら歩いていた。

その二人が、カイルの姿に気づく。

すぐに会話を切り、一礼する。

そこまでは普通だった。

だが通り過ぎるとき、ほんのわずかに口元が動いたように見えた。

笑ったのか。

いや、違うかもしれない。

けれど、そう見えた瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。

叱責ではない。

明確な無礼でもない。

だからこそ、否定しきれない。

そして否定しきれないものほど、人を傷つける。

「……くそ」

小さく漏らした悪態は、風に吸われて消えた。

その頃、王都のある侯爵家では、小さな昼食会が開かれていた。

参加しているのは夫人ばかりで、若い令嬢はほとんどいない。話題も、華やかな恋ではなく、家同士のつながりや、近ごろ王都で起きている細かな変化についてが中心だった。

そして、当然のようにその中へ王太子の話題が混じる。

「このところ、王宮の仕立てが遅れ気味だそうですわ」

「まあ、やはり」

「聞けば、以前のように融通が利かないそうで」

侯爵夫人が、ナプキンを軽く整えながら言った。

「あのご婚約破棄で、いろいろな前提が崩れたのでしょうね」

「ご本人は、その前提が何だったのかもお分かりでなかったとか」

老夫人の一言に、小さな笑いが落ちる。

派手な嘲笑ではない。

けれど、その小ささが残酷だった。

もう皆、王太子を“失敗をやらかした危うい男”としてではなく、“自分を支えていた仕組みも知らぬまま壊した滑稽な男”として見始めている。

それは一度始まると止まらない。

なぜなら、笑いは安全だからだ。

面と向かって叱るのは勇気が要る。

対立も生む。

だが、薄く笑うだけなら、責任を取らずに相手を下へ落とせる。

社交界の女たちは、そのやり方をよく知っていた。

別邸では、昼過ぎにグラントがその空気を報せていた。

「本日も、社交界の方は厳しいようです」

「そう」

リディアナは机の上の照会状に目を通しながら応じる。

「笑いは広がっているの?」

「はい。しかも若い方々より、ご夫人方の方が容赦ないとか」

マリアベルが静かに口を開く。

「若い方は、まだ恋だの情熱だのに夢を見ますからね」

「けれど、年長の方々は現実を見ますもの」

「ええ」

リディアナは頷いた。

「現実を見たとき、あの方はひどく滑稽に映るでしょうね」

彼女の手元には、今日も王妃側からの照会が届いていた。

どこまでが婚約前提で動いていたか。

どの家がどの名目で関わっていたか。

どうすれば王家の機能を止めずに、王太子個人の甘えだけを切り離せるか。

そういう文書ばかりだ。

感情より先に、整理が進んでいる。

それが今の王妃の変化をよく表していた。

「お嬢様」

グラントが言う。

「殿下は、今ごろかなり堪えておられるかと」

「そうでしょうね」

リディアナはペンを置いた。

「叱責ならまだ、相手に見られている気がするもの。でも笑いは違う。笑われるたびに、自分の立っていた場所が消えていくのを感じるはずよ」

マリアベルが目を上げる。

「立っていた場所、でございますか」

「ええ。王太子という肩書きそのものではないわ」

リディアナは静かに言った。

「周囲が当然のように差し出していた敬意とか、遠慮とか、先回りして整えられていた居心地のよさとか、そういうもの全部よ」

「それが今、少しずつ消えている」

「そして殿下は、ようやくそれに気づき始めた」

窓の外では、冬の名残を薄く残した光が庭を照らしていた。

春は近い。

けれど、まだ空気は冷たい。

その冷たさが、今の王都によく似ていた。

表向きは穏やかで、どこも変わらないように見える。だが一歩中へ入れば、誰もが同じ方向を向いていないことが分かる。王太子へ向けられる視線は、もはや尊敬でも期待でもない。

観察と、距離と、そして薄い笑い。

「王太子は、笑われるたびに自分の足場が消えていくのを知るのね」

「はい」

「それはかなり痛いでしょうな」

グラントの言葉に、リディアナは小さく頷いた。

「ええ。叱責は一時で済むけれど、笑いは残るもの」

彼女は再び便箋へ視線を落とした。

王妃への返答を書かなければならない。

止めるべきものと、止めるべきではないものを分け、責任の線を引き、必要なものだけを前へ進める。

やることは多い。

だが不思議と迷いはなかった。

一方では王太子が、ようやく笑われる痛みを知っている。

もう一方では、自分が今まで担っていたものを、王妃がようやく数字として認識し始めている。

誰もが少しずつ、本来見るべき現実を見るようになっていた。

それは決して優しい変化ではない。

けれど、必要な変化だった。

舞踏会の上で壊れたものは、歓声のままには終わらない。

その後に来る静かな現実の方が、ずっと長く人を削るのだと、カイルはこれから何度も思い知ることになる。
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