婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第二十二話 王太子派は、笑われる船から降り始めました

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第二十二話 王太子派は、笑われる船から降り始めました

王都では、風向きが変わるときほど静かだ。

誰かが鐘を鳴らすわけでもない。広場で布告が読み上げられるわけでもない。ただ、昨日まで当然だった挨拶が一つ減り、招待状の返事が一日遅れ、茶会の席で向けられる笑みが半歩だけ薄くなる。

そういう小さな変化が積み重なったとき、人はようやく知る。

ああ、もう流れは変わったのだと。

その日の午前、王宮の回廊では、王太子派と見なされてきた若い貴族たちが妙に忙しなく動いていた。

彼らは以前なら、王太子カイルの周囲で気楽に笑っていた男たちだ。狩りの話、酒の話、女の話。王太子の機嫌を損ねない程度に持ち上げ、必要なときだけ忠誠めいた顔をする。そういう軽い取り巻きであることが、彼らには心地よかった。

だが今は違う。

軽さの代償が見え始めている。

王太子と近いと見られることが、得ではなくなりかけているのだ。

「聞いたか」

柱の陰で、小声が交わされる。

「何を」

「父上が、しばらく殿下との会食は控えろと」

「うちもだ」

「社交の席では、むしろ距離を見せろと言われた」

二人とも笑っていない。

冗談では済まないのだろう。

彼ら自身は、つい数日前まで王太子の周りで適当に甘い汁を吸っていた。だが家の当主たちは違う。今の空気がどれほど危ういかを、もっと早く、もっと正確に感じている。

王太子に近い。

その肩書きは以前なら箔だった。

けれど今は、“あの軽率な婚約破棄に拍手していた側”と見なされかねない。

しかも王宮の実務が乱れ、社交界が冷え、王妃まで王太子の尻を追うのをやめ始めている。

そんな船に、いつまでも一緒に乗る理由はない。

「……まさか、ここまでとはな」

一人が低く言う。

「ただの女の取り合いじゃなかったんだな」

「お前、本気でそう思っていたのか」

「だって、殿下もそういう顔をしていただろう」

「殿下はな」

もう一人が鼻で笑う。

「だが、うちの父は最初から顔色を変えていたぞ。公爵令嬢を大勢の前で切るということは、その後ろも切るということだって」

その言葉に、短い沈黙が落ちた。

誰もが今さら理解し始めている。

婚約破棄そのものより、その後ろにあったものの方が重かったのだ。

そして、王太子はそれを分からぬまま切った。

そこが笑われている。

そこが、家の当主たちに嫌われている。

その頃、王宮の執務室では、カイルが新しい一覧を前に苛立ちを募らせていた。

「会食の辞退?」

目の前の侍従が頭を下げたまま答える。

「はい。今夜予定されておりましたブラウネル侯爵家との会食は、急な家内都合により延期したいとのことです」

「家内都合だと?」

「そのように」

カイルは書類を机へ叩きつけた。

ここ数日、こういう“急な都合”が増えている。

茶会の延期。

訪問の取りやめ。

会食の辞退。

どれも理由はもっともらしい。病人が出た、領地から急報が来た、当主の体調が優れない。だが、立て続けに起きればさすがに分かる。

避けられているのだ。

しかも露骨ではない形で。

それが余計に腹立たしい。

真正面から断るなら、まだ怒鳴りつけられる。だが礼を失わない範囲で距離を取られると、怒る先がない。

「……次は」

カイルが低く言う。

侍従が別の紙を差し出す。

「明後日予定されていた若手貴族の懇談会も、出席者が減っております」

「どれだけだ」

「現在、当初の半数ほどに」

カイルの顔が強張った。

半数。

それは偶然ではない。

明らかに流れが変わっている。

「理由は」

「皆様、ご多忙とのことで」

「ふざけるな」

思わず声が荒くなる。

侍従は黙って頭を下げた。

ふざけているのはどちらか、もう王宮の者たちには分かっている。だが言わないだけだ。

カイルは椅子へ深く座り直した。

胸の奥に、あの嫌な感覚がまた広がる。

叱責ではない。

明確な敵意でもない。

静かな離反。

それは笑いとよく似ていた。

相手が自分の前からすっと引いていくのを、こちらだけが見ている感覚だ。

その頃、社交界ではさらに露骨な動きが起きていた。

レヴァンティーヌ侯爵夫人の屋敷で開かれた昼食会では、夫人たちがそれぞれの家の息子たちについて、わざとらしく軽い口調で話をしていた。

「うちの息子にも言っておきましたの」

侯爵夫人がナプキンを整えながら言う。

「今はあまり殿下のおそばで浮ついた顔をしないように、と」

「まあ、うちもですわ」

伯爵夫人がすぐに頷く。

「若い男というのは、すぐに強い方へ寄るくせに、沈み始めた舟から降りるのが遅いものですから」

「本当に」

老公爵夫人が笑う。

「けれど今回は、案外早かったではありませんか」

「笑われる舟に乗り続けるほど、皆も愚かではないということでしょう」

その“笑われる舟”という言い方に、席の空気が小さく揺れた。

誰も否定しない。

もうそこまで来ているのだ。

王太子と近いことを誇れない。

むしろ、あまり近すぎると自分の家まで軽く見られる。

そんな認識が、母親たちの間ではすでに固まっていた。

「それにしても」

若い伯爵夫人が少し声を潜める。

「殿下ご本人は、お気づきなのかしら」

「少しは感じているでしょう」

老公爵夫人が紅茶を口に運ぶ。

「でも、感じることと受け入れることは違いますもの」

「まして、あのお方はずっと“選ぶ側”でいらしたのですものね」

その一言に、また静かな笑いが落ちた。

選ぶ側。

たしかに王太子は、ずっとそういう顔で生きてきた。婚約者も、取り巻きも、社交の相手も、自分が選んでやるという空気をまとっていた。

だが今は違う。

選ばれているのは、むしろ周囲の方だ。

誰が王太子と距離を置くか。

誰がまだ近くに残るか。

その選択権は、もう彼の手にはない。

別邸では、グラントがその動きをすぐに報告していた。

「王太子派ですが」

「ええ」

リディアナは照会状から目を上げる。

「若手の取り巻きから、距離を置く動きが出始めております」

「遅かったくらいね」

「はい。ですが家の当主たちは、もっと早く危うさを感じていたのでしょう」

マリアベルが静かに言う。

「若い方は、王太子のお側というだけで気分がよかったのでしょうけれど、親世代は違いますもの」

「ええ」

リディアナは頷いた。

「近くにいるだけで格が上がる相手と、一緒にいると品位まで下がる相手は違うわ」

その言葉は静かだったが、かなり辛辣だった。

グラントも否定しない。

「まさに、今は後者と見なされ始めておりますな」

「そうね」

リディアナは机の上の封書を整えた。

王妃側からの照会は今日も届いている。どの家がどの程度、婚約前提の保証に絡んでいたか。どこまでを切り離せば王宮の機能を落とさずに済むか。王妃はもう、感情ではなく構造を見ている。

一方で王太子派は、構造など理解しないまま逃げ始めている。

その差が、何とも象徴的だった。

「王太子派は、笑われる船から降り始めたのね」

「はい」

「でも、完全には降りきれない者も出るでしょう」

グラントが低くうなずく。

「間に合わぬ者もおりますでしょうな」

「そうね。動くのが遅い人ほど、一緒に沈むもの」

窓の外では、午後の光が庭の枝を照らしていた。

一見すると穏やかだ。

だがその穏やかさの下で、確実に線が引き直されている。

誰が王太子の側に残るか。

誰がもう見限るか。

その線引きが始まれば、以前のような気楽な取り巻きでいることはできない。

「お嬢様」

マリアベルが新しい手紙を差し出す。

「こちらはブラウネル侯爵夫人からです」

リディアナは受け取って封を切る。

内容は、やはりそういうものだった。

近々、少人数でお話しできれば嬉しい。

王都も落ち着かぬ空気ゆえ、いろいろ伺いたいことがある。

つまり、もう王太子ではなくこちらに話を聞きたいということだ。

「本当に早いわね」

「皆様、現実的でいらっしゃいますから」

リディアナは小さく笑った。

現実的。

そう、ただそれだけのことだ。

王太子に夢を見るには、今の王都は冷えすぎている。

「それに」

グラントが言葉を継ぐ。

「殿下ご本人が、離反を止める動きをまるでなさっておりません」

「できないでしょうね」

リディアナは便箋をたたむ。

「だってあの方、誰かをつなぎ止めるには、自分が相手へ何を与えられるかを知らないもの」

選ぶことはできる。

切ることもできる。

だが、残らせることはできない。

その違いが、今になって王太子の足元を削り始めている。

「笑われる船から降り始めたのなら」

リディアナは静かに言った。

「次は、降り損ねた人たちが慌てる番ね」

マリアベルが目を上げる。

「本格的に、でございますか」

「ええ。ここからは、空気ではなく行動になるわ」

会食の辞退。

招待の先送り。

取り巻きの離脱。

そこまではまだ静かな変化だ。

けれど、誰かがはっきりと距離を置けば、残った者たちは急に怖くなる。

自分だけが遅れているのではないかと。

そうなれば、流れは一気に加速する。

王太子派は、今まさにその入り口に立っていた。

そしてカイルは、そのことに気づいても、きっと止められない。

叱られることには反発できる。

けれど、静かに離れていく人間を引き留める術は、あの男にはないからだ。

王太子は、この先もっと知ることになる。

笑われる痛みだけではない。

笑われる側に残る人間が、一人ずつ減っていく恐ろしさを。
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