婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第二十三話 降り遅れた取り巻きは、今さら忠誠の顔をしました

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第二十三話 降り遅れた取り巻きは、今さら忠誠の顔をしました

王太子派の船から降り始める者が出れば、必ずその逆も現れる。

降り遅れた者たちだ。

いや、正確には、降りるべきだと気づいたのに、降り方が分からず、その場で忠誠の顔を取り繕う者たちと言った方がいいかもしれない。

その日の王宮では、まさにそんな空気が広がっていた。

午前の終わり頃、王太子付きの控えの間には、ここ数日では珍しく数人の若い貴族子息たちが顔を見せていた。つい先日まで、王太子の周囲で気軽に笑っていた連中だ。けれど、今日の彼らは妙にかしこまっていた。

声が低い。

笑顔が固い。

そして何より、目だけが落ち着いていない。

「殿下はご在室か」

一人が侍従へ問う。

「はい。ですが、ただいま書類の確認中にございます」

その答えに、彼らは一瞬だけ顔を見合わせた。

以前なら、書類の確認中であろうと何であろうと、王太子の機嫌を取るために平然と割り込んでいったはずだ。狩りの誘いだの、昨夜の酒席の話だの、どうでもいい話を持ち込んで、それで済んでいた。

だが今は違う。

王太子の機嫌ひとつで軽く叩かれかねない。

しかも周囲の空気は悪い。

だから彼らは、“ただの遊び仲間”ではなく“変わらず忠義を尽くす若手貴族”の顔を作ってここへ来ていた。

その顔が、すでに遅い。

侍従は彼らを通した。

王太子の執務室では、カイルが不機嫌そうに椅子へ座っていた。

机の上には、今日も確認待ちの書類が並んでいる。だが、目を通しているというより、睨んでいるだけに見えた。

「何の用だ」

入ってきた子息たちを見るなり、カイルはそう言った。

以前なら、もう少し気安い声音だったはずだ。だが今は、同じ取り巻きに対してさえ、警戒と苛立ちが混じっている。

三人のうち、最も家格の高いブラウネル伯爵家の次男が、一歩進み出た。

「殿下、近ごろ何かと騒がしく、さぞお疲れのことと存じます」

その言い回しに、カイルの眉がわずかに動く。

労わるようでいて、距離がある。

以前の彼なら「殿下、またお疲れの顔ですね」くらいの軽口で済ませていたはずだ。

今はそれができない。

できなくなった時点で、関係はもう変わっている。

「それで?」

カイルが冷たく促す。

伯爵家次男は少しだけ喉を動かした。

「我らは、変わらず殿下のお側にございます」

その場の空気が、わずかに固まる。

あまりに露骨だったからだ。

変わらず。

つまり周囲が変わり始めたことを、自分たちも分かっていると言っているようなものだった。

カイルも、それに気づいたのだろう。

目の奥に、ほんのわずかに険しさが増した。

「そうか」

短い返答だった。

喜んでいない。

むしろ、試すような響きだった。

「はい」

「なら聞くが」

カイルは椅子の背にもたれたまま言った。

「近ごろ会食を断る家が増えているのは、なぜだ」

三人の顔が固まる。

まっすぐ来た。

誰も、そこを正面から問われるとは思っていなかったのだろう。

「それは……」

一人が口ごもる。

別の一人が、曖昧に笑おうとして失敗する。

「皆、それぞれ事情が」

「事情、だと?」

カイルの声が低くなる。

「お前たちもそう思っているのか」

思っている。

だが、そうですとは言えない。

この男は、今や薄い氷の上に立っているのに、なお自分が選ぶ側だと思っている。そこへ余計な一言を落とせば、何が起こるか分からない。

伯爵家次男が、どうにか言葉を繋ぐ。

「いえ、殿下。ただ、皆、少々騒ぎに驚いているだけかと」

「驚いて?」

「はい。ですから、時が経てばいずれ――」

「その“いずれ”とやらを、皆が口にするな」

ぴしゃりと言われ、男は黙った。

その一瞬で、場の空気が完全に止まる。

カイルは机の上の紙束を指先で叩いた。

「王宮では、何もかも“そのうち”だ。“落ち着けば”だ。“確認が済めば”だ。お前たちまで同じことを言うのか」

そこには怒りだけではなく、焦りが滲んでいた。

カイル自身、分かっているのだろう。

自分の周りで使われる言葉が、どれも責任を先送りにするものばかりになっていることを。

そして、それは自分が信用されていない時に使われる言葉でもあることを。

「申し訳ございません」

伯爵家次男が頭を下げる。

だが、その謝罪は薄かった。

本気で申し訳ないと思っているのではない。

とりあえず頭を下げて、この場を無事に抜けたいだけだ。

その気配は、今のカイルにも分かった。

分かったからこそ、余計に腹が立つ。

「……もういい」

吐き捨てるように言う。

「忠誠の顔をしに来ただけなら帰れ」

その一言で、三人は完全に固まった。

図星だったからだ。

本当に殿下のお役に立ちたいから来たのではない。

今ここで“変わらず側におります”という姿勢を見せておけば、後で何かあっても言い訳が立つ。そういう保身が先にあった。

そこを見抜かれた。

しかも、見抜かれたうえで追い返された。

三人は慌てて一礼し、部屋を辞した。

扉が閉まったあと、執務室には嫌な静けさが残る。

カイルはその静けさの中で、しばらく動かなかった。

追い返してやった。

そう思いたいのに、胸の奥は妙に冷えていた。

忠誠の顔をして来た取り巻きたち。

だがその実、彼らはもう降りる場所を探している。

それが分かる。

分かるから痛い。

真正面から裏切られるより、こういう曖昧な忠義の方がずっと不快だった。

その頃、王都の別の場所では、まさにその三人が顔をつき合わせていた。

王宮を出た足で、彼らは近くの倶楽部の一室へ逃げ込んでいた。

「最悪だ」

一人が椅子へ沈み込みながら言う。

「分かってはいたが、あそこまで機嫌が悪いとは」

「機嫌が悪いだけならまだいい」

伯爵家次男が低く返す。

「問題は、もう何を言っても喜ばれないことだ」

その通りだった。

前なら、適当に持ち上げ、軽く笑い、殿下のお考えはさすがだと言っていれば済んだ。

だが今は違う。

王太子は笑われる空気を感じ始めている。

だから、少しでも薄い忠誠はすぐ分かる。

そして本物の忠誠を示せるほどの価値も、彼らは感じていない。

「どうする?」

三人目が問う。

「どうもこうもないだろう」

伯爵家次男は苦い顔で言った。

「家の意向に従うしかない。今は深入りせず、かといって露骨に背も向けず、距離を取る」

「……器用だな」

「器用でないと、この手の沈みかけた舟からは降りられん」

その言い方に、誰も笑わなかった。

沈みかけた舟。

それはもはや冗談ではなく、共通認識に近かった。

一方、本邸ではヘレナが久しぶりにいくつかの家へ手紙を書こうとしていた。

だが、筆はひどく重い。

文面を整えても、どうしても白々しくなる。今さら何をどう言い繕っても、自分たちが置かれている立場は変わらないことを、彼女自身が分かり始めているからだ。

「また書いているの?」

部屋へ入ってきたミレイユが、冷めた声で言う。

ヘレナは一瞬、肩を揺らした。

「ええ。何もしないわけにはいかないでしょう」

「何もしない方が、まだましかもしれないわ」

その返しに、ヘレナが顔を上げる。

娘の声には、もう以前のような甘さも頼りなさもなかった。

あるのは、冷えと疲れだけだ。

「皆、もう分かっているもの」

ミレイユは机の上の便箋を見た。

「お母様が何を書いても、必死だって思うだけよ」

その言葉はひどく冷酷だった。

けれど、ヘレナは反論しきれなかった。

実際そうなのだ。

今の手紙は社交ではない。

命乞いに近い。

そこまで落ちたことを、自分でも薄々感じている。

「あなたは、少し黙っていなさい」

ヘレナは苦し紛れのように言った。

「余計なことを言う元気があるなら、少しは立て直すことを考えなさい」

ミレイユはほんの少しだけ目を細めた。

「立て直す?」

「ええ」

「何を」

短い問いだった。

だが、ヘレナは答えられない。

娘の評判をか。

王太子との関係をか。

自分の立場をか。

何一つ、まともに立て直せる見込みはなかった。

その沈黙だけで、ミレイユは十分だったのだろう。

彼女はそれ以上何も言わず、部屋を出て行った。

その背中を見送りながら、ヘレナはゆっくりと便箋を裏返した。

真っ白な面が見える。

何も書けない自分が、そこへ映っているようだった。

別邸では、グラントが新たな報せを伝えていた。

「降り遅れた取り巻きたちが、殿下へ忠誠の顔を見せに行ったようです」

「へえ」

リディアナは照会状を置いた。

「それで?」

「忠誠の顔をしに来ただけなら帰れ、と追い返されたとか」

マリアベルが小さく息を吐く。

「まあ、珍しく見抜いたのですね」

「ええ。ただし、見抜いたところで引き留める術はなかったようですが」

その言い方に、リディアナはわずかに口元を緩めた。

見抜くことと、つなぎ止めることは違う。

あの王太子は、そこが決定的に分かっていない。

「取り巻きたちも苦しいでしょうね」

リディアナが言う。

「ええ。遅れて降りようとする者ほど、みっともないものはございません」

グラントが答える。

「そうね。でも、もっとみっともないのは、降りようとする相手を怒鳴るだけで終わる方よ」

王太子は、まだそこにいる。

見限られつつあるのを感じ、薄い忠誠を嗅ぎ取り、それに苛立つ。

けれど、自分が何を差し出せるかは分からない。

だから結局、怒鳴るしかない。

その繰り返しだ。

「降り遅れた取り巻きは、今さら忠誠の顔をしたのね」

「はい」

「そして、それすら失敗した」

「そのようです」

リディアナは窓の外を見た。

夕方の光が、庭の枝先を淡く照らしている。

風は穏やかだった。

けれど、目には見えない流れが確かに変わっている。

王太子派は、もう一枚岩ではない。

取り巻きたちは降り始めた。

降り遅れた者も、必死に降り口を探している。

そして王太子自身は、その現実を知りながらも、なお自分が選ぶ側のままだと思いたがっている。

「この先、もっと見苦しくなるわね」

リディアナは静かに言った。

「忠誠が薄いと怒るくせに、自分は何も与えられないんだもの」

マリアベルがうなずく。

「ええ。側近を失う時というのは、たいていそういうものです」

「でも今回は、少し滑稽すぎるわ」

それは本音だった。

王太子の周りで笑っていた若い男たちは、今さら忠臣の顔を作る。

王太子は、それを見抜いて怒る。

けれど怒ったところで、戻ってくるものはない。

その空しさが、ひどく滑稽だった。

「次はどこが崩れるかしら」

リディアナは小さく呟いた。

それは予言ではなかった。

ただ、すでに崩れ始めたものを見ている者の、静かな確認だった。

笑われる舟から降り始めた者たちがいるなら、次は残った者たちが自分の遅れに怯える番だ。

そしてその怯えは、また別の離反を呼ぶ。

王太子の周囲は、これからますます静かに、そして確実に痩せていく。
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真実の愛がどうなろうと関係ありません。

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