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第三十二話 王太子は、とうとう自分の席そのものを失いました
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第三十二話 王太子は、とうとう自分の席そのものを失いました
王宮の空気が変わったのは、布告が出た瞬間ではない。
その少し前から、すでに皆が知っていた。
廊下で交わされる視線。
侍従たちの足音の速さ。
女官たちの口数の少なさ。
そして、王妃付きの者たちがこの数日で見せる、無駄のない動き。
何かが決まる。
しかも、それは王太子個人の機嫌で覆る類のものではない。
そういう確信が、王宮の内側に先に満ちていた。
その朝、ロザリアは国王と短い会談を終えたあと、女官長と補佐官たちを前にして、きっぱりと言った。
「本日中に出します」
その一言で、全員が頭を下げた。
文面はすでに整っている。
何度も言い回しを確認し、王家の体面を損なわず、それでいて曖昧さを残しすぎない形へ整えられた布告文だった。
内容は三つ。
王太子カイルとエヴェルシェイド公爵令嬢リディアナとの婚約について、王家として正式に破棄を認めること。
王太子カイルの公的後援事業と一部実務権限について、当面これを王妃および王宮管理部へ移管すること。
そして最後に、王太子の今後の公務について、再整理が済むまで縮小すると記すこと。
縮小。
柔らかな言い方だった。
だが王宮でその意味が分からぬ者はいない。
これは事実上の更迭に近い。
王太子の椅子そのものを剥奪したわけではない。
だが、その椅子に付随していた手足と権限を切り離し、ただの肩書きだけを残す。
それは、王族に与える処置としてはかなり冷酷だった。
「殿下には、いつお伝えになりますか」
女官長が問う。
「布告の直前に」
ロザリアは迷わず答えた。
「事前に知らせても、余計に騒ぐだけです」
誰も反論しない。
今のカイルなら、そうするだろうと全員が分かっているからだ。
その頃、当のカイルはまだ何も知らなかった。
自室にこもり、机の上の書類を前にしながらも、ろくに目を通していなかった。昨日からずっと、胸の奥に鈍いざらつきが残っている。笑われている。避けられている。残った者の目も曇っている。その実感ばかりが頭にまとわりつき、何かに集中することができない。
そこへ女官長が現れた。
「殿下」
その声音がいつも以上に固いことで、カイルも何かを感じたのだろう。
「何だ」
「王妃殿下が、お話があると」
「今さら何だ」
「至急にございます」
女官長はそれ以上言わない。
そこにある無機質さが、ひどく嫌だった。
カイルは舌打ちしながら立ち上がり、王妃の小会議室へ向かった。
扉が閉まる。
中にはロザリアと、国王付きの書記官が一人いた。
その顔ぶれを見た瞬間、カイルの胸に冷たいものが走った。
書記官がいる。
つまり、ただの親子の会話ではない。
記録に残る話だ。
「座りなさい」
ロザリアが言う。
カイルは座らなかった。
「何の話です」
「座りなさい」
二度目は低かった。
逆らえる空気ではない。
カイルは渋々椅子へ腰を下ろす。
するとロザリアは、机上の布告文へ手を置いた。
「本日、正式に布告を出します」
「何を」
「あなたとリディアナ嬢の婚約破棄について」
そこまでは予想できたのか、カイルの顔はまだ大きくは動かなかった。
問題は、その先だった。
「それに伴い、あなたが名目上抱えていた後援事業と一部公務は、当面、王宮管理部へ移します」
「……何だと」
「あなたの判断で動かせていたものは、今日で終わりです」
声は静かだった。
だがその静けさのせいで、言葉はかえって重く落ちた。
「待ってください」
カイルが初めて露骨に顔色を変える。
「それでは、私の立場が――」
「あなたの立場?」
ロザリアが言葉を返す。
「立場というなら、あなたはこの数日で何を守ったの」
「何を整えたの」
「何から逃げずに残ったの」
その三つは、どれも返せない問いだった。
カイルは口を開きかけ、閉じた。
そして、ようやく搾り出した。
「母上は、本気で私を外すおつもりなのですか」
「外すのではありません」
ロザリアは首を振る。
「切り分けるのです」
またその言葉だった。
だが、今日は前よりずっと痛い。
なぜなら、今回は言葉だけではなく、布告文という形がすでにそこにあるからだ。
「王太子の椅子は、まだあなたのものです」
ロザリアは続ける。
「ですが、その椅子に付随する信頼と実務は、今のあなたには預けられません」
「だから一度、外へ出すのです」
一度、外へ出す。
柔らかな言い方だった。
だが実質は同じだ。
お前には任せられない、と言われているのだ。
しかも母に。
王妃に。
王家の内側から。
「そんな……」
初めて、カイルの声が本当に弱くなった。
怒りではない。
反発でもない。
ただ、足場が消える瞬間の声だった。
ロザリアはその顔を見ても、もう表情を変えなかった。
「これ以上、王家まで笑われるわけにはいきません」
「あなたが傷つくより先に、王家の形を守ります」
それが最後だった。
カイルは何も言えなかった。
布告が出れば終わる。
もう社交界の噂ではない。
王妃の叱責でもない。
公式の形で、自分の席が空にされるのだ。
その理解が、ようやく彼の顔から血の気を奪っていた。
昼過ぎ、布告は出た。
王都はざわめいた。
だが、そのざわめきは驚きより確認に近かった。
やはり、という空気だ。
王太子の婚約破棄は正式に認められた。
そして王太子の権限は大きく削られた。
そこまで来て初めて、社交界は完全に腹を決めた。
終わったのだ、と。
レヴァンティーヌ侯爵夫人の屋敷では、その報せが届くや否や、夫人たちが静かに顔を見合わせた。
「出ましたわね」
「ええ」
「王妃殿下が、とうとう決められたのね」
老公爵夫人が、紅茶の縁を指先でなぞりながら言う。
「これで、もう“様子見”ではいられませんわ」
それはつまり、王太子派の残党へも合図が出たということだった。
もう近づく理由はない。
むしろ、まだそこにいる方が恥になる。
王太子を笑う空気は、ここで一段深くなった。
なぜなら今までは“笑ってよいのか”の迷いが少しだけあったからだ。
王妃が切り分けた今、もう遠慮はいらない。
「あれほど堂々と婚約破棄しておいて」
若い伯爵夫人が呆れたように言う。
「最後はご自分の席だけ失うなんて」
「ご自分の席だけではありませんわ」
老公爵夫人が訂正する。
「ご自分を王太子らしく見せていたもの全部でしょう」
その言葉に、静かな笑いが落ちた。
本邸では、その布告文を読んだヘレナが、しばらく立ち尽くしていた。
手の中の紙が震える。
婚約破棄は予想していた。
問題はその後だ。
王太子の権限縮小。
公務の整理。
王妃直轄への移管。
これはつまり、あの男がもう“未来の絶対的な後ろ盾”ではなくなったということだ。
ヘレナはその現実を見た瞬間、喉の奥が乾いた。
「お母様」
扉の前に立っていたミレイユが、静かに声をかける。
「読んだのね」
「ええ」
ミレイユは部屋へ入ってくる。
その顔は青ざめてはいたが、取り乱してはいなかった。
以前なら違っただろう。
けれど、もう違う。
彼女は紙を受け取り、自分でも最後まで読んだ。
そして長く息を吐く。
「……そう」
それだけだった。
泣きもしない。
怒りもしない。
ただ、完全に終わったのだと理解した顔だった。
ヘレナがようやく搾り出す。
「こんなはずでは……」
「最初から、こうなるはずだったのかもしれないわ」
ミレイユの返答は静かだった。
その静けさが、ヘレナにはひどく残酷に感じられた。
「だって殿下、何も持っていなかったもの」
「持っていたのは肩書きだけだった」
「その肩書きを、王妃様に切り分けられたら、それで終わりでしょう」
娘の方が、もう母より現実を見ていた。
それがヘレナには耐えがたかった。
自分はまだ“何とかなる”という願望へしがみついていたのに、娘はもうそこから降りている。
そして、その違いがまた、自分の空虚さを突きつけてくる。
「……じゃあ、あなたはこれからどうするの」
ヘレナが聞く。
半ば、縋るような問いだった。
ミレイユは少しだけ考えた。
「分からないわ」
それは正直な答えだった。
「でも、少なくとももう、殿下に選ばれたことだけで何かになれるとは思わない」
「だから、習うわ」
「恥をかいても?」
「ええ」
短い返答だった。
その短さの中に、以前のような甘えはなかった。
別邸では夕方、グラントが布告の写しを持ってきていた。
リディアナはそれを最後まで読み、静かに紙を置いた。
「とうとう、ね」
「はい」
グラントが低く答える。
「王妃陛下が、正式に切り分けられました」
マリアベルも息をつく。
「ここまで明文化されると、もう戻りようがありませんね」
「ええ」
リディアナは窓の外へ視線を向けた。
夕方の光が庭を薄く金色に染めている。
どこまでも穏やかな景色だった。
それなのに、今日の王都では、一つの席が静かに死んだ。
王太子の席。
正確には、その席に付随していた信頼と熱と便宜のすべて。
肩書きだけは残るだろう。
だが中身は、もうかなり抜け落ちた。
「あの方は、初めて自分の席そのものを失ったのね」
リディアナが言う。
「はい」
「しかも、自分で立って逃げたあとに」
グラントはうなずく。
「まことに、見苦しい結末でございます」
「まだ結末ではないわ」
リディアナは静かに首を振った。
「席を失ったあと、自分が何者でもないと知るところからが、本当の終わりよ」
それはミレイユがすでに通り始めている道でもあった。
空っぽだと知る。
頭を下げる。
恥をかく。
それでも逃げない。
一方で、王太子はどうか。
笑われるのが痛い。
整理が嫌だ。
だから席を立った。
その果てに、席そのものを切り分けられた。
もしここからもなお学べないのなら、もう本当に終わりなのだろう。
「義妹様の方は」
マリアベルが尋ねる。
「少しずつでも進むかもしれませんね」
「ええ」
リディアナは短く答えた。
「でも、継母はもっと苦しいでしょうね。娘が前を向くほど、自分の空虚さだけが残るんだもの」
それもまた、十分に残酷な報いだった。
外見だけで娘を飾り、勝つための道具のように使ってきた女が、最後には娘の方に置いていかれる。
しかも、その娘はもう母へ答えを期待していない。
それはたぶん、王太子が権限を削られるより、ヘレナには痛い。
「全部、ようやく見合う形になったわね」
リディアナは小さく言った。
誰が何を持っていて、誰が何も持たなかったのか。
誰が頭を下げられて、誰が席を立って逃げたのか。
その差が、今ようやく形になったのだ。
窓の外では、日が沈みかけていた。
長い影が庭へ伸びていく。
一つの影は、そこで終わる。
だが、終わったあとに何が残るかで、人はさらに分かれていくのだろう。
王宮の空気が変わったのは、布告が出た瞬間ではない。
その少し前から、すでに皆が知っていた。
廊下で交わされる視線。
侍従たちの足音の速さ。
女官たちの口数の少なさ。
そして、王妃付きの者たちがこの数日で見せる、無駄のない動き。
何かが決まる。
しかも、それは王太子個人の機嫌で覆る類のものではない。
そういう確信が、王宮の内側に先に満ちていた。
その朝、ロザリアは国王と短い会談を終えたあと、女官長と補佐官たちを前にして、きっぱりと言った。
「本日中に出します」
その一言で、全員が頭を下げた。
文面はすでに整っている。
何度も言い回しを確認し、王家の体面を損なわず、それでいて曖昧さを残しすぎない形へ整えられた布告文だった。
内容は三つ。
王太子カイルとエヴェルシェイド公爵令嬢リディアナとの婚約について、王家として正式に破棄を認めること。
王太子カイルの公的後援事業と一部実務権限について、当面これを王妃および王宮管理部へ移管すること。
そして最後に、王太子の今後の公務について、再整理が済むまで縮小すると記すこと。
縮小。
柔らかな言い方だった。
だが王宮でその意味が分からぬ者はいない。
これは事実上の更迭に近い。
王太子の椅子そのものを剥奪したわけではない。
だが、その椅子に付随していた手足と権限を切り離し、ただの肩書きだけを残す。
それは、王族に与える処置としてはかなり冷酷だった。
「殿下には、いつお伝えになりますか」
女官長が問う。
「布告の直前に」
ロザリアは迷わず答えた。
「事前に知らせても、余計に騒ぐだけです」
誰も反論しない。
今のカイルなら、そうするだろうと全員が分かっているからだ。
その頃、当のカイルはまだ何も知らなかった。
自室にこもり、机の上の書類を前にしながらも、ろくに目を通していなかった。昨日からずっと、胸の奥に鈍いざらつきが残っている。笑われている。避けられている。残った者の目も曇っている。その実感ばかりが頭にまとわりつき、何かに集中することができない。
そこへ女官長が現れた。
「殿下」
その声音がいつも以上に固いことで、カイルも何かを感じたのだろう。
「何だ」
「王妃殿下が、お話があると」
「今さら何だ」
「至急にございます」
女官長はそれ以上言わない。
そこにある無機質さが、ひどく嫌だった。
カイルは舌打ちしながら立ち上がり、王妃の小会議室へ向かった。
扉が閉まる。
中にはロザリアと、国王付きの書記官が一人いた。
その顔ぶれを見た瞬間、カイルの胸に冷たいものが走った。
書記官がいる。
つまり、ただの親子の会話ではない。
記録に残る話だ。
「座りなさい」
ロザリアが言う。
カイルは座らなかった。
「何の話です」
「座りなさい」
二度目は低かった。
逆らえる空気ではない。
カイルは渋々椅子へ腰を下ろす。
するとロザリアは、机上の布告文へ手を置いた。
「本日、正式に布告を出します」
「何を」
「あなたとリディアナ嬢の婚約破棄について」
そこまでは予想できたのか、カイルの顔はまだ大きくは動かなかった。
問題は、その先だった。
「それに伴い、あなたが名目上抱えていた後援事業と一部公務は、当面、王宮管理部へ移します」
「……何だと」
「あなたの判断で動かせていたものは、今日で終わりです」
声は静かだった。
だがその静けさのせいで、言葉はかえって重く落ちた。
「待ってください」
カイルが初めて露骨に顔色を変える。
「それでは、私の立場が――」
「あなたの立場?」
ロザリアが言葉を返す。
「立場というなら、あなたはこの数日で何を守ったの」
「何を整えたの」
「何から逃げずに残ったの」
その三つは、どれも返せない問いだった。
カイルは口を開きかけ、閉じた。
そして、ようやく搾り出した。
「母上は、本気で私を外すおつもりなのですか」
「外すのではありません」
ロザリアは首を振る。
「切り分けるのです」
またその言葉だった。
だが、今日は前よりずっと痛い。
なぜなら、今回は言葉だけではなく、布告文という形がすでにそこにあるからだ。
「王太子の椅子は、まだあなたのものです」
ロザリアは続ける。
「ですが、その椅子に付随する信頼と実務は、今のあなたには預けられません」
「だから一度、外へ出すのです」
一度、外へ出す。
柔らかな言い方だった。
だが実質は同じだ。
お前には任せられない、と言われているのだ。
しかも母に。
王妃に。
王家の内側から。
「そんな……」
初めて、カイルの声が本当に弱くなった。
怒りではない。
反発でもない。
ただ、足場が消える瞬間の声だった。
ロザリアはその顔を見ても、もう表情を変えなかった。
「これ以上、王家まで笑われるわけにはいきません」
「あなたが傷つくより先に、王家の形を守ります」
それが最後だった。
カイルは何も言えなかった。
布告が出れば終わる。
もう社交界の噂ではない。
王妃の叱責でもない。
公式の形で、自分の席が空にされるのだ。
その理解が、ようやく彼の顔から血の気を奪っていた。
昼過ぎ、布告は出た。
王都はざわめいた。
だが、そのざわめきは驚きより確認に近かった。
やはり、という空気だ。
王太子の婚約破棄は正式に認められた。
そして王太子の権限は大きく削られた。
そこまで来て初めて、社交界は完全に腹を決めた。
終わったのだ、と。
レヴァンティーヌ侯爵夫人の屋敷では、その報せが届くや否や、夫人たちが静かに顔を見合わせた。
「出ましたわね」
「ええ」
「王妃殿下が、とうとう決められたのね」
老公爵夫人が、紅茶の縁を指先でなぞりながら言う。
「これで、もう“様子見”ではいられませんわ」
それはつまり、王太子派の残党へも合図が出たということだった。
もう近づく理由はない。
むしろ、まだそこにいる方が恥になる。
王太子を笑う空気は、ここで一段深くなった。
なぜなら今までは“笑ってよいのか”の迷いが少しだけあったからだ。
王妃が切り分けた今、もう遠慮はいらない。
「あれほど堂々と婚約破棄しておいて」
若い伯爵夫人が呆れたように言う。
「最後はご自分の席だけ失うなんて」
「ご自分の席だけではありませんわ」
老公爵夫人が訂正する。
「ご自分を王太子らしく見せていたもの全部でしょう」
その言葉に、静かな笑いが落ちた。
本邸では、その布告文を読んだヘレナが、しばらく立ち尽くしていた。
手の中の紙が震える。
婚約破棄は予想していた。
問題はその後だ。
王太子の権限縮小。
公務の整理。
王妃直轄への移管。
これはつまり、あの男がもう“未来の絶対的な後ろ盾”ではなくなったということだ。
ヘレナはその現実を見た瞬間、喉の奥が乾いた。
「お母様」
扉の前に立っていたミレイユが、静かに声をかける。
「読んだのね」
「ええ」
ミレイユは部屋へ入ってくる。
その顔は青ざめてはいたが、取り乱してはいなかった。
以前なら違っただろう。
けれど、もう違う。
彼女は紙を受け取り、自分でも最後まで読んだ。
そして長く息を吐く。
「……そう」
それだけだった。
泣きもしない。
怒りもしない。
ただ、完全に終わったのだと理解した顔だった。
ヘレナがようやく搾り出す。
「こんなはずでは……」
「最初から、こうなるはずだったのかもしれないわ」
ミレイユの返答は静かだった。
その静けさが、ヘレナにはひどく残酷に感じられた。
「だって殿下、何も持っていなかったもの」
「持っていたのは肩書きだけだった」
「その肩書きを、王妃様に切り分けられたら、それで終わりでしょう」
娘の方が、もう母より現実を見ていた。
それがヘレナには耐えがたかった。
自分はまだ“何とかなる”という願望へしがみついていたのに、娘はもうそこから降りている。
そして、その違いがまた、自分の空虚さを突きつけてくる。
「……じゃあ、あなたはこれからどうするの」
ヘレナが聞く。
半ば、縋るような問いだった。
ミレイユは少しだけ考えた。
「分からないわ」
それは正直な答えだった。
「でも、少なくとももう、殿下に選ばれたことだけで何かになれるとは思わない」
「だから、習うわ」
「恥をかいても?」
「ええ」
短い返答だった。
その短さの中に、以前のような甘えはなかった。
別邸では夕方、グラントが布告の写しを持ってきていた。
リディアナはそれを最後まで読み、静かに紙を置いた。
「とうとう、ね」
「はい」
グラントが低く答える。
「王妃陛下が、正式に切り分けられました」
マリアベルも息をつく。
「ここまで明文化されると、もう戻りようがありませんね」
「ええ」
リディアナは窓の外へ視線を向けた。
夕方の光が庭を薄く金色に染めている。
どこまでも穏やかな景色だった。
それなのに、今日の王都では、一つの席が静かに死んだ。
王太子の席。
正確には、その席に付随していた信頼と熱と便宜のすべて。
肩書きだけは残るだろう。
だが中身は、もうかなり抜け落ちた。
「あの方は、初めて自分の席そのものを失ったのね」
リディアナが言う。
「はい」
「しかも、自分で立って逃げたあとに」
グラントはうなずく。
「まことに、見苦しい結末でございます」
「まだ結末ではないわ」
リディアナは静かに首を振った。
「席を失ったあと、自分が何者でもないと知るところからが、本当の終わりよ」
それはミレイユがすでに通り始めている道でもあった。
空っぽだと知る。
頭を下げる。
恥をかく。
それでも逃げない。
一方で、王太子はどうか。
笑われるのが痛い。
整理が嫌だ。
だから席を立った。
その果てに、席そのものを切り分けられた。
もしここからもなお学べないのなら、もう本当に終わりなのだろう。
「義妹様の方は」
マリアベルが尋ねる。
「少しずつでも進むかもしれませんね」
「ええ」
リディアナは短く答えた。
「でも、継母はもっと苦しいでしょうね。娘が前を向くほど、自分の空虚さだけが残るんだもの」
それもまた、十分に残酷な報いだった。
外見だけで娘を飾り、勝つための道具のように使ってきた女が、最後には娘の方に置いていかれる。
しかも、その娘はもう母へ答えを期待していない。
それはたぶん、王太子が権限を削られるより、ヘレナには痛い。
「全部、ようやく見合う形になったわね」
リディアナは小さく言った。
誰が何を持っていて、誰が何も持たなかったのか。
誰が頭を下げられて、誰が席を立って逃げたのか。
その差が、今ようやく形になったのだ。
窓の外では、日が沈みかけていた。
長い影が庭へ伸びていく。
一つの影は、そこで終わる。
だが、終わったあとに何が残るかで、人はさらに分かれていくのだろう。
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「あら、あなたも真実の愛を実らせようって仰いますの?」
フェルネの曾祖母シャーリンとレジナルドの祖父アルフォンス卿には悲恋の歴史がある。
「子孫の我々が結婚しようと関係ない。聡明な妻が欲しいだけだ」
互いに塩対応だったはずが、気づくとクーデレ夫婦になっていたフェルネとレジナルド。
その頃、真実の愛を貫いたはずのサディアスは……
(予定より長くなってしまった為、完結に伴い短編→長編に変更しました)
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