白い結婚ざまあ ~華麗なる逆転~

しおしお

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第1章 政略結婚の罠

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 曇りひとつない青空が、まるでこの日の輝かしさを示すかのように広がっている。けれども、ジェニファー・ランカスターは窓辺の奥から差し込む陽光をどこか冷えた眼差しで見つめていた。今日は彼女にとって一生に一度の晴れ舞台、すなわち結婚式の日である。本来なら胸が高鳴り、期待でいっぱいになるはずのこの日が、彼女にはまるで自分の人生の終焉を告げるような暗い幕開けに感じられてならない。
 ジェニファーの着る純白のドレスは、王都で一流の仕立屋が丹精を込めて作り上げたものだった。豪奢なレースが惜しみなく使われ、胸元や袖口を彩る小さな刺繍は、まるで花のように繊細で美しい。彼女の長い栗色の髪はきっちりとまとめられ、煌びやかなティアラがその上で光を放っている。
 ――まさか、自分の結婚の日にこれほど虚しい気持ちを抱えることになるなんて。
 ジェニファーはそっと目を伏せた。形ばかりの笑みを浮かべるように調整された唇が、少しだけ震える。彼女はまだ十九歳の若さで、貴族社会でも絶世の美女として名を馳せていた。背は高すぎず低すぎず、上品な佇まいは幼少期からの厳しい教育の賜物だ。切れ長の青い瞳には聡明さが宿り、柔らかな笑顔は誰からも好かれていた。
 しかし、この結婚は誰のためのものなのか。少なくとも、自分の幸せを考えた上でのものではない。それだけははっきりしている。
 ジェニファーの背後で、小間使いのメイドが細心の注意を払いながらドレスの裾を整えている。仕上げにヴェールをかけられたとき、ジェニファーは不意に自分がまるで籠の中の鳥か、あるいは繭の中の蝶かのように感じた。まだ羽化していない、自由になれない存在。それがあまりにも息苦しく、悲しかった。

 結婚式の相手は、王弟たるエドワード・クラレンス公爵。現国王の弟であり、王家の血を引く名門中の名門。クラレンス家は長くこの王国の繁栄を支え、公爵の称号を戴いている。エドワード自身は二十六歳。涼しげな灰色の瞳ときりりとした顔立ちを持ち、その端正な容姿で社交界の女性たちを虜にしていた人物でもある。
 ――そして、噂では彼には既に愛人がいるという。
 もちろん公にはされていないが、貴族社会は噂好きだ。ジェニファーの耳にも、エドワードと伯爵令嬢ローザの関係はなんとなく伝わってきていた。だが、ジェニファーはそのことを直接確かめるすべもなかったし、確かめる意味もないように思えた。どうせこの結婚は形ばかりの「白い結婚」なのだから。
 白い結婚――夫婦としての営みを持たない、ただ政治的・形式的な価値のみが重要視される結婚のことだ。その背後には複雑な思惑と力関係がある。ランカスター家は古くから王家に仕えてきた名門だったものの、財政状況が傾きつつあった。ジェニファーの父であるグレゴリー・ランカスター公は、王家により深く取り入ることで家の地位と権力を保ちたかった。
 一方、エドワードのほうは、実兄である国王から公爵領の自治を任されているが、その立場を盤石なものにするために、古参貴族であるランカスター家との縁組を求めた。これにより、従来からの重鎮貴族派閥の支持を得られる。双方にメリットはあるが、当のジェニファーとエドワードは“駒”に過ぎないのだ。
 ジェニファーには、思うところがあった。それでも、こうして家のために結婚をすることが自分の務めなのだと幼い頃から教えられてきたのも事実だ。もし自分が拒否すれば、ランカスター家は王宮での影響力を大きく失い、落ちぶれていくかもしれない。父も母も、血の滲むような努力を重ねてこの縁談をまとめあげた。
 ――それを知りながら、ジェニファーは何も言えない。
 花嫁支度を終えたジェニファーを見て、付き添いのメイドたちが感嘆の声を漏らす。
「まあ、なんて美しいのでしょう。まさに白百合のよう……」
「これほどまでに似合うドレスは他にないでしょうね」
 明るい言葉で盛り上げようとするメイドたちに対して、ジェニファーは微笑みを作りながらうなずいた。自分の心を隠すのは、貴族令嬢としてのたしなみ。泣きそうなほど苦しい思いがあっても、決して涙は見せない。
「ありがとう。皆のおかげで素敵な花嫁になれたわ」
 彼女はそう言ったものの、その声は少しだけ震えていた。

 やがて、宮廷教会から式の準備が整ったという知らせが届く。メイドたちがジェニファーをうやうやしく先導し、儀式の始まる広間へと向かった。
 宮廷教会は大聖堂のように荘厳で、ステンドグラスの窓から鮮やかな光が差し込んでいる。列席者としては王家や高位貴族ばかりが集まっており、その華麗さはまるで異世界のようだった。
 煌びやかなシャンデリアの下、白いバージンロードを一歩一歩踏みしめるジェニファー。目の前には祭壇があり、神父が厳粛な面持ちで待っている。その横には、新郎であるエドワード・クラレンス公爵の姿があった。
 エドワードは端正な顔立ちに似合う漆黒の礼服を身にまとい、胸元には王家の紋章が輝いている。涼しげな灰色の瞳が、一瞬ジェニファーの方をちらりと見たが、すぐに目を逸らした。新郎新婦として、愛を誓い合うはずの場面で、彼はまるで他人のような態度を崩さない。
 並び立ったとき、ジェニファーは微かに香るエドワードの香水の香りと、わずかな空気の流れを感じ取った。彼はあまり表情を変えないが、その横顔は確かに美しい。こんなにも整った容姿の男性と結婚するのだから、普通ならば心ときめくはずなのに――と思うと、ジェニファーの胸には苦いものが込み上げた。
 神父が典礼を始める。やがて二人の手が交わり、結婚の誓いの文言が読み上げられる。だが、その言葉に魂がこもっているようには思えない。ジェニファーにとっては、ただの形式に過ぎない。そしてエドワードにとっても同じなのだろう。彼の声には熱意も愛情も感じられなかった。
 それでも、列席者たちは感動的な場面を演出するために祝福の拍手を送り、微笑みを浮かべる。王家とランカスター家の縁組は大きな政治的意味を持つ。これが成功裏に終わることを望む人々は多いのだ。
 結婚式の儀が滞りなく進む中、ジェニファーはちらりと参列者の中に父の姿を捉えた。グレゴリー・ランカスター公は厳しい表情を崩さずに立っているが、その眼光には安堵がうかがえる。父は家の存続のためにこの結婚を望んだ。ジェニファーを愛していないわけではないが、家の長としての責任がそれを上回ったのだろう。
 最後に指輪の交換が行われる。エドワードがジェニファーの指にはめたリングには、王家のエンブレムが細工されていた。重みのある、その指輪。これが今後ジェニファーが背負わねばならない責務を象徴しているようで、思わず息が詰まる。
 ――こうして、形式上の結婚が結ばれた。これが、ジェニファーの「白い結婚」の始まりだった。

 式の後は、盛大な披露宴が開かれた。宮殿の広間を贅沢に使い、大理石の床には赤い絨毯が敷かれ、壁際には色とりどりの花々が飾られている。貴族たちは豪華な衣装に身を包み、美酒とご馳走を楽しみながら、今日の新郎新婦を囲んで談笑に興じている。
 ジェニファーは公爵夫人という新しい立場になったが、その実感はまるで湧かなかった。エドワードは来客に挨拶して回ることを理由に、ほとんどジェニファーのそばにはいない。まるでただの“儀礼上のパートナー”でしかないのだという現実を、まざまざと思い知らせるかのようだった。
 当初から分かっていたこと――そう自分に言い聞かせても、胸の奥にうずく痛みは消えない。
「まあ、公爵夫人、なんと美しいお姿かしら」
 そんな彼女に、同じく貴族の夫人たちが次々と声をかけてくる。
「まさに王家にふさわしいご令嬢でしたものね。ご結婚、おめでとうございますわ」
「お義母様とはもうお会いになりました? とても厳格なお方ですけれど、きっとジェニファー様なら気に入られるでしょう」
「うふふ……エドワード殿下は今や国中の憧れの的ですもの。あなたが羨ましいわ」
 口々に褒めそやされるが、その奥に含まれる興味本位の視線をジェニファーは感じ取る。彼女たちは、新しく“公爵夫人”という肩書きを得たジェニファーを、どこか品定めするように眺めているのだ。ジェニファーがいつ失敗するか、王弟の花嫁として相応しい振る舞いができるか、面白おかしく観察する――そんな雰囲気がある。
 ジェニファーは微笑を絶やさず、上品に受け答えをする。
「皆様、お祝いの言葉をありがとうございます。わたくしはまだ未熟者ですので、これから勉強して参りますわ。どうぞご指導よろしくお願いいたしますね」
 こうした返答も幼少期から叩き込まれていた。貴婦人たちには愛想よく丁寧に、かつ下手に出すぎないバランスを取りながら言葉を紡ぐ。それがこの世界で生きていくうえでの必須スキルだ。

 披露宴も半ばを過ぎた頃、エドワードがジェニファーの方へやっと戻ってきた。周囲の貴族たちが目を輝かせる。
「いやあ、新郎新婦の共演ですね」
「お似合いのカップルだこと!」
 エドワードは社交辞令の笑みを浮かべたまま、ジェニファーの腕を取る。
「これから皆の前でダンスをしなければならない。さあ、行こうか」
 まるで用件を事務的に伝えるような口調だった。ジェニファーは微妙な思いを抱えながらも、頷いてエドワードのリードに従う。
 広間中央に移動すると、楽隊が軽快な舞曲を奏で始めた。周囲の視線が集まる中、エドワードとジェニファーは優雅にステップを踏む。彼の腕の中は、見た目こそ端整だが、体温までもがひどくよそよそしく感じられる。
 リズムに合わせて踊りながら、ジェニファーはそっと口を開く。
「殿下……今日はありがとうございました。結婚式、無事に終わりましたね」
「そうだな」
 そっけない返事。さらに彼は視線を横に逸らす。
「これで、我が公爵家とランカスター家は互いに利益を得た。君としても望むところだったろう? 何か不満でもあるのか」
 エドワードの言葉はどこか冷淡だった。ジェニファーの瞳には、一瞬悲しげな色が宿るが、すぐに消えていく。
「いいえ。わたくしは公爵家のために尽くしますわ」
 心にもない返事が、口をついて出た。どうせ答えたところで、彼の態度は変わらない。これが二人の夫婦関係なのだと、ジェニファーは悟りつつあった。

 ダンスを終え、軽く一礼を交わしたところで、エドワードはさっさとジェニファーから離れてしまう。名残惜しそうに見つめる列席者たちを無視して、彼は一人でさっさと次の相手に声をかけに行ってしまったのだ。
「なんて素っ気ない……」
 ジェニファーは思わず苦笑を漏らす。周囲からは「まあ、公爵殿下はお忙しいのね」などというフォローの声も聞こえてくるが、その視線には明らかに好奇の色が混じっている。

 そんな中、ジェニファーは偶然にもある女性と目が合った。薄紅色のドレスを着て、大きなリボンをあしらった華やかな装いをしている。濃い金髪を高く結い上げていて、どこか挑戦的な笑みを浮かべている美女―― 伯爵令嬢ローザ だった。
 彼女は軽く会釈すると、目を細めて口元に笑みを湛える。その笑みに敵意が込められているかどうか、ジェニファーには判別がつかない。ただ、噂に聞いていたローザがこうして堂々と披露宴に出席している事実が、何かを暗示しているようにも思えた。
 ――彼女がエドワード殿下の愛人と言われている人?
 その疑惑が頭をよぎるが、今は確かめようがない。ジェニファーは軽く微笑んで見せたが、ローザはまるで勝ち誇ったかのような目をして、踵を返して去っていった。
 披露宴での楽しいはずの時間は、ジェニファーにとっては心休まらない緊張の連続だった。あちこちから偽りの祝福や皮肉を込めた言葉が降り注ぐ。ときおり親しげに振る舞う人もいるが、その裏にはどんな思惑があるかわからない。
 ようやく宴が終盤に差し掛かる頃、ジェニファーは控えの部屋へと戻り、少しだけ息をついた。メイドが忙しそうにドレスの乱れを整えたり、髪の飾りを直したりしてくれる。
「公爵夫人、お疲れでしょう」
「ええ……すこし疲れたわ。でも大丈夫、ありがとう」
 ジェニファーはかすかに笑う。メイドたちは心配そうにしているが、この先、もっとつらいことが待ち受けているのだろうと彼女は薄々感づいていた。

 夜、完全に披露宴が終わってから、ジェニファーは公爵家の馬車で自邸へ移動する。今日からそこが彼女の“新居”となるのだ。
 公爵家の館は王宮から少し離れた場所にあり、広大な敷地と重厚な建物が威風堂々とそびえていた。夜の闇の中でも、美しい庭園に並ぶランタンの明かりが幻想的な雰囲気を作り出している。
「わたくしが、ここで暮らすのね……」
 馬車を降りてから、ジェニファーは館を見上げながら呟いた。しかし、ここでの生活が決して幸福なものではないかもしれない。そんな予感が胸を締めつける。
 館の扉の前では執事や使用人たちが一列に並び、新たな公爵夫人を出迎えていた。
「ジェニファー様、ようこそクラレンス公爵家へ。私ども一同、心よりお慶び申し上げます」
 こうして丁重に歓迎してもらえるのも、あくまで“形式”の範疇だろう。ジェニファーは頭を下げつつ、その中に公爵本人の姿がないことを再確認して落胆した。
 ――エドワードはまだ帰っていないの?
 結婚したこの夜くらいは、夫婦で過ごすことが当たり前なのだろうと思っていたジェニファーだが、それは甘い考えだったようだ。どこか別の場所で用事を片付けているのか、あるいは――もっと邪推すれば、ローザのもとへ行っているのかもしれない。
 そう思うと、胸が痛み、複雑な感情が湧き上がってきた。しかし、ジェニファーはそれらの感情を表に出さないよう必死に抑え込む。自分の部屋に通されたあと、メイドが勧めてくれたハーブティーを口にしながら、わずかに震える指を見つめる。
「こんなにも……悲しいものだったかしら」
 ──結婚式の夜というものは、もっと幸福に満ちた時間だとばかり思っていた。

 部屋を見渡すと、高価そうな家具が整然と配置され、壁には華麗な絵画が飾られている。ベッドは天蓋付きで豪奢だが、今夜はそのベッドで一人眠るのだろう。
 表向きは新婚夫婦。しかし、この結婚は初めから「白い結婚」として取り決められていた。ランカスター家とクラレンス家の契約に従い、二人は夫婦として振る舞うが、夫婦の営みは持たない。つまり、相互不干渉の関係だ。
 なぜなら、この結婚の目的は政治的同盟と体面の維持にあるからだ。エドワードにはローザをはじめとする愛人がいるし、ジェニファーにも自由を与える――表向きはそういう取り決めだ。しかし、貴族社会である以上、周囲からの視線があるから“表面上だけは”夫婦としてふさわしい立ち居振る舞いをしなければならない。
 ジェニファーはあまりに虚しさを感じながら、ふと一つの決意を固める。
 ――それでも、私は私の立場で最善を尽くしてみせる。
 たとえ愛のない結婚であっても、ランカスター家の娘として、恥ずかしくない生き方をしたい。ジェニファーはそう自分に言い聞かせ、震える手をぎゅっと握りしめた。

 その夜、エドワードは結局、遅くに帰ってきた。時計の針は深夜を回っている。ジェニファーはベッドの上でまどろみながらも、扉の開く音に気づき、薄目を開けた。
 エドワードが部屋に入ってきたのだ。彼はジェニファーが寝ていることを確認すると、軽くため息をつき、部屋を出て行こうとする。その様子が見えてしまったジェニファーは、胸がちくりと痛んだ。
 ――こちらを振り向くことすらしないのね。
 自分の立場は“妻”であるはずなのに、まるで空気のように扱われている。そう思うと、その光景はあまりにも惨めで、そして悔しかった。
 だが、ジェニファーは起き上がって声をかけることはしなかった。何を言っていいかわからないし、エドワードの態度からしても、無理に関わろうとすれば煩わしがられるだけだろう。
 結婚初夜は、こうしてあっけなく幕を閉じた。

 翌朝。ジェニファーが目覚めると、窓から眩い日差しが差し込んでいた。高級なカーテンが揺らめき、さわやかな空気が部屋を満たしている。
 身支度を整え、メイドが用意してくれた朝食を軽くとると、ジェニファーは執事の案内で館の中を少し見学することにした。公爵夫人として館を把握しておく必要があるし、使用人たちに顔を覚えてもらわなければならない。
 廊下を歩きながら、ジェニファーはやや緊張していた。幼少期から厳しい貴族教育を受けてきたとはいえ、公爵家の主婦としていきなり振る舞うのは初めての経験だ。しかも、実質的には夫婦の実体がない状態。どこから仕事に手をつけたらいいのだろう。
「ここが大広間でございます。普段はお客様をお招きする際に使われる場所ですね。こちらのサロンは夫人のお茶会などに最適かと……」
 執事は淡々と説明を続ける。ジェニファーは心の中でメモを取りながら、合間に微笑を向けていた。使用人たちはどこかよそよそしく、しかし公爵夫人としての彼女を丁重に扱っている。
 突然、背後から澄んだ声がかかった。
「おはようございます、ジェニファー様」
 振り返ると、そこには中年の女性――公爵家の家令長を務めるマーサが立っていた。灰色の髪をきちんとまとめ、落ち着いた色合いのドレスを着こなし、きびきびとした動作が印象的だ。
「マーサ……でしたね。おはようございます」
 ジェニファーがにこやかに挨拶すると、マーサは少し恭しく頭を下げた。
「はい、マーサ・ブレアと申します。お屋敷内の事柄については、私に何でもお申し付けください。旦那様――エドワード殿下のご意向もあり、当面は夫人を全面的にお支えするようにとのお達しを受けておりますので」
 マーサの言葉を聞いて、ジェニファーは少し驚いた。
「エドワード殿下……そのような指示を?」
「はい。『余計なことを詮索するな』という条件付きですが、あなたの当面の采配は認めるとのことです」
 条件付き。ジェニファーはその“余計なこと”とは何を指すのか、すぐに察した。おそらくは、愛人関係や彼の政治的な動きなどを深く探ろうとしないこと――それが条件なのだろう。
 しかし、少なくとも館の運営や使用人の指揮については、ジェニファーが夫人として主導してよいことになっているらしい。それを聞いて、彼女は少しほっとした。何もできないまま“置物”にされるよりはずっといい。
「わかりました。マーサ、さっそくですが、館の使用人たちの人数や役割分担、それから毎月の家計や備品の調達状況などを把握したいのです。私が今後、管理するうえで必要となりますので、まとめた資料があれば見せていただけますか」
 ジェニファーがそう申し付けると、マーサはさっと目を見開き、そしてすぐに微笑んだ。
「かしこまりました。すでに書類は公爵夫人のために用意しております。執務室の方へご案内いたしますね」
 そう言って、マーサは先導するように歩き始めた。ジェニファーは彼女の後ろをついていく。その背中からは、公爵家を切り盛りしてきた長としての威厳と、ジェニファーへのある種の期待感が感じられた。
(なんとか、私にできることをやっていこう)
 そう思うと、不思議と少しだけ気が楽になった。結婚は望んだ形ではなかったが、公爵家の主婦として自分ができる仕事があるのなら、そこで自分の存在意義を見出したい。

 執務室で書類を受け取り、ジェニファーは一通り目を通す。使用人の数は相当多く、料理長や馬丁、メイド長などの責任者の名がずらりと並んでいる。家計管理も複雑だが、幼い頃から会計の基本くらいは仕込まれているジェニファーにとっては難しすぎるものではない。
 むしろ興味を引いたのは、公爵領の運営に関わる事項だった。領内の税収や農作物の収穫、商人たちとの取引状況など、かなり広範な情報がまとめられている。エドワード自身も領主としての義務を果たし、国王や他の貴族との政治交渉も行っているのだろう。
「今後、私がどこまで口出ししてよいのか、正直なところわかりませんが……」
 ジェニファーがためらいがちに言うと、マーサは小さく頷いた。
「領主としての最終判断は殿下が下されます。しかし、殿下は貴女の聡明さを認めておられるようですから、公爵夫人として、ある程度は助言して差し上げることを期待されているのではないでしょうか」
「エドワード殿下が、私に期待を……?」
 ジェニファーは信じがたい思いだった。結婚式や披露宴での彼の態度からは、そんな風には到底思えない。
「はい。実際、こうして私にも『夫人に協力せよ』と仰せつかっていますし……。もちろん、殿下には殿下のお考えが終わりでしょうけれど」
 マーサの言葉には含みがあった。エドワードがジェニファーを都合のいい“公爵夫人”として使いたいだけなのか、あるいは本当に彼女の能力を買っているのかは分からない。だが、ジェニファーにとってはわずかな光明でもある。自分の居場所を見つけ、誇りを保ちながら生きていくための足掛かりになるかもしれない。
「わかりました。しばらくは館の運営を学びつつ、力になれることがあれば、惜しまず取り組んでいきたいと思います」
「頼もしいお言葉です、夫人」

 そんな風に館の仕事を把握しようとしていたジェニファーだが、貴族社会は彼女にそう悠長な時間を与えてはくれなかった。その日の午後、早速、ジェニファーは「公爵夫人の挨拶回り」と称して社交界への顔見せを要求されたのだ。
 実は、夫人となった以上、周辺の貴婦人や王宮での要職夫人たちに挨拶をするのが慣例である。いわば“洗礼”のようなもので、一度に多くの人と接触し、関係づくりを始めなければならない。
「ジェニファー様、明日は王宮にてお義母様……クラレンス公爵未亡人と、王宮の女官長とのお茶会が予定されております。そちらに出席していただき、その後、いくつかの伯爵家や侯爵家の奥方のもとへご挨拶にうかがう予定です」
 マーサが淡々と説明する。
「お義母様……そうね。きっと厳しい方だと伺っていますが、実際にはどのようなお方なのかしら」
「先代公爵と共に王家を支えてこられた方で、格式と伝統を重んじるご性格です。殿下ですら頭が上がらないこともあるとか。とにかく、一筋縄ではいかないかもしれません」
 ジェニファーは小さく息をついた。エドワードの態度が冷淡だったのも、この義母の存在が大きいのかもしれない。
「わかりました。できる限り礼を尽くしてお会いしましょう」
 彼女としても、ここで義母の心象を悪くしてしまったら、今後の立ち回りは一層難しくなる。貴族社会では、嫁入り先の当主や家族との関係がそのまま地位や立場に影響を及ぼすからだ。

 翌日、馬車に乗って王宮へ向かったジェニファーは、改めてその威圧感に圧倒されそうになる。何度も訪れたことがある場所ではあるが、いざ“公爵夫人”として足を踏み入れるのは初めてだ。
 王宮の回廊を歩いていると、華やかなドレスをまとった貴婦人たちや、煌びやかな武官の姿が行き交う。どこを見ても豪奢で、王宮特有の華美さを感じる。
「お会いできて光栄ですわ、公爵夫人」
「まあ、新婚早々ご苦労ですわね」
 行き交う人々から、さまざまな挨拶を受ける。ジェニファーはそのたびに優雅に微笑み、丁寧に礼を返す。すると、中にはこそこそとした声で「どうせ形式だけの結婚ですものね」「本当に公爵殿下に相手にされるかしら」などと囁く者もいたが、ジェニファーはあえて気づかないふりをした。
 案内役の侍女に従い、目的の部屋へと通される。そこは窓が大きく、日の光がさんさんと降り注ぐ優雅なサロンだった。純白の壁には花のレリーフが彫られ、中央のテーブルには新鮮な果物と茶菓子が美しく並べられている。
 そこに座していたのは、一人の気品ある老女と、その周りを取り巻く数名の貴婦人たち。老女こそが、エドワードの母――クラレンス公爵未亡人である。
 彼女の名はイザベラ。今は先代公爵が亡くなっているため、未亡人として公爵家に一定の影響力を保持している。深い紫のドレスを身にまとい、白髪をきちんとまとめ上げた姿は、厳粛で近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「初めまして、イザベラ様。ジェニファー・ランカスターと申します。公爵夫人としてふさわしい振る舞いを身につけられるよう、精一杯努めて参りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 ジェニファーは姿勢を正し、すっと頭を下げた。
 イザベラは静かにジェニファーを上から下まで見つめる。まるで品評しているかのようだ。やがて口を開くと、その声には厳しい響きが含まれていた。
「まあ……写真で見るより少しは落ち着いているようね。若い娘は得てして浮ついているものだけれど、あなたの態度は悪くないわ」
 それがイザベラなりの“誉め言葉”なのだろう。周囲の貴婦人たちは苦笑交じりに見守る。
「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが、これから精一杯学んでいく所存です」
 ジェニファーが丁重に返事をすると、イザベラは軽くうなずいた。
「どこまで期待できるかは未知数だけれど、とりあえず、公爵家の恥にならないようにね。エドワードはああ見えて気まぐれな面があるから、余計なトラブルはごめんだわ」
 それはつまり、エドワードの愛人問題などを含めて“見て見ぬふりをしろ”と言わんばかりにも聞こえる。ジェニファーは胸にしこりを覚えつつも、表情には出さない。
「肝に銘じますわ。イザベラ様」
 こうして、お茶会は始まった。ジェニファーは周囲の貴婦人たちから根掘り葉掘り質問攻めに遭い、ランカスター家のことや、エドワードとの馴れ初め(もちろん形式的なことしか話せないが)などを語る。
 その最中、イザベラはほとんど口を挟まず、ただジェニファーの受け答えを観察しているようだった。やがて一通りの会話が落ち着いたところで、イザベラは口を開く。
「あなたは、まだ若いし美しい。これから先、公爵夫人として多くの誘惑や試練があるでしょう。エドワードがあなたをどう扱うかも分からない。それでも、あなたがクラレンス家の名を貶めないように務めるなら、私も協力は惜しまないわ」
 ジェニファーは僅かに唇を引き結びながら、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。そのお言葉に応えられるよう、努力いたします」

 こうして義母との初対面は、なんとか大きな衝突もなく終わった。しかし、その場の空気は決して暖かいものではなかった。周りの貴婦人たちは、ジェニファーの言動をいちいち観察し、彼女の能力や度量を測っている。少しでも失礼があれば、たちまち非難が巻き起こるだろう。
 ジェニファーは見えない重圧に押されながらも、最後まで気丈に振る舞った。これが今後長く続く“公爵夫人”としての役割なのだろう。彼女はそのことを改めて自覚させられ、帰りの馬車の中でぐったりと肩を落とすのだった。

 ――そして、このような日々が続く。
 形式的な夫婦関係、エドワードからの冷淡な態度、義母からの厳しい監視、社交界の好奇と羨望と蔑みが混じった視線。それらすべてに耐えなければならないのが、ジェニファーの“新婚生活”だった。
 彼女は思う。
(この結婚は、私にとって幸せをもたらすのだろうか? それとも……)
 そんな不安を抱えながら、ジェニファーはただ黙々と日々をこなしていくしかなかった。学んだ礼儀作法を完璧にこなし、笑顔を絶やさず、家のために尽くす――それが今の彼女の使命だったのだ。

 しかし、ひとたび寝室に戻れば、そこは広く冷たい空間が広がるだけ。夫は別の部屋、あるいは不在。夜の静寂が、ジェニファーの孤独をいや増していく。
 ――私は、ただの飾り物。そう自分で納得して生きるしかないのか?
 時折、枕元で声を殺して泣きそうになることもあった。だが、これが自分に与えられた運命なのだとあきらめるには、彼女はまだ若く、そして心の奥底では「本当の幸せ」を求める想いを消し去れずにいた。
 表向きは「完璧な公爵夫人」を演じるジェニファー。その装いはいつも美しく、街を歩けば貴婦人たちから称賛の言葉が上がる。だが、彼女の胸の内には常に寂寥感が漂っていた。
 こうして、政略結婚による「白い結婚」は幕を開けた。あまりにも冷たく、孤独で、しかし華やかな世界に縛りつけられたジェニファーの物語は、まだ始まったばかりである。
 この結婚が、のちに王都を揺るがす壮絶な“ざまあ”へと繋がっていくことを、彼女自身はまだ知る由もなかった。

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