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第2章 夫の裏切りと離婚の決意
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ジェニファー・ランカスターがクラレンス公爵家に嫁いでから、すでに数週間が過ぎた。形式上は公爵夫人としての役目をこなしつつ、彼女は淡々と館の運営に関わり、社交界での挨拶回りを続けている。
しかし、相変わらず夫であるエドワード・クラレンス公爵とは心の通った会話などほとんどなく、夜になっても彼はしばしば館を留守にする。帰ってきたとしても、二言三言の事務的なやり取りをするだけで、自分の部屋に籠ってしまうか、あるいはどこかへ出かけていってしまうのだ。
周囲の使用人たちも、その冷え切った夫婦関係を承知しているようで、誰もが表立って口には出さないが、どこかよそよそしい空気を纏ってジェニファーと接してくる。
それでも彼女は、自らに課せられた役割を全うしようと懸命だった。
――ここで心が折れては、すべてが終わってしまう。
エドワードの態度が冷淡であろうと、義母のイザベラや貴婦人たちの厳しい視線があろうと、ジェニファーは耐えねばならないのだ。
それはまるで、波打つ荒海に小舟を浮かべているような心境である。いつ船がひっくり返ってもおかしくない。だが、小舟に乗っている限り前に進むしか道はない。それが、ジェニファーの現状だった。
冷たさの奥にあるもの
ある日の朝。ジェニファーはいつものように早起きし、メイドの手を借りて身なりを整えたあと、公爵家の館の執務室に向かった。
彼女は公爵夫人として館の運営管理に関わっており、使用人への給金や備品の購入予算などをマーサや執事らとともに確認し、必要な決裁を行うのが日課になっていた。
ジェニファーが執務机に向かい書類に目を通していると、控えめなノックの音が聞こえる。
「失礼いたします、ジェニファー様」
マーサが姿を現し、深々と一礼した。彼女は公爵家の家令長として仕え、実質的には館の使用人を統率する立場にある。ジェニファーが夫人として着任して以来、最も頼りになる補佐役だった。
「おはようございます、マーサ。何か進捗はいかがですか?」
「はい。本日の夕刻に、殿下がお帰りになる予定だと連絡がございました。少し長めにいらっしゃるかもしれませんわ」
ジェニファーは一瞬、驚いた。最近のエドワードはほとんど家に帰ってこないことが多く、用があっても滞在時間は短かった。
「夕刻……わかりました。何かお迎えの準備をした方がよろしいでしょうか」
「そうですね。殿下は今夜、館にお客様を招く予定とのことです。詳細はまだ把握しておりませんが、なんでも“お食事会”になるようで……」
ジェニファーはマーサの言葉に、一抹の不安を覚える。なぜならエドワードが催す会合のほとんどには、政治的・社交的な意図があり、それに伴って面倒なやり取りが発生するからだ。特に、エドワードが可愛がっていると噂される愛人の存在――伯爵令嬢ローザ――が絡んでくる場合は、ジェニファーの立場がさらに複雑になる。
しかし、今さら尻込みしても仕方がない。ジェニファーは椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしてマーサに向き直った。
「わかりました。食事会の準備は私も手伝います。シェフや給仕たちと打ち合わせをして、失礼のないようにしましょう」
「かしこまりました。ご用命があれば何でも申し付けくださいませ」
そう言って、マーサはジェニファーに一礼し、そっと部屋を出ていく。
エドワードが“誰”を連れてくるのかはまだ定かではないが、彼の社交関係を考えれば、かなりの高位貴族か、あるいは王宮の重臣である可能性が高い。ジェニファーは少し気を引き締めた。公爵夫人としての顔を完璧に装って、そつなく振る舞わなければならない。
朝のうちに資料をざっと確認し終えたあと、ジェニファーは館の調理場へ向かい、料理長や給仕長とメニューの相談を始めた。エドワードの急な指示にも対応できるよう、数種類の料理案を用意しておく。ワインのチョイスやテーブル装飾の花の種類、楽師の手配なども念入りに打ち合わせる。
こうした細々とした作業は、貴婦人として退屈かもしれないが、ジェニファーはむしろこれらの「実務」にやりがいを見いだしていた。領地経営や館の管理は、やればやるほど自分の知識やスキルが活かされ、結果としてクラレンス家の名誉と利益に繋がる。それは少なくとも、“ただの飾り物”として見られたくないジェニファーにとって、小さくとも力を得られる場だったからだ。
伯爵令嬢ローザの不穏な噂
夕刻、エドワードは予定通り公爵家の館へと戻ってきた。
久方ぶりに夫婦が顔を合わせる場面であるが、彼の態度は相変わらず事務的だった。
「ジェニファー、手配ご苦労だったな。今回の夕食会には、王宮で取引を担っている商人たちを数名呼んでいる。若干遅れて来る者もいるようだが、とりあえず席の準備をお願いする」
「かしこまりました。すでに手配は済んでおりますので、スケジュールに変更があれば仰ってください」
ジェニファーはそう言いながら微笑むが、エドワードはあいまいに頷いただけで、さして関心がある様子もない。
(この人は、私を妻というより“執事”か何かと勘違いしているのでは……)
内心でそう感じても、表には出せなかった。
夕食会の客人たちは、高級な衣服に身を包んだ富裕層の商人や、王宮の行政を担う官僚などで構成されていた。政治的な駆け引きや、商売の話で盛り上がる男たちの中に、ジェニファーは唯一の女性として同席を余儀なくされる。
……と思いきや、そうではなかった。
客が徐々に揃い始めた頃、館の扉からローザ・フィッツジェラルド伯爵令嬢の姿が現れる。彼女は薄紅色のドレスに身を包み、巻き髪を優雅に揺らして登場した。
「まあ、お招きいただき光栄ですわ。エドワード殿下」
彼女は馴れ馴れしくエドワードに近づき、柔らかな手つきで彼の腕に触れる。まるでそこに奥方であるジェニファーの存在などないかのように。
ジェニファーの胸には、不快感と疑念が渦巻く。公爵家の食事会に、わざわざ伯爵令嬢が招かれること自体は珍しくはないが、ローザは明らかに“公的な場”の空気ではなく、私的な親密さを漂わせている。
エドワードが彼女を真っ先に招き入れ、笑顔で言葉を交わしている様子からして、その関係性は噂以上のものがあることが、誰の目にも明らかだった。
(どうして……)
ジェニファーは動揺を押し殺しながら、周囲の視線を冷静に観察する。商人や官僚たちは、ローザの登場を見ても驚くそぶりを見せない。むしろ当然のこととして受け入れているようだ。それはつまり、彼女がエドワードの“特別な存在”である事実を周知していることを意味する。
王宮でも社交界でも、エドワード公爵には愛人がいる――もはやそれは“公然の秘密”というレベルになっているのだろう。
それでも表面上は誰も咎めない。なぜならエドワードが王弟であり、強大な権力を握る人物だからだ。愛人関係の一つや二つ、貴族の間では珍しくない。“ただし、それを正妻の面前で誇示する”というのは、あまりにも露骨で礼を欠く行為ではあるが……。
ジェニファーは大きく息を吸い込み、やわらかな笑顔を作って人々を迎える。
「皆様、本日はようこそいらっしゃいました。お席へ案内いたしますので、どうぞおくつろぎください」
ドレスの裾を揺らしながら、彼女は給仕たちを指揮して客人をテーブルへ案内する。
食事が始まると、話題は商談や王宮での儀式、そしてエドワードの公爵領における新たな開発計画などに及んだ。ジェニファーは適宜合いの手を入れたり、笑顔でうなずいたりして、場の雰囲気をスムーズにするよう努める。
その一方で、ローザはまるで女主人のようにエドワードの隣を陣取り、彼の酒を注いだり談笑したりしていた。客たちも、そんな二人の親密な様子を見て、下品な冗談を飛ばす者さえいる。
「いやあ、公爵殿下とローザ嬢は息がピッタリですな。そろそろ正式に“夫人”の座を……なんてことはございませんかな?」
「はは、殿下もお若いんだから、お好きにされていいんですよ」
彼らは明らかにジェニファーの存在を無視していた。あるいは、ジェニファーの面前であえて揶揄しているのかもしれない。
ジェニファーは悔しさと羞恥に耐えながら、食事会が滞りなく終わるように努める。何を言われても、何を見せつけられても、公爵夫人として取り乱すわけにはいかないのだ。
――こんな屈辱的な状況を、なぜ私は甘んじて受けなければならないのだろう。
その答えはわかっている。ランカスター家の名誉と立場を守るため。そして自分自身が公爵夫人という地位を得ることで、父母を安心させるため。だが、度重なる侮辱に、ジェニファーの心は限界に近づきつつあった。
公爵邸の舞踏会と決定的な侮辱
それから数日後、クラレンス公爵家の館で大規模な舞踏会が開かれる運びとなった。王宮の行事とタイミングを合わせたものであり、貴族や要人たちを広く招いての“交流の場”でもある。
ジェニファーはその準備に奔走し、内装の飾り付けや招待状の確認、当日の進行表などをチェックしていた。こういった業務は大変ではあったが、成功すれば公爵家の名声が高まるのは間違いない。自分の評価にも繋がるため、ジェニファーは全力を尽くしていた。
そして当日。館の大広間は豪華絢爛な装飾で彩られ、シャンデリアの光がきらめいている。床に敷かれた赤い絨毯の上を、思い思いのドレスや礼服を纏った貴族たちが行き交い、楽師たちの奏でる優雅な音楽が空気を満たしていた。
ジェニファーも純白のドレスに身を包み、貴婦人たちを迎える。表向きは微笑みを絶やさず、さながら“完璧な公爵夫人”そのものである。
しかし、そこにもまた、ローザの姿があった。彼女は深紅のドレスを着こなし、大胆な胸元を露わにしている。華やかな化粧と装飾品で着飾り、見る者の目を奪うような派手さを放っていた。
「ごきげんよう、ジェニファー公爵夫人。お招きありがとうございますわ」
ローザは上品な笑みを浮かべながら、どこか挑発的な瞳を向けてくる。
「ごきげんよう、ローザ嬢。今夜は思い切り楽しんでいってくださいね」
ジェニファーは“公爵夫人”としての礼儀を崩さない。だが、ローザの背後に目をやると、そこにはエドワードの姿があった。まるでエスコートでもしているかのように、彼女のすぐ後ろを歩いていたのだ。
(まるで正妻のように振る舞うつもり?)
怒りや悲しみが渦巻くが、ジェニファーはそれらを全て飲み込んで、笑顔を保つ。これもまた、貴族社会における“マナー”の一部なのだ。
やがて舞踏会が始まり、多くの紳士淑女が音楽に合わせて優美にステップを踏む。ジェニファーも招待客の貴族たちと挨拶を交わしながら、適宜ダンスに誘われるままフロアを回った。
しかし、公爵夫人であるジェニファーに本来なら集中すべき注目は、なぜかローザへと奪われている気配がある。ローザはエドワードに腕を取られ、情熱的なタンゴのリズムで華やかなステップを踏んでいた。周囲が拍手喝采する中、ジェニファーだけが“脇役”のような立ち位置に追いやられている。
「……なんとも派手なお二人ですこと」
「やっぱり殿下はあちらがお好きなのでしょうねぇ」
耳を澄ませれば、聞こえてくるのはそんな囁きばかり。貴婦人たちはジェニファーの前ではにこやかにお世辞を並べるが、裏ではこうして冷ややかな視線を送っている。
ジェニファーはじっと耐えるしかなかった。ここで取り乱せば「やはり若く未熟な夫人だ」と見なされ、イザベラからの評価も更に落ちるだろう。
そして、さらなる屈辱が訪れたのは、舞踏会も後半に差し掛かった頃だった。
メインのワルツが始まる直前、エドワードがフロアの中央に向かってローザの手を引いて進んでいく。貴族たちはそれを見てさっと道を開け、まるで二人を祝福するような空気を作る。
だが、本来ならばワルツの主役は“公爵夫人”であるジェニファーとその夫たるエドワードだ。公式の舞踏会で、開催家の夫妻が最初にワルツを踊るのは伝統でもある。
しかし、エドワードはジェニファーを無視し、ローザを選んだのだ。周囲の視線が一気にジェニファーへ集中する。
「まあ……あれはさすがに失礼ではなくて?」
「かわいそうに、公爵夫人……」
同情とも嘲笑ともつかない声が聞こえ、ジェニファーは胸をえぐられるような痛みに襲われる。
(もう、これ以上は……)
どれだけ我慢すればよいのだろう。自分は貴族としての誇りを守るため、家のため、と必死に耐えてきた。だが、今日という今日はあまりにも露骨すぎる。まるでジェニファーの存在そのものを否定されているようだった。
エドワードとローザが見せる完璧なステップは、周囲の口笛や拍手を呼び、フロアは盛り上がっている。二人は息を合わせ、ほとんど抱き合うかのような熱いワルツを踊ってみせた。
その光景を目に焼き付けながら、ジェニファーの目には涙が滲んだ。悔しい、悲しい、しかしどうにもならない――さまざまな感情が胸をいっぱいにするが、彼女は歯を食いしばって笑みを作ろうとする。
――けれど、それはもう限界だった。
「……お腹の具合が悪い。失礼するわ」
ジェニファーは苦しい言い訳を口にして、周囲に気づかれないように大広間を後にした。胸が張り裂けそうな苦しみに耐えきれず、館の廊下を足早に進む。途中でメイドが心配そうに声をかけてくるが、ジェニファーは軽く首を振り、そのまま逃げるように自室へ向かった。
部屋に入るや否や、彼女はドアに背をもたれかけ、頭を抱える。化粧や髪型は完璧に仕上げていたが、涙は勝手に溢れて止まらなかった。
――どうして、こんな仕打ちを受けなければならないの。
言葉にならない嘆きが、声となって嗚咽に変わる。外ではまだ、舞踏会の華やかな音楽が鳴り響いているのに、そのコントラストがかえって惨めさを際立たせた。
決定的な一言と離婚の意思
舞踏会が一通り終わった深夜、ジェニファーは自室のベッドに腰掛けていた。ドレスを着替える気力もなく、ただそこに座って空虚な思いで夜の闇を見つめている。
どこか遠くから笑い声や馬車の音が聞こえる。客人たちが帰る支度を始めているのだろう。エドワードはローザを見送るのか、あるいは彼自身がローザとどこかへ行くのか――そんなことを考えるだけで胸が苦しかった。
すると、不意にノックの音が響く。
「……どなた?」
返事をすると、扉の向こうからエドワードの低い声が聞こえた。
「俺だ。少し話がある」
ジェニファーは驚きながらも、ドアを開ける。そこに立っていたのは、疲れたような表情を浮かべたエドワードだった。宴の余韻を思わせる酒の香りが、ほのかに漂っている。
「こんな時間に……何かご用かしら」
努めて平静を装ってみせても、感情は抑えきれない。彼の顔を見るだけで、今夜の屈辱が脳裏によみがえる。
エドワードは部屋に入ると、ドアを閉めて軽く肩をすくめるように息をついた。
「先ほどの舞踏会では、いろいろとあったようだな」
「……『あった』のは私ではなく、あなたとローザ嬢でしょう?」
ジェニファーは淡々と答える。すると、エドワードの眉間にわずかな皺が寄った。
「ローザのことを責めたいのか? だが、あれは俺たちの勝手だ。君に口出しされる筋合いはない」
その言葉を聞いた瞬間、ジェニファーは目の前が暗くなるほどの怒りと悲しみを感じた。“勝手だ”――たしかに契約結婚のようなものだが、いくらなんでも正妻を踏みにじるのはやりすぎではないだろうか。
「私は、あなたの妻です。表向きだけとはいえ、クラレンス公爵家の夫人でしょう? その私を公衆の面前であそこまで侮辱する行為が、どうして“勝手”で済むのですか」
思わず震える声が零れる。かつては決して乱さなかった感情が、もう限界を超えて吹き出しそうだった。
エドワードは苛立たしげに視線を逸らす。
「……これは、お互い干渉しないという約束のもとに成り立っている結婚だ。君が公爵夫人として立ち回りさえしていれば、俺が誰と踊ろうが自由なはずだ。何を今さら騒ぐ?」
それは、まさにジェニファーの心を一刀両断にする言葉だった。
「あなたの言う“自由”は、人を傷つけても構わないということ? 私にも誇りがあります。私の立場だってある。今日のように公爵夫人を差し置いて愛人と踊るなんて、あまりにも無礼です」
ジェニファーの声は感情で上ずり、怒りがこみ上げてくる。しかし、エドワードは薄く笑いながら言い放った。
「……そんなもの、気にするだけ無駄だろう。俺と君は政治的な契約で結婚したに過ぎない。愛なんてないし、お互いに関わらないのがベストだと最初からわかっていたはずだ」
「でも、だからといって……! ここまで私を侮辱しなくてもいいじゃないですか……!」
思わず涙が溢れそうになるのを必死で堪える。だが、エドワードは冷酷に続ける。
「ランカスター家は王家と繋がりを深めたい、俺の方は王家を動かす古参貴族の地盤を欲しかった。それだけだ。君が気に病む必要はない。君の家はこれで安泰なんだから、感謝されてもいいくらいだ」
その瞬間、ジェニファーの中で何かがプツリと切れた。
――私は、そんな風に「家のための生贄」として一生を終わるの?
これほどまでに尊厳を踏みにじられて、なお耐え続ける理由は本当にあるのか。家の名誉? 公爵夫人の地位? そんなものは、自分の心を粉砕してまで守る価値があるのだろうか。
「……わかりました」
ジェニファーは感情を押し殺し、静かに微笑んだ。その笑みはまるで、死んだように冷たいものだった。
「何がわかったというんだ?」
「もう、あなたに何も期待しません。私もあなたの『道具』でいるのは限界です。私は……離婚を望みます」
そこまで言い切った瞬間、エドワードの表情がわずかに揺れた。
「離婚……だと?」
「そうです。私はあなたが誰を愛そうと、構いません。でも、これ以上、公爵夫人という立場であなたの遊びに巻き込まれたくない。私を軽んじる態度にも耐えられません。どうか私を解放してください」
ジェニファーの声は震えていたが、その瞳には確固たる意思が宿っていた。エドワードは思わず言葉を失う。これまでジェニファーがどんなに悲しそうな顔をしていても、離婚という選択肢に踏み切るとは思わなかったのだろう。
やがて、エドワードの唇から嘲笑が漏れる。
「はっ……離婚? 君は分かっているのか? それがどういうことなのか。君はランカスター家の娘として、ここで俺と別れるというのは……」
「ええ、わかっています。父はきっと失望し、家の者たちは怒るでしょう。でも、私はもうこれ以上、あなたのもとで生きていたくはないの」
「それは君だけの都合だ。ランカスター家の人間は、それを許すだろうか?」
エドワードの言葉には脅しの響きがあった。もしジェニファーが離婚すれば、ランカスター家は王宮の支持を失い、地盤を大きく削られる可能性が高い。だが、彼女の決意は揺るがない。
「私は、もう誰に何を言われてもいい。私の人生は、私のものです。あなたが私を必要としないように、私もあなたを必要とはしません」
その毅然たる発言に、エドワードは一瞬言葉を失う。そして苛立ち混じりに言い放った。
「……勝手にしろ。離婚したければすればいい。ただし、そうなると君の実家は王家との繋がりを失う。おそらく、以前のように貴族社会で大きく振る舞うことは難しくなるぞ」
「構いません。私をただの飾り物として扱う結婚より、いっそ身一つで出て行った方がましです」
ジェニファーは静かにそう告げると、エドワードの前を通り過ぎ、ドアの方へ向かった。
「どこへ行くつもりだ」
「少し、この家の外の空気を吸いたいだけです。あなたにはもう、何も言われたくありません」
そのまま部屋を後にしようとするジェニファーに、エドワードは一瞬手を伸ばしかけたが、結局何もせずに口をつぐんで見送った。部屋には重たい沈黙だけが残される。
暗い廊下を進みながら、ジェニファーの胸中には怒りと悲しみ、そして一抹の清々しさが混在していた。
――ついに“離婚”の意思を口にしてしまった。
まだ正式に手続きしたわけではないが、もう後戻りはできない。少なくとも、エドワードに対する未練は完全に断ち切れた。どんなに美しい顔立ちをしていても、心がこれほど醜い人間を愛することなどできるはずがない。
決意と覚悟
翌朝、ジェニファーは早速、書斎へ向かいペンを取った。離婚にまつわる書類を用意するには、まずどのような段取りが必要か、頭の中で整理する。
そもそも、貴族社会で離婚は珍しい。ましてや相手が王弟の公爵ともなれば、波紋は計り知れないだろう。国王や関係する貴族たちの意向も無視できない。一筋縄ではいかない手続きを踏まなければならないのは明白だった。
それでも、ジェニファーは進むしかない。
ドアをノックする音がして、マーサが顔を出す。
「ジェニファー様、少しご相談がございます」
「ええ、どうぞ。お入りなさい」
マーサは室内に入り、ジェニファーの向かいの椅子に座った。どこか深刻そうな顔をしている。
「実は、昨夜殿下とローザ嬢が密談していたとの報告がありまして。その内容までは把握できませんでしたが、ローザ嬢が“公爵家の財政”や“新たな商会への投資”について強く口出ししていたようなのです」
「……公爵家の財政、ですって?」
ジェニファーは眉をひそめる。エドワードには政治の方針や領地経営などで発言権があるのは当然だが、ローザはあくまで外部の人間だ。なぜ彼女がそこまで口を挟むのか。
「しかも、その商会というのは、以前からローザ嬢の遠縁が経営していると噂されていて……もしや、私利私欲のために殿下を利用している可能性がございます」
「そんな……。エドワード殿下は、そのことに気づいていないのでしょうか」
「さあ……少なくとも、昨夜の様子では殿下も乗り気のようでした。殿下は王宮からの許可を得れば、ある程度の予算を動かせますから。もしローザ嬢が裏で利益を得る仕組みを作ることができれば……」
ジェニファーは思わず唇を噛む。もしかしたら、エドワードは本当にローザを愛しているわけではなく、何らかの取り引きや打算的な関係で結びついているのかもしれない。それも含めて“自由”だと言い張っているのだろうが、正妻であるジェニファーを無視して進められるのはたまらなく不愉快だ。
――とはいえ、もはや私には関係のないことかもしれない。離婚を決意した以上、エドワードの行動に干渉する筋合いはない。
そう頭ではわかっていても、マーサからの報告を聞くと胸がざわつく。クラレンス公爵家は、言うまでもなく重要な貴族の一角。もしローザの策略で公爵家の財政が危うくなれば、ランカスター家にも影響が及ぶかもしれない。
「マーサ、私にできることは何かあるかしら。仮に殿下が暴走して、公爵家の財源を食い潰すようなことがあれば……」
ジェニファーがそう問うと、マーサは少し困ったように視線を落とす。
「公爵夫人としては、殿下に意見を申し上げることが可能です。ですが、昨夜のご様子では殿下が耳を傾けるかどうか……。むしろ、ローザ嬢と対立するのは得策とは思えません」
「……ええ、わかっています。私も闇雲に争うつもりはありません。もうすぐ、この家を出ることになるかもしれませんし」
ジェニファーの淡々とした言葉に、マーサは目を見開いた。
「この家を……出る、とおっしゃいますと?」
「昨夜、殿下に離婚を申し出ました。正式に手続きを行うためには多くの障害があるでしょうが、私はもうこの結婚を続けるつもりはありません」
マーサは一瞬言葉を失い、やがて小声でため息をついた。
「……そうですか。殿下からはまだ何も仰せつかっておりませんが、もしそうなれば公爵家にとっても大きな問題ですね。私どものような使用人には、あまり関わりのない話と言うべきかもしれませんが……」
「いいえ、マーサ。あなたには今までよくしていただきました。私が公爵家を離れたあとも、ここで仕えていくのですよね?」
「ええ、そのつもりです。ここは私の生まれ育った家同然ですので……ただ、ジェニファー様のご決断については、私個人としては応援したい気持ちもございます」
マーサの言葉に、ジェニファーは温かいものを感じた。自分を慕い、理解してくれる人が少しでもいる――それは、今の彼女にとってどれほど心強いことか。
「ありがとう。あなたのような味方がいるから、私は自分の道を選ぶ勇気を持てるのかもしれない。……まだ先行きはわからないけれど、もう決めたことです」
家族との衝突と邸を出る日
その翌日、ジェニファーは実家であるランカスター家へと足を運んだ。離婚の意志を父に告げるためである。
王都にあるランカスター家の館は、クラレンス公爵家ほどの豪勢さはないが、由緒正しい品格を備えていた。ジェニファーが幼少期を過ごした思い出深い場所だが、久しぶりに訪れるとやや寂れた雰囲気が漂っているようにも感じられる。やはり財政面が傾いているという噂は本当なのだろう。
客間に通されると、父であるグレゴリー・ランカスター公が姿を現した。彼は厳つい顔つきに皺を刻み、威圧感のある体格をしているが、ジェニファーが幼い頃は優しい笑みを見せることも多かった。
「久しいな、ジェニファー。公爵家での暮らしはどうだ? エドワード殿下とはうまくやれているのか?」
父の問いかけに、ジェニファーは淡々と切り出した。
「……父様。実は私、エドワード殿下との離婚を考えております」
「な、何だと?」
グレゴリー公は驚きに目を見開き、思わず声を荒らげた。
「馬鹿を言うんじゃない! 離婚など認められるはずがないだろう。国王の弟君との縁組がどれほど重要かわかっているのか?」
怒気を含んだ叱責に、ジェニファーは動じずにまっすぐ父を見返した。
「承知しています。でも、あの人との結婚生活は、あまりにも侮辱的で……私には耐えられません。こんな形で続けるくらいなら、いっそ離婚する方がましです」
「何を考えているんだ! これはお前一人の問題ではない! ランカスター家の命運がかかっているんだぞ!」
父の怒声が客間に響く。ジェニファーはそれでも怯まず、言葉を重ねる。
「お父様には感謝しています。私を大事に育ててくださったし、この縁組をまとめるために多大な努力をしてくださった。でも……私はただの駒ではありません。どうか、私の意志を尊重してください」
「馬鹿を言うな! そうやって甘ったれたことを言うから、お前は……」
グレゴリー公は顔を真っ赤にして怒鳴り、机を叩いた。しかし、ジェニファーが怯む様子はない。むしろ、静かに立ち上がって深々と頭を下げた。
「私はもう決めました。どんなにランカスター家に不利益があろうと、これ以上あの家にはいられません。申し訳ありませんが、私を止めようとしても無駄です」
「待ちなさい、ジェニファー! いいか、少し考え直せ……!」
父の声を背中で聞きながら、ジェニファーは足早に客間を出て行った。廊下を歩く間、あちこちの使用人たちが心配そうな顔で見守るが、彼女は誰にも挨拶をせず、ただ胸を張って館を後にする。
――自分の決意は揺らがない。たとえ家族に罵倒されようとも。
数日後、ジェニファーは最低限の身の回り品だけをまとめて、クラレンス公爵家の館を出た。まだ正式に離婚が成立したわけではないが、エドワードとの協議の末、別居という形で一旦距離を置くことになったのだ。
行き先は、王都の少し外れにある離宮の一室。国王が一時的に外国の要人を迎えるための施設だが、使用していない部屋があることをマーサが調べてくれたのだ。ジェニファーは“体調不良”を理由に、そこで静養する名目を得て、事実上の別居生活を始める。
――公爵夫人としての地位は、まだ継続しているという建前。だが、心はすでに“離婚”に向かっている。
終わりに向かう始まり
こうして、ジェニファーは**「夫の裏切りと離婚の決意」**という大きな転機を迎えた。
白い結婚――形だけの夫婦関係の中で必死に耐えてきた彼女だったが、あまりにも露骨な侮辱を受け、ついに自分の尊厳を守るために立ち上がったのだ。
しかし、これが本当の意味での解放に繋がるのか、それともさらなる苦難の始まりとなるのかは、まだ誰にもわからない。少なくとも、王家を巻き込んだ離婚騒動が穏便に済むわけはないし、ランカスター家との関係も一気に悪化するだろう。
それでも、ジェニファーはもう後戻りしない。たとえ財産を失おうと、地位を失おうと、あの冷たい「白い結婚」にしがみつくよりはずっとましだと信じている。
真夜中の離宮の部屋で、ジェニファーは小さなランプの光を頼りに、離婚後の人生について思いを巡らせていた。
――私は、どんな道を歩むのだろう。もしかしたら、王都を離れて遠い地に住むことになるかもしれない。一人きりで生きるのは不安だが、エドワードの傍で“モノ扱い”をされる苦しさに比べれば、いくらでも頑張れる気がする。
ふと、窓の外を見れば、雲間から差し込む月の光が庭を照らしていた。闇の中に浮かぶその光はどこか儚げで、それでも確かに存在する。
自分も、こんなふうに儚くとも揺るぎない“光”を見つけられるだろうか――そう願いながら、ジェニファーはそっと瞼を閉じる。
ここから先、彼女が手に入れる“真の幸せ”や“華麗なる逆転”は、まだ遠い未来の話。けれど、確かに風は動き始めている。
離宮の静寂の中で、ジェニファーは自らの決断を改めて胸に刻み込んだ。絶対に後悔はしない。どれだけ辛い道でも、自分の尊厳を捨てるよりははるかに良い――と。
しかし、相変わらず夫であるエドワード・クラレンス公爵とは心の通った会話などほとんどなく、夜になっても彼はしばしば館を留守にする。帰ってきたとしても、二言三言の事務的なやり取りをするだけで、自分の部屋に籠ってしまうか、あるいはどこかへ出かけていってしまうのだ。
周囲の使用人たちも、その冷え切った夫婦関係を承知しているようで、誰もが表立って口には出さないが、どこかよそよそしい空気を纏ってジェニファーと接してくる。
それでも彼女は、自らに課せられた役割を全うしようと懸命だった。
――ここで心が折れては、すべてが終わってしまう。
エドワードの態度が冷淡であろうと、義母のイザベラや貴婦人たちの厳しい視線があろうと、ジェニファーは耐えねばならないのだ。
それはまるで、波打つ荒海に小舟を浮かべているような心境である。いつ船がひっくり返ってもおかしくない。だが、小舟に乗っている限り前に進むしか道はない。それが、ジェニファーの現状だった。
冷たさの奥にあるもの
ある日の朝。ジェニファーはいつものように早起きし、メイドの手を借りて身なりを整えたあと、公爵家の館の執務室に向かった。
彼女は公爵夫人として館の運営管理に関わっており、使用人への給金や備品の購入予算などをマーサや執事らとともに確認し、必要な決裁を行うのが日課になっていた。
ジェニファーが執務机に向かい書類に目を通していると、控えめなノックの音が聞こえる。
「失礼いたします、ジェニファー様」
マーサが姿を現し、深々と一礼した。彼女は公爵家の家令長として仕え、実質的には館の使用人を統率する立場にある。ジェニファーが夫人として着任して以来、最も頼りになる補佐役だった。
「おはようございます、マーサ。何か進捗はいかがですか?」
「はい。本日の夕刻に、殿下がお帰りになる予定だと連絡がございました。少し長めにいらっしゃるかもしれませんわ」
ジェニファーは一瞬、驚いた。最近のエドワードはほとんど家に帰ってこないことが多く、用があっても滞在時間は短かった。
「夕刻……わかりました。何かお迎えの準備をした方がよろしいでしょうか」
「そうですね。殿下は今夜、館にお客様を招く予定とのことです。詳細はまだ把握しておりませんが、なんでも“お食事会”になるようで……」
ジェニファーはマーサの言葉に、一抹の不安を覚える。なぜならエドワードが催す会合のほとんどには、政治的・社交的な意図があり、それに伴って面倒なやり取りが発生するからだ。特に、エドワードが可愛がっていると噂される愛人の存在――伯爵令嬢ローザ――が絡んでくる場合は、ジェニファーの立場がさらに複雑になる。
しかし、今さら尻込みしても仕方がない。ジェニファーは椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしてマーサに向き直った。
「わかりました。食事会の準備は私も手伝います。シェフや給仕たちと打ち合わせをして、失礼のないようにしましょう」
「かしこまりました。ご用命があれば何でも申し付けくださいませ」
そう言って、マーサはジェニファーに一礼し、そっと部屋を出ていく。
エドワードが“誰”を連れてくるのかはまだ定かではないが、彼の社交関係を考えれば、かなりの高位貴族か、あるいは王宮の重臣である可能性が高い。ジェニファーは少し気を引き締めた。公爵夫人としての顔を完璧に装って、そつなく振る舞わなければならない。
朝のうちに資料をざっと確認し終えたあと、ジェニファーは館の調理場へ向かい、料理長や給仕長とメニューの相談を始めた。エドワードの急な指示にも対応できるよう、数種類の料理案を用意しておく。ワインのチョイスやテーブル装飾の花の種類、楽師の手配なども念入りに打ち合わせる。
こうした細々とした作業は、貴婦人として退屈かもしれないが、ジェニファーはむしろこれらの「実務」にやりがいを見いだしていた。領地経営や館の管理は、やればやるほど自分の知識やスキルが活かされ、結果としてクラレンス家の名誉と利益に繋がる。それは少なくとも、“ただの飾り物”として見られたくないジェニファーにとって、小さくとも力を得られる場だったからだ。
伯爵令嬢ローザの不穏な噂
夕刻、エドワードは予定通り公爵家の館へと戻ってきた。
久方ぶりに夫婦が顔を合わせる場面であるが、彼の態度は相変わらず事務的だった。
「ジェニファー、手配ご苦労だったな。今回の夕食会には、王宮で取引を担っている商人たちを数名呼んでいる。若干遅れて来る者もいるようだが、とりあえず席の準備をお願いする」
「かしこまりました。すでに手配は済んでおりますので、スケジュールに変更があれば仰ってください」
ジェニファーはそう言いながら微笑むが、エドワードはあいまいに頷いただけで、さして関心がある様子もない。
(この人は、私を妻というより“執事”か何かと勘違いしているのでは……)
内心でそう感じても、表には出せなかった。
夕食会の客人たちは、高級な衣服に身を包んだ富裕層の商人や、王宮の行政を担う官僚などで構成されていた。政治的な駆け引きや、商売の話で盛り上がる男たちの中に、ジェニファーは唯一の女性として同席を余儀なくされる。
……と思いきや、そうではなかった。
客が徐々に揃い始めた頃、館の扉からローザ・フィッツジェラルド伯爵令嬢の姿が現れる。彼女は薄紅色のドレスに身を包み、巻き髪を優雅に揺らして登場した。
「まあ、お招きいただき光栄ですわ。エドワード殿下」
彼女は馴れ馴れしくエドワードに近づき、柔らかな手つきで彼の腕に触れる。まるでそこに奥方であるジェニファーの存在などないかのように。
ジェニファーの胸には、不快感と疑念が渦巻く。公爵家の食事会に、わざわざ伯爵令嬢が招かれること自体は珍しくはないが、ローザは明らかに“公的な場”の空気ではなく、私的な親密さを漂わせている。
エドワードが彼女を真っ先に招き入れ、笑顔で言葉を交わしている様子からして、その関係性は噂以上のものがあることが、誰の目にも明らかだった。
(どうして……)
ジェニファーは動揺を押し殺しながら、周囲の視線を冷静に観察する。商人や官僚たちは、ローザの登場を見ても驚くそぶりを見せない。むしろ当然のこととして受け入れているようだ。それはつまり、彼女がエドワードの“特別な存在”である事実を周知していることを意味する。
王宮でも社交界でも、エドワード公爵には愛人がいる――もはやそれは“公然の秘密”というレベルになっているのだろう。
それでも表面上は誰も咎めない。なぜならエドワードが王弟であり、強大な権力を握る人物だからだ。愛人関係の一つや二つ、貴族の間では珍しくない。“ただし、それを正妻の面前で誇示する”というのは、あまりにも露骨で礼を欠く行為ではあるが……。
ジェニファーは大きく息を吸い込み、やわらかな笑顔を作って人々を迎える。
「皆様、本日はようこそいらっしゃいました。お席へ案内いたしますので、どうぞおくつろぎください」
ドレスの裾を揺らしながら、彼女は給仕たちを指揮して客人をテーブルへ案内する。
食事が始まると、話題は商談や王宮での儀式、そしてエドワードの公爵領における新たな開発計画などに及んだ。ジェニファーは適宜合いの手を入れたり、笑顔でうなずいたりして、場の雰囲気をスムーズにするよう努める。
その一方で、ローザはまるで女主人のようにエドワードの隣を陣取り、彼の酒を注いだり談笑したりしていた。客たちも、そんな二人の親密な様子を見て、下品な冗談を飛ばす者さえいる。
「いやあ、公爵殿下とローザ嬢は息がピッタリですな。そろそろ正式に“夫人”の座を……なんてことはございませんかな?」
「はは、殿下もお若いんだから、お好きにされていいんですよ」
彼らは明らかにジェニファーの存在を無視していた。あるいは、ジェニファーの面前であえて揶揄しているのかもしれない。
ジェニファーは悔しさと羞恥に耐えながら、食事会が滞りなく終わるように努める。何を言われても、何を見せつけられても、公爵夫人として取り乱すわけにはいかないのだ。
――こんな屈辱的な状況を、なぜ私は甘んじて受けなければならないのだろう。
その答えはわかっている。ランカスター家の名誉と立場を守るため。そして自分自身が公爵夫人という地位を得ることで、父母を安心させるため。だが、度重なる侮辱に、ジェニファーの心は限界に近づきつつあった。
公爵邸の舞踏会と決定的な侮辱
それから数日後、クラレンス公爵家の館で大規模な舞踏会が開かれる運びとなった。王宮の行事とタイミングを合わせたものであり、貴族や要人たちを広く招いての“交流の場”でもある。
ジェニファーはその準備に奔走し、内装の飾り付けや招待状の確認、当日の進行表などをチェックしていた。こういった業務は大変ではあったが、成功すれば公爵家の名声が高まるのは間違いない。自分の評価にも繋がるため、ジェニファーは全力を尽くしていた。
そして当日。館の大広間は豪華絢爛な装飾で彩られ、シャンデリアの光がきらめいている。床に敷かれた赤い絨毯の上を、思い思いのドレスや礼服を纏った貴族たちが行き交い、楽師たちの奏でる優雅な音楽が空気を満たしていた。
ジェニファーも純白のドレスに身を包み、貴婦人たちを迎える。表向きは微笑みを絶やさず、さながら“完璧な公爵夫人”そのものである。
しかし、そこにもまた、ローザの姿があった。彼女は深紅のドレスを着こなし、大胆な胸元を露わにしている。華やかな化粧と装飾品で着飾り、見る者の目を奪うような派手さを放っていた。
「ごきげんよう、ジェニファー公爵夫人。お招きありがとうございますわ」
ローザは上品な笑みを浮かべながら、どこか挑発的な瞳を向けてくる。
「ごきげんよう、ローザ嬢。今夜は思い切り楽しんでいってくださいね」
ジェニファーは“公爵夫人”としての礼儀を崩さない。だが、ローザの背後に目をやると、そこにはエドワードの姿があった。まるでエスコートでもしているかのように、彼女のすぐ後ろを歩いていたのだ。
(まるで正妻のように振る舞うつもり?)
怒りや悲しみが渦巻くが、ジェニファーはそれらを全て飲み込んで、笑顔を保つ。これもまた、貴族社会における“マナー”の一部なのだ。
やがて舞踏会が始まり、多くの紳士淑女が音楽に合わせて優美にステップを踏む。ジェニファーも招待客の貴族たちと挨拶を交わしながら、適宜ダンスに誘われるままフロアを回った。
しかし、公爵夫人であるジェニファーに本来なら集中すべき注目は、なぜかローザへと奪われている気配がある。ローザはエドワードに腕を取られ、情熱的なタンゴのリズムで華やかなステップを踏んでいた。周囲が拍手喝采する中、ジェニファーだけが“脇役”のような立ち位置に追いやられている。
「……なんとも派手なお二人ですこと」
「やっぱり殿下はあちらがお好きなのでしょうねぇ」
耳を澄ませれば、聞こえてくるのはそんな囁きばかり。貴婦人たちはジェニファーの前ではにこやかにお世辞を並べるが、裏ではこうして冷ややかな視線を送っている。
ジェニファーはじっと耐えるしかなかった。ここで取り乱せば「やはり若く未熟な夫人だ」と見なされ、イザベラからの評価も更に落ちるだろう。
そして、さらなる屈辱が訪れたのは、舞踏会も後半に差し掛かった頃だった。
メインのワルツが始まる直前、エドワードがフロアの中央に向かってローザの手を引いて進んでいく。貴族たちはそれを見てさっと道を開け、まるで二人を祝福するような空気を作る。
だが、本来ならばワルツの主役は“公爵夫人”であるジェニファーとその夫たるエドワードだ。公式の舞踏会で、開催家の夫妻が最初にワルツを踊るのは伝統でもある。
しかし、エドワードはジェニファーを無視し、ローザを選んだのだ。周囲の視線が一気にジェニファーへ集中する。
「まあ……あれはさすがに失礼ではなくて?」
「かわいそうに、公爵夫人……」
同情とも嘲笑ともつかない声が聞こえ、ジェニファーは胸をえぐられるような痛みに襲われる。
(もう、これ以上は……)
どれだけ我慢すればよいのだろう。自分は貴族としての誇りを守るため、家のため、と必死に耐えてきた。だが、今日という今日はあまりにも露骨すぎる。まるでジェニファーの存在そのものを否定されているようだった。
エドワードとローザが見せる完璧なステップは、周囲の口笛や拍手を呼び、フロアは盛り上がっている。二人は息を合わせ、ほとんど抱き合うかのような熱いワルツを踊ってみせた。
その光景を目に焼き付けながら、ジェニファーの目には涙が滲んだ。悔しい、悲しい、しかしどうにもならない――さまざまな感情が胸をいっぱいにするが、彼女は歯を食いしばって笑みを作ろうとする。
――けれど、それはもう限界だった。
「……お腹の具合が悪い。失礼するわ」
ジェニファーは苦しい言い訳を口にして、周囲に気づかれないように大広間を後にした。胸が張り裂けそうな苦しみに耐えきれず、館の廊下を足早に進む。途中でメイドが心配そうに声をかけてくるが、ジェニファーは軽く首を振り、そのまま逃げるように自室へ向かった。
部屋に入るや否や、彼女はドアに背をもたれかけ、頭を抱える。化粧や髪型は完璧に仕上げていたが、涙は勝手に溢れて止まらなかった。
――どうして、こんな仕打ちを受けなければならないの。
言葉にならない嘆きが、声となって嗚咽に変わる。外ではまだ、舞踏会の華やかな音楽が鳴り響いているのに、そのコントラストがかえって惨めさを際立たせた。
決定的な一言と離婚の意思
舞踏会が一通り終わった深夜、ジェニファーは自室のベッドに腰掛けていた。ドレスを着替える気力もなく、ただそこに座って空虚な思いで夜の闇を見つめている。
どこか遠くから笑い声や馬車の音が聞こえる。客人たちが帰る支度を始めているのだろう。エドワードはローザを見送るのか、あるいは彼自身がローザとどこかへ行くのか――そんなことを考えるだけで胸が苦しかった。
すると、不意にノックの音が響く。
「……どなた?」
返事をすると、扉の向こうからエドワードの低い声が聞こえた。
「俺だ。少し話がある」
ジェニファーは驚きながらも、ドアを開ける。そこに立っていたのは、疲れたような表情を浮かべたエドワードだった。宴の余韻を思わせる酒の香りが、ほのかに漂っている。
「こんな時間に……何かご用かしら」
努めて平静を装ってみせても、感情は抑えきれない。彼の顔を見るだけで、今夜の屈辱が脳裏によみがえる。
エドワードは部屋に入ると、ドアを閉めて軽く肩をすくめるように息をついた。
「先ほどの舞踏会では、いろいろとあったようだな」
「……『あった』のは私ではなく、あなたとローザ嬢でしょう?」
ジェニファーは淡々と答える。すると、エドワードの眉間にわずかな皺が寄った。
「ローザのことを責めたいのか? だが、あれは俺たちの勝手だ。君に口出しされる筋合いはない」
その言葉を聞いた瞬間、ジェニファーは目の前が暗くなるほどの怒りと悲しみを感じた。“勝手だ”――たしかに契約結婚のようなものだが、いくらなんでも正妻を踏みにじるのはやりすぎではないだろうか。
「私は、あなたの妻です。表向きだけとはいえ、クラレンス公爵家の夫人でしょう? その私を公衆の面前であそこまで侮辱する行為が、どうして“勝手”で済むのですか」
思わず震える声が零れる。かつては決して乱さなかった感情が、もう限界を超えて吹き出しそうだった。
エドワードは苛立たしげに視線を逸らす。
「……これは、お互い干渉しないという約束のもとに成り立っている結婚だ。君が公爵夫人として立ち回りさえしていれば、俺が誰と踊ろうが自由なはずだ。何を今さら騒ぐ?」
それは、まさにジェニファーの心を一刀両断にする言葉だった。
「あなたの言う“自由”は、人を傷つけても構わないということ? 私にも誇りがあります。私の立場だってある。今日のように公爵夫人を差し置いて愛人と踊るなんて、あまりにも無礼です」
ジェニファーの声は感情で上ずり、怒りがこみ上げてくる。しかし、エドワードは薄く笑いながら言い放った。
「……そんなもの、気にするだけ無駄だろう。俺と君は政治的な契約で結婚したに過ぎない。愛なんてないし、お互いに関わらないのがベストだと最初からわかっていたはずだ」
「でも、だからといって……! ここまで私を侮辱しなくてもいいじゃないですか……!」
思わず涙が溢れそうになるのを必死で堪える。だが、エドワードは冷酷に続ける。
「ランカスター家は王家と繋がりを深めたい、俺の方は王家を動かす古参貴族の地盤を欲しかった。それだけだ。君が気に病む必要はない。君の家はこれで安泰なんだから、感謝されてもいいくらいだ」
その瞬間、ジェニファーの中で何かがプツリと切れた。
――私は、そんな風に「家のための生贄」として一生を終わるの?
これほどまでに尊厳を踏みにじられて、なお耐え続ける理由は本当にあるのか。家の名誉? 公爵夫人の地位? そんなものは、自分の心を粉砕してまで守る価値があるのだろうか。
「……わかりました」
ジェニファーは感情を押し殺し、静かに微笑んだ。その笑みはまるで、死んだように冷たいものだった。
「何がわかったというんだ?」
「もう、あなたに何も期待しません。私もあなたの『道具』でいるのは限界です。私は……離婚を望みます」
そこまで言い切った瞬間、エドワードの表情がわずかに揺れた。
「離婚……だと?」
「そうです。私はあなたが誰を愛そうと、構いません。でも、これ以上、公爵夫人という立場であなたの遊びに巻き込まれたくない。私を軽んじる態度にも耐えられません。どうか私を解放してください」
ジェニファーの声は震えていたが、その瞳には確固たる意思が宿っていた。エドワードは思わず言葉を失う。これまでジェニファーがどんなに悲しそうな顔をしていても、離婚という選択肢に踏み切るとは思わなかったのだろう。
やがて、エドワードの唇から嘲笑が漏れる。
「はっ……離婚? 君は分かっているのか? それがどういうことなのか。君はランカスター家の娘として、ここで俺と別れるというのは……」
「ええ、わかっています。父はきっと失望し、家の者たちは怒るでしょう。でも、私はもうこれ以上、あなたのもとで生きていたくはないの」
「それは君だけの都合だ。ランカスター家の人間は、それを許すだろうか?」
エドワードの言葉には脅しの響きがあった。もしジェニファーが離婚すれば、ランカスター家は王宮の支持を失い、地盤を大きく削られる可能性が高い。だが、彼女の決意は揺るがない。
「私は、もう誰に何を言われてもいい。私の人生は、私のものです。あなたが私を必要としないように、私もあなたを必要とはしません」
その毅然たる発言に、エドワードは一瞬言葉を失う。そして苛立ち混じりに言い放った。
「……勝手にしろ。離婚したければすればいい。ただし、そうなると君の実家は王家との繋がりを失う。おそらく、以前のように貴族社会で大きく振る舞うことは難しくなるぞ」
「構いません。私をただの飾り物として扱う結婚より、いっそ身一つで出て行った方がましです」
ジェニファーは静かにそう告げると、エドワードの前を通り過ぎ、ドアの方へ向かった。
「どこへ行くつもりだ」
「少し、この家の外の空気を吸いたいだけです。あなたにはもう、何も言われたくありません」
そのまま部屋を後にしようとするジェニファーに、エドワードは一瞬手を伸ばしかけたが、結局何もせずに口をつぐんで見送った。部屋には重たい沈黙だけが残される。
暗い廊下を進みながら、ジェニファーの胸中には怒りと悲しみ、そして一抹の清々しさが混在していた。
――ついに“離婚”の意思を口にしてしまった。
まだ正式に手続きしたわけではないが、もう後戻りはできない。少なくとも、エドワードに対する未練は完全に断ち切れた。どんなに美しい顔立ちをしていても、心がこれほど醜い人間を愛することなどできるはずがない。
決意と覚悟
翌朝、ジェニファーは早速、書斎へ向かいペンを取った。離婚にまつわる書類を用意するには、まずどのような段取りが必要か、頭の中で整理する。
そもそも、貴族社会で離婚は珍しい。ましてや相手が王弟の公爵ともなれば、波紋は計り知れないだろう。国王や関係する貴族たちの意向も無視できない。一筋縄ではいかない手続きを踏まなければならないのは明白だった。
それでも、ジェニファーは進むしかない。
ドアをノックする音がして、マーサが顔を出す。
「ジェニファー様、少しご相談がございます」
「ええ、どうぞ。お入りなさい」
マーサは室内に入り、ジェニファーの向かいの椅子に座った。どこか深刻そうな顔をしている。
「実は、昨夜殿下とローザ嬢が密談していたとの報告がありまして。その内容までは把握できませんでしたが、ローザ嬢が“公爵家の財政”や“新たな商会への投資”について強く口出ししていたようなのです」
「……公爵家の財政、ですって?」
ジェニファーは眉をひそめる。エドワードには政治の方針や領地経営などで発言権があるのは当然だが、ローザはあくまで外部の人間だ。なぜ彼女がそこまで口を挟むのか。
「しかも、その商会というのは、以前からローザ嬢の遠縁が経営していると噂されていて……もしや、私利私欲のために殿下を利用している可能性がございます」
「そんな……。エドワード殿下は、そのことに気づいていないのでしょうか」
「さあ……少なくとも、昨夜の様子では殿下も乗り気のようでした。殿下は王宮からの許可を得れば、ある程度の予算を動かせますから。もしローザ嬢が裏で利益を得る仕組みを作ることができれば……」
ジェニファーは思わず唇を噛む。もしかしたら、エドワードは本当にローザを愛しているわけではなく、何らかの取り引きや打算的な関係で結びついているのかもしれない。それも含めて“自由”だと言い張っているのだろうが、正妻であるジェニファーを無視して進められるのはたまらなく不愉快だ。
――とはいえ、もはや私には関係のないことかもしれない。離婚を決意した以上、エドワードの行動に干渉する筋合いはない。
そう頭ではわかっていても、マーサからの報告を聞くと胸がざわつく。クラレンス公爵家は、言うまでもなく重要な貴族の一角。もしローザの策略で公爵家の財政が危うくなれば、ランカスター家にも影響が及ぶかもしれない。
「マーサ、私にできることは何かあるかしら。仮に殿下が暴走して、公爵家の財源を食い潰すようなことがあれば……」
ジェニファーがそう問うと、マーサは少し困ったように視線を落とす。
「公爵夫人としては、殿下に意見を申し上げることが可能です。ですが、昨夜のご様子では殿下が耳を傾けるかどうか……。むしろ、ローザ嬢と対立するのは得策とは思えません」
「……ええ、わかっています。私も闇雲に争うつもりはありません。もうすぐ、この家を出ることになるかもしれませんし」
ジェニファーの淡々とした言葉に、マーサは目を見開いた。
「この家を……出る、とおっしゃいますと?」
「昨夜、殿下に離婚を申し出ました。正式に手続きを行うためには多くの障害があるでしょうが、私はもうこの結婚を続けるつもりはありません」
マーサは一瞬言葉を失い、やがて小声でため息をついた。
「……そうですか。殿下からはまだ何も仰せつかっておりませんが、もしそうなれば公爵家にとっても大きな問題ですね。私どものような使用人には、あまり関わりのない話と言うべきかもしれませんが……」
「いいえ、マーサ。あなたには今までよくしていただきました。私が公爵家を離れたあとも、ここで仕えていくのですよね?」
「ええ、そのつもりです。ここは私の生まれ育った家同然ですので……ただ、ジェニファー様のご決断については、私個人としては応援したい気持ちもございます」
マーサの言葉に、ジェニファーは温かいものを感じた。自分を慕い、理解してくれる人が少しでもいる――それは、今の彼女にとってどれほど心強いことか。
「ありがとう。あなたのような味方がいるから、私は自分の道を選ぶ勇気を持てるのかもしれない。……まだ先行きはわからないけれど、もう決めたことです」
家族との衝突と邸を出る日
その翌日、ジェニファーは実家であるランカスター家へと足を運んだ。離婚の意志を父に告げるためである。
王都にあるランカスター家の館は、クラレンス公爵家ほどの豪勢さはないが、由緒正しい品格を備えていた。ジェニファーが幼少期を過ごした思い出深い場所だが、久しぶりに訪れるとやや寂れた雰囲気が漂っているようにも感じられる。やはり財政面が傾いているという噂は本当なのだろう。
客間に通されると、父であるグレゴリー・ランカスター公が姿を現した。彼は厳つい顔つきに皺を刻み、威圧感のある体格をしているが、ジェニファーが幼い頃は優しい笑みを見せることも多かった。
「久しいな、ジェニファー。公爵家での暮らしはどうだ? エドワード殿下とはうまくやれているのか?」
父の問いかけに、ジェニファーは淡々と切り出した。
「……父様。実は私、エドワード殿下との離婚を考えております」
「な、何だと?」
グレゴリー公は驚きに目を見開き、思わず声を荒らげた。
「馬鹿を言うんじゃない! 離婚など認められるはずがないだろう。国王の弟君との縁組がどれほど重要かわかっているのか?」
怒気を含んだ叱責に、ジェニファーは動じずにまっすぐ父を見返した。
「承知しています。でも、あの人との結婚生活は、あまりにも侮辱的で……私には耐えられません。こんな形で続けるくらいなら、いっそ離婚する方がましです」
「何を考えているんだ! これはお前一人の問題ではない! ランカスター家の命運がかかっているんだぞ!」
父の怒声が客間に響く。ジェニファーはそれでも怯まず、言葉を重ねる。
「お父様には感謝しています。私を大事に育ててくださったし、この縁組をまとめるために多大な努力をしてくださった。でも……私はただの駒ではありません。どうか、私の意志を尊重してください」
「馬鹿を言うな! そうやって甘ったれたことを言うから、お前は……」
グレゴリー公は顔を真っ赤にして怒鳴り、机を叩いた。しかし、ジェニファーが怯む様子はない。むしろ、静かに立ち上がって深々と頭を下げた。
「私はもう決めました。どんなにランカスター家に不利益があろうと、これ以上あの家にはいられません。申し訳ありませんが、私を止めようとしても無駄です」
「待ちなさい、ジェニファー! いいか、少し考え直せ……!」
父の声を背中で聞きながら、ジェニファーは足早に客間を出て行った。廊下を歩く間、あちこちの使用人たちが心配そうな顔で見守るが、彼女は誰にも挨拶をせず、ただ胸を張って館を後にする。
――自分の決意は揺らがない。たとえ家族に罵倒されようとも。
数日後、ジェニファーは最低限の身の回り品だけをまとめて、クラレンス公爵家の館を出た。まだ正式に離婚が成立したわけではないが、エドワードとの協議の末、別居という形で一旦距離を置くことになったのだ。
行き先は、王都の少し外れにある離宮の一室。国王が一時的に外国の要人を迎えるための施設だが、使用していない部屋があることをマーサが調べてくれたのだ。ジェニファーは“体調不良”を理由に、そこで静養する名目を得て、事実上の別居生活を始める。
――公爵夫人としての地位は、まだ継続しているという建前。だが、心はすでに“離婚”に向かっている。
終わりに向かう始まり
こうして、ジェニファーは**「夫の裏切りと離婚の決意」**という大きな転機を迎えた。
白い結婚――形だけの夫婦関係の中で必死に耐えてきた彼女だったが、あまりにも露骨な侮辱を受け、ついに自分の尊厳を守るために立ち上がったのだ。
しかし、これが本当の意味での解放に繋がるのか、それともさらなる苦難の始まりとなるのかは、まだ誰にもわからない。少なくとも、王家を巻き込んだ離婚騒動が穏便に済むわけはないし、ランカスター家との関係も一気に悪化するだろう。
それでも、ジェニファーはもう後戻りしない。たとえ財産を失おうと、地位を失おうと、あの冷たい「白い結婚」にしがみつくよりはずっとましだと信じている。
真夜中の離宮の部屋で、ジェニファーは小さなランプの光を頼りに、離婚後の人生について思いを巡らせていた。
――私は、どんな道を歩むのだろう。もしかしたら、王都を離れて遠い地に住むことになるかもしれない。一人きりで生きるのは不安だが、エドワードの傍で“モノ扱い”をされる苦しさに比べれば、いくらでも頑張れる気がする。
ふと、窓の外を見れば、雲間から差し込む月の光が庭を照らしていた。闇の中に浮かぶその光はどこか儚げで、それでも確かに存在する。
自分も、こんなふうに儚くとも揺るぎない“光”を見つけられるだろうか――そう願いながら、ジェニファーはそっと瞼を閉じる。
ここから先、彼女が手に入れる“真の幸せ”や“華麗なる逆転”は、まだ遠い未来の話。けれど、確かに風は動き始めている。
離宮の静寂の中で、ジェニファーは自らの決断を改めて胸に刻み込んだ。絶対に後悔はしない。どれだけ辛い道でも、自分の尊厳を捨てるよりははるかに良い――と。
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