白い結婚ざまあ ~華麗なる逆転~

しおしお

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第3章 新たな運命の扉

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1.離宮での日々

 王都の外れに位置する離宮は、本来は外国の王族や貴賓を迎えるために用意された施設であり、常時はほとんど使われていない。そこに滞在を許されたジェニファー・ランカスターは、最低限の使用人とメイドを伴って、新たな生活を送っていた。
 とはいえ、それは“公爵夫人”という立場がまだ表向きには続いているからこそ許されている措置でもあった。正式に離婚が成立してしまえば、ここに居続けるのは難しいだろう。
 離宮の部屋は、必要最低限の調度品しか置かれていない簡素な作りだが、ジェニファーにとってはむしろ静かで過ごしやすい。もうあのクラレンス公爵家の華美な館にいる時のような、息苦しさを感じることはない。
 朝早く起きて窓辺に立つと、広大な庭園とその先に広がる森の緑が目に入る。大気は澄んでいて、肌を撫でる風が心地よい。クラレンス家の館にいた頃は、いつも夜会や来客対応、あるいはエドワードや義母の目を気にしてばかりで、こんなふうにゆったりと自然を眺めることすらままならなかった。
 (これが自由……たとえ一時的なものだとしても、今は大切にしたい)
 ジェニファーは深呼吸しながら心を落ち着け、机に向かう。そこには彼女自身が書き溜めた書類やメモが積まれていた。離婚の手続きや、財産の分配の見込み、エドワード側との条件闘争でどういった展開が想定されるか――そういったことをひとつひとつ整理し、必要に応じて法律に詳しい人物の意見を仰ぐ準備を進めている。
 まだ王国内でも女性が自ら離婚を望むのは珍しいことで、特に王弟であるエドワードとの離婚は、政治的にも極めて難しい。国王や公爵家の反発は免れないし、ランカスター家の父も激怒するに違いない。
 それでもジェニファーがこうして準備を進めていられるのは、心身の安定を得られる離宮という“隠れ家”があるからこそだった。皮肉にも、エドワードが彼女に干渉しないと決めているため、ジェニファーはここで静かに行動を整えることができる。
 メイドのクリスティーナが朝食を運んできてくれたので、ジェニファーは軽く礼を述べる。
「ありがとうございます。パンとスープ……今日も質素な食事だけど、すごく助かるわ」
「いえ、こちらこそ。ジェニファー様が不自由なく過ごせるよう、せめてお食事だけでも工夫したいのですが……離宮の設備ではご用意できる品が限られてしまいます。申し訳ございません」
 クリスティーナは申し訳なさそうに頭を下げる。だが、ジェニファーは優しい笑みを浮かべた。
「気にしないで。むしろ体に優しいわ。公爵家の時はいつも豪華すぎて、胃が疲れてしまっていたもの」
 そう言って微笑むと、クリスティーナはほっとした様子で「あたたかいスープだけはしっかり召し上がってくださいね」と言い残し、部屋を出ていった。
 テーブルについてスープの湯気を眺めていると、ふと頭の中に過去の華やかな晩餐会の光景が浮かんできた。そこにはいつもエドワードとローザがいた。
 ――もう思い出したくない。
 ジェニファーは小さく息を吐き、思考を振り払うようにスプーンを口に運んだ。

2.マーサからの手紙

 離宮での生活が始まってからしばらくすると、公爵家の家令長マーサから密書めいた手紙が届いた。
 ジェニファーはひと目につかないように慎重に封を開け、内容を読み進める。筆跡は間違いなくマーサのもので、文面にはこうあった。
――「殿下がローザ嬢の勧めで新たな投資案件を進めようとしています。公爵家の資金をローザ嬢の親戚筋が運営する商会に注ぎ込む可能性が高いのです。私には殿下を止める力がありません。夫人……いえ、ジェニファー様、何か策はありませんでしょうか?」――
 読み終えたジェニファーは、思わず眉間に皺を寄せる。やはり、ローザはエドワードを巧みに操っているのだろう。おそらく、多額の投資金を引き出して利権を独占する目論見に違いない。
 ――だが、それに口を出す権利は、今の私にあるのだろうか。
 自問してみても、ジェニファーは返答に悩む。既に別居状態で“離婚”を望んでいる身だ。公爵家の内部事情に干渉すれば、余計なトラブルを招くだけかもしれない。しかし、マーサの困窮する文面からは、公爵家の財産が危うい状況にあることが伝わってくる。万が一、クラレンス家が大損害を被れば、ジェニファーの実家であるランカスター家にも影響は及ぶだろう。
 (……放っておくべきかしら。それとも何らかの手段で殿下を説得するべき?)
 どちらにしても茨の道だ。離婚を決めた以上、エドワードの動向など本来であれば知ったことではないのかもしれない。
 それでも胸がざわつくのは、自分もかつてこの“公爵家”の一員として尽くそうとしていたからか。あるいはマーサのように自分を支えてくれた人が苦しむのを放置できないからか――。
 ジェニファーは数秒間、葛藤に沈んだあと、ペンを取り出し、マーサ宛の返事を書き始めた。
 ――「私にできることは限られていますが、あなたが危険を感じたときは、どうか急ぎ知らせてください。私も最善を尽くします。」――

3.ある出会い――アレクサンダー・ヴォルフ大公

 離宮での暮らしが始まってから、ひと月ほどが過ぎたある日のこと。
 ジェニファーのもとに王宮から使者が訪れた。どうやら、外国からの客人を王都に迎えるにあたって、離宮の一部を利用するとの連絡があったらしい。
「国王陛下のご意向により、北方の大国ヴォルフ公国からの特使をこちらの離宮でおもてなしすることが決まりました。つきましては、ジェニファー様にはご迷惑をおかけいたしますが、離宮の設備などを少しお貸しいただきたいとのことです」
 使者は淡々とそう説明すると、続けてこう付け加えた。
「ヴォルフ公国は軍事力と鉱山資源においてこの大陸でも屈指の存在です。国王陛下は、彼らとの関係を良好に保つため、大公ご自身をお迎えしての晩餐会を予定しているそうです。もしジェニファー様にご協力いただけるようでしたら、離宮の一室を飾り付けるなど、何かと手伝っていただけると助かります」
 ジェニファーは困惑しながらも頷いた。公的な行事に貸し出すのであれば、ここは王家が管理する離宮なのだから、自分が断る権利などそもそもない。それどころか、名目上はまだ“公爵夫人”であり、王家の要請をないがしろにはできないだろう。
「わかりました。私にできることがあれば、お手伝いさせていただきます」
 そう返事をしたジェニファーは、急きょメイドや使用人たちとともに離宮の客室を整え始めた。もともと人員が少ないため、テキパキと動いても結構な時間がかかる。
 ――そして数日後。
 ヴォルフ公国からの特使が馬車で到着する。その一行の先頭に立ち、白馬に乗っていたのが、若き大公アレクサンダー・ヴォルフであった。

 アレクサンダーは身長が高く、浅黒い肌と金色に近い焦げ茶の髪が特徴的な青年だ。北方の血筋とは思えないほど洗練された物腰を持ち、鋭い眼差しの奥にはどこか穏やかさが宿っている。
 ジェニファーが離宮の玄関先で出迎えると、アレクサンダーは馬から降りて片膝をつき、貴族の礼を取った。
「これはご丁寧に。あなたがここの……ああ、話には聞いています。クラレンス公爵家のご令嬢でありながら、ここに滞在されているとか」
 ジェニファーは、その発言に多少引っかかるものを感じつつも、微笑みで返す。
「私はジェニファー・ランカスターと申します。一応、公爵夫人という肩書きでここをお借りしているのですけれど……まだ至らない点も多く、行き届かないところがございましたら申し訳ございません」
 アレクサンダーは微かに首を傾げ、興味を引かれたようにジェニファーの顔を見つめた。
「いいえ、とんでもない。あなたのような美しい方に出迎えていただけるなら、この離宮で過ごす時間が楽しみになりますよ」
 ごく自然な口調で、さらりと褒め言葉を口にする彼に、ジェニファーは少し戸惑う。エドワードや王宮の貴族たちとは、どこか言葉の温度が違うように思えた。
「とにかく、歓迎いたします。離宮の設備は限られていますが、何か必要なものがあれば遠慮なく仰ってください」
「ありがとう。遠慮なくお願いすることになるかもしれません。これでも私、外交や軍務で色々な国を回っていますが、実はまだこちらの国には不慣れで……」
 そう言って、アレクサンダーは愉快そうに笑う。その穏やかな表情に、ジェニファーはほんの少し安堵を覚えた。北方の大公と聞いて最初は厳つい男性を想像していたが、彼はむしろ物腰が柔らかく親しみやすい印象だ。
 一方、周囲の従者たちは、そんなアレクサンダーの態度を見て微妙に焦っているのかもしれない。大公という立場でありながら、初対面の女性にあまりに砕けた態度を取るのは珍しいのだろう。
「では案内役を務めますので、どうぞ中へお入りください」
 ジェニファーがそう告げると、アレクサンダーはうなずき、一行を従えて離宮の中へと足を踏み入れた。

4.異国の大公との交流

 ヴォルフ公国は王都での公式晩餐会まで数日間、離宮に滞在することになっていた。
 その間、ジェニファーはアレクサンダーたちの生活面でのサポートを務めることになる。国王からの正式な依頼ではなく、あくまで“離宮に滞在している縁”と“公爵夫人という立場”を活かしたボランティアに近いものだ。しかし、それによって離宮の管理者や従者が助かるのは事実であり、ジェニファー自身も手持ち無沙汰にならない。
 アレクサンダーは北方の地に広がる草原や、国境付近の資源開発などの話をよくしてくれた。ヴォルフ公国は鉱山資源が豊富で、かつ軍事的にも強く、隣接する複数の国々から一目置かれている。
「資源があるということは、常に外敵から狙われる可能性があるということでもある。だから我々は戦いに備え、同時に外交を通じて平和を維持する努力をしているのですよ」
 アレクサンダーがそう語るとき、その表情は真剣だった。彼が大公の任を若くして継承したのは、先代の急逝が原因だと従者から聞いている。
 ジェニファーも王都での暮らしが長かったとはいえ、こうした異国の情勢については詳しくなかったため、興味深く耳を傾ける。
「では、今回は資源取引などで、わが国と交渉を進めたいという狙いもあるのでしょうか?」
 そう尋ねると、アレクサンダーはにこりと笑った。
「おや、さすがに察しが良いですね。王宮の動きも何やら活発のようですし、今度の晩餐会では私たちヴォルフ公国と結んで、鉱石や軍備品の輸入を拡大する話が出るでしょう。もっとも、私はそれだけが目的ではありませんが」
「それだけが目的ではない、とは?」
「せっかくこうして大陸を巡るのだから、色んな国を見てみたいんですよ。人々の暮らし、風土、文化――戦や取引だけが国同士の関係ではないでしょう?」
 その言葉は、ジェニファーの胸にすとんと落ちた。外交は利害関係だけでなく、人と人とが向き合うことで始まる。だが、彼女がこれまで見てきた上層社会は、あまりにも“打算”と“計算”ばかりが渦巻いていた。エドワードのように人を利用するだけ利用して、平然と切り捨てるような者も少なくない。
 だからこそ、アレクサンダーの言葉は新鮮に響いた。彼は若き大公として戦いを恐れず、それでいて同時に平和的な交流にも積極的だ。
 ――こんな人が本当にいるのだろうか。
 ジェニファーは少し不思議な感覚を覚えながらも、彼の話に耳を傾ける日々が続いた。離宮の廊下や中庭で会えば、自然に言葉を交わし、彼が見聞きしてきた様々なエピソードに笑い合う。エドワードとの結婚生活では決して味わえなかった、落ち着いた交流がそこにはあった。

5.王宮からの召喚――そして思わぬ再会

 そんなある日、ジェニファーに王宮から正式な“召喚状”が届く。
 書面には「公爵夫人たる貴女に、今回の外国使節団との晩餐会の補助を願いたい」とあった。具体的には、大公アレクサンダーが晩餐会に出席する際、会場での対応や接遇を任せたいというのだ。
「……どうして私に?」
 ジェニファーは首を傾げながら、書状を読み返す。王宮側には、クラレンス公爵夫人が最近離宮に滞在し、アレクサンダーと親しく言葉を交わしているという情報がすでに伝わっているのかもしれない。
 まだ公にはなっていないが、エドワードとの仲が破綻していることは薄々知られ始めているはずだ。それでも“名目上”は公爵夫人であり、そういう立場を利用して今回の外交の手助けをさせようという算段だろう。
 クリスティーナが気遣わしげに口を開く。
「ジェニファー様、本当に行かれるのですか? もしかすると、殿下やローザ嬢と顔を合わせるかもしれませんよ」
 それは確かに気がかりだった。だが、ジェニファーは静かに息をついて答える。
「……わかっているわ。でも、これを断れば、王宮から“非協力的”と見なされる可能性が高い。そうなれば離婚の話し合いにも影響が出るかもしれない。むしろ、自分から堂々と公の場に出て、正式に立場を示すことが必要だと思うの」
 離婚を進めるうえで、王家に敵対的なイメージを与えるのは得策ではない。むしろ公爵夫人として要請に応じ、誠実に任務を果たす姿を見せた方が、ジェニファーにとってもプラスに働くだろう。
 こうして、ジェニファーは晩餐会に出席する覚悟を決めた。

 当日、王宮の大広間は豪奢に飾り立てられ、ヴォルフ公国の人々を迎える準備が万端に整っていた。ジェニファーは品のある水色のドレスに身を包み、アレクサンダーの随行員たちの案内に取り組む。
 やがて、国王をはじめとする大臣や貴族たちも集まり、巨大なテーブルを囲む晩餐会が始まる。アレクサンダーはその中心で、国王と歓談を交わしていた。時折、視線をジェニファーの方へ送っては微笑んでみせる。
(不思議な人……)
 ジェニファーもまた、微笑みを返しながら仕事に徹する。ワインの選定や料理の順番など、監督役の女官長を手伝い、トラブルが起きぬよう細心の注意を払う。
 しかし、やはりこの場には“あの二人”がいた。エドワード・クラレンス公爵と、その隣に寄り添う伯爵令嬢ローザ。ジェニファーの存在などなかったかのように、表向きは落ち着いた態度をとっているが、目線がわずかにジェニファーを捉えているのを感じる。
(ああ、やっぱり……)
 胸がざわつくのを抑えながら、ジェニファーはテーブルの脇を通り過ぎる。何もなかったように、何も感じていないように振る舞うしかない。この場は外交の要となる晩餐会なのだ。個人的な感情を表に出せば、国王や周囲に迷惑をかけることになる。
 ローザの方は、ジェニファーに気づいているにもかかわらず、まるで勝ち誇ったような笑みを浮かべて視線を交わしてきた。それは「あなたはもう不要なのだから、どこかへ消えて」という無言の嘲りに見えた。
 ――だけど、私はもうあなたたちに振り回されるつもりはない。
 ジェニファーは意地でも笑顔を崩さず、上品に一礼してから足早にその場を離れる。

 晩餐会の進行が一段落した頃、突如として王宮の楽師が陽気な曲を奏で始めた。軽快なステップを促すような社交ダンスのメロディだ。この国の晩餐会では、食事後の踊りがしばしば催されることがあり、貴族たちが各々パートナーを誘ってフロアへと出ていく。
 ジェニファーはその光景を少し離れたところから見守っていた。自分が踊る場面はないはずだし、何より“白い結婚”とはいえ公爵夫人である彼女が、軽率に他の男性と踊るわけにもいかない――そう考えていたからだ。
 しかし、そこへアレクサンダーがすっと近づいてきて、柔らかい声で言う。
「ジェニファー……いや、失礼、公爵夫人とお呼びすべきか。あなたの国の踊りを教えていただけませんか? 私、この曲を聞いたのは初めてでして」
 その申し出に、一瞬周囲がざわつく。まさか外国の大公が、公爵夫人を誘うとは――と驚きの目が向けられるのも当然だろう。しかし、アレクサンダーはそんな視線を意にも介さず、ジェニファーの手を取りかけて微笑みかける。
「あなたがよろしければ、私と一曲、お相手していただきたい」
 ジェニファーは戸惑いを隠せない。視線を横に泳がせれば、エドワードとローザがこちらを見ているのがわかる。ローザがあからさまに眉をひそめ、軽い嘲笑を浮かべているのを感じる。
 (……こんな場面で断るのは難しい。それに、ここで逃げてしまったら、私が委縮していることを彼らに示すだけだわ)
 ほんの数秒逡巡したのち、ジェニファーはアレクサンダーに向けて微笑んだ。
「……ぜひご一緒しましょう。私などでよろしければ、喜んで」
 周囲の驚きを背に、二人はフロアの中央へと進む。曲は爽やかなテンポのワルツに移り変わり、アレクサンダーは慣れない様子ながらも必死にステップを覚えようとする。
 「あ、足がこんがらがってしまった……」
 控えめに苦笑する大公に、ジェニファーはそっと耳打ちするようにアドバイスをする。
「リズムを少しだけ遅れて捉えてみてください。1・2・3……1・2・3……踏み出しに迷ったら、私の腰の位置で確認すると踊りやすいはずですわ」
 エドワードと違い、アレクサンダーの手は温かく、そして適度に強い。自分の身体を無理に引き寄せることもなく、かといって遠ざけることもない。その安心感に、ジェニファーは思わず心の緊張が解けていくのを感じた。
 ワルツの旋律に合わせて、少しずつ足取りが揃い始める。周囲の人々が二人の姿を興味津々に見守る中、ジェニファーは気品ある微笑みを浮かべながらも、内心で小さな驚きを覚えていた。
 ――なんて不思議な感覚。誰かと踊ることが、こんなにも心地よいなんて。
 舞踏会といえば、いつもエドワードとローザが目立ち、ジェニファーは惨めな思いを抱えていた。しかし今、アレクサンダーの腕の中で踊る時間は、それらを忘れさせてくれるほど穏やかだった。

6.告げられる想い

 曲が終わると、アレクサンダーは照れたように息をつき、ジェニファーの手を離した。
「いやはや……私のような初心者にお付き合いいただき、ありがとうございます。あなたのおかげでとても楽しい一曲になりました」
 ジェニファーも軽く笑みを返す。
「私こそ、異国の方と踊るのは新鮮で……不慣れな部分もありましたけれど、楽しませていただきました」
 その時、アレクサンダーの瞳が真剣な色を帯びる。騒がしい宴の最中だが、二人の周囲だけがふと静かに感じられるような、不思議な瞬間だった。
「ジェニファー、あなたともっと話がしたい。もしよければ、晩餐会が終わったあとに少しお時間をいただけませんか? あなたのことを……もっと知りたい」
 その言葉に、一瞬ジェニファーの心が揺れる。だが、今の自分はエドワードとの離婚問題を抱える身。公爵夫人という肩書きも中途半端に残ったままで、誰かと親密に関わることなど許されるのだろうか。
 ――しかし、彼女の口をついて出たのは、意外にも肯定の返事だった。
「はい……わかりました。お役に立てるかわかりませんが、よければお話をしましょう」

 こうして晩餐会が終わった後、ジェニファーは王宮の庭園へと足を運んだ。夜空には月が浮かび、淡い光が噴水と植え込みを照らしている。冷たい石畳を歩くと、空気は涼しく、肌に触れる夜風が心地よい。
 少し遅れてやってきたアレクサンダーは、辺りを見回してからジェニファーを見つめた。
「こんなに美しい庭園なのに、誰もいないんですね。みんな宴の余韻に浸っているのかな」
 ジェニファーは微笑みながら頷く。
「だと思います。舞踏会が好きな方はまだ踊っているでしょうし、お酒好きの方は室内で飲み比べをしているかもしれません」
 そんな軽いやり取りを交わしてから、アレクサンダーは唐突に言葉を切り出した。
「あなたは……どうして、そんなに悲しげな目をしているのですか」
 ジェニファーはドキリとする。自分では隠しているつもりでも、アレクサンダーの目には伝わってしまったのか。
「いえ、私は――」
「無理に答えなくてもいい。ただ……あなたを見ていると、笑顔がとても上品で、それでいてどこか寂しそうで、痛ましいほどに儚い。私はそこに惹かれてしまったんです」
 夜の闇に溶け込むような、静かな声。ジェニファーは目を伏せた。まさかこんなにも率直に想いを告げられるとは思わず、胸がざわつく。
「私は……クラレンス公爵夫人という立場にありますが、実際はもう夫と暮らしていません。詳しい事情は言えませんが、いずれ離婚するつもりで……いろいろと複雑なんです」
「そう……やはり、そうなのですね」
 アレクサンダーは少しだけ頷いた。驚いた様子もなく、どこか納得したような面持ちである。
「それでも、私はあなたに興味がある。あなたの笑顔が、あなたの強さが――たとえ傷ついてもなお、こうして立っている姿が、とても尊く見えるんです。……もし、少しでも私に心を開いてくれるのなら、私はあなたの力になりたい」
「力になりたい、って……」
「それが金銭的な問題だとしても、政治的な後ろ盾が必要だとしても、私にできることなら惜しむつもりはありません。なぜなら、私はこう思うから――“縁あって出会った人を、できる限り救いたい”と」
 ジェニファーの胸は、言葉にできない感情でいっぱいになる。これまで、彼女は利用される側であった。ランカスター家にとっても、エドワードにとっても、都合のいい“飾り物”に過ぎなかったのだ。
 それが今、この異国から来た青年は、彼女自身の尊厳を見て、心を動かしてくれている。見返りを求めるのではなく、“助けたい”という。
 ――信じていいのだろうか。
 心の中の迷いは、まだ完全には晴れない。だが、アレクサンダーの誠実そうな瞳を見ていると、ジェニファーは自分が失いかけていた“希望”という名の光を思い出していくのを感じた。
「ありがとうございます。……正直に言うと、今はまだ混乱していて、誰かを信じる余裕すらないんです。でも、あなたがそう言ってくれることが、私の心を支えてくれます」
 そう告げると、アレクサンダーは満足そうに微笑み、軽く片膝をついてジェニファーの手に口づけした。
「あなたのペースで構わない。私はいつでもここにいます。あなたが扉を開くときまで、待ちますよ」

7.決意の一歩

 その夜、ジェニファーは離宮へ戻ったあとも、ずっとアレクサンダーの言葉を思い返していた。
 ――「あなたが扉を開くときまで、待ちますよ」
 なぜ、ここまで心を揺さぶられるのか。出会って日が浅いはずなのに、アレクサンダーの存在はジェニファーにとって大きな支えとなり始めている。
 だが、同時に恐れも感じていた。もし本気で離婚し、新たな人生を歩むならば、エドワードや王家、さらにはランカスター家の激しい妨害に立ち向かわねばならない。それを乗り越えた先に、自分は本当に自由を手に入れられるのだろうか。
 そして、もしアレクサンダーが本気で手を差し伸べてくれるなら――自分はまた、新たな恋を信じることができるのだろうか。
 今はまだ、はっきりと答えを出せない。けれど、闇の中に一筋の光を見つけたのは確かだった。

 翌朝、ジェニファーはいつになく晴れやかな表情で身支度を整えた。離婚の手続きについて、正式に弁護士に相談することを決めたのだ。これまではあれこれと独自に情報を集めるだけだったが、そろそろ専門家の知恵を借りる段階に入るだろう。
 立ち止まっていても仕方がない。家族や周囲がどれだけ反対しようと、自分の人生を取り戻すために行動する――それがジェニファーの出した結論だ。
 メイドのクリスティーナは、そんな彼女の様子に少し驚きながらも、嬉しそうに微笑んだ。
「ジェニファー様、なんだか今日はいつもよりお元気ですね」
「そうかしら。まあ、いろいろあったけれど、立ち止まってばかりもいられないしね」
「いいことです。私も応援しています。何か必要なことがあればお申し付けください」
「ありがとう、クリスティーナ」
 ジェニファーは微笑んだ。その胸には、まだ小さな痛みや不安が残っているが、同時に新たな活力も湧いてくる。

 ――エドワードとの争いは避けられないかもしれない。ローザの思惑も、王宮の思惑も、きっと一筋縄ではいかないだろう。
 けれど、それでも自分で道を切り拓くしかない。もう誰かに操られるだけの人生は嫌なのだ。
 父の声が怒気を帯びて耳を責め、エドワードの冷たい眼差しが背後から追いすがるような感覚を覚える。それでもジェニファーは震えずに踏み出す。いつか必ず、自分に“真の幸せ”が訪れると信じたいから。
 そして、その未来には、もしかしたら――穏やかな笑みを浮かべて「あなたを待つ」と言ってくれた男性の姿も、あるのかもしれない。

 こうしてジェニファーは、離宮という静寂の地を拠点にしながら、いよいよ“離婚”という大きな決断へと本格的に動き始める。一方、北方の大公アレクサンダー・ヴォルフとの出会いは、彼女の運命を大きく変えていくことになるのだが、その詳細はまだ誰も知らない。
 ――「新たな運命の扉」は、今まさに開かれようとしている。


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