白い結婚ざまあ ~華麗なる逆転~

しおしお

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第4章「元夫の後悔と幸せな再婚」

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第4章 元夫の後悔と幸せな再婚

1.離婚交渉の幕開け

 王宮での晩餐会からしばらく経ち、ジェニファー・ランカスターは本格的に離婚の手続きを進めようと動き始めていた。
 名目上はまだクラレンス公爵夫人とはいえ、既にエドワードとは別居状態。離宮に滞在する彼女の下には、政治に強い法律家や弁護士の来訪が相次いでいる。やはり「王弟である公爵」との離婚となれば、普通の貴族の離婚とは次元が違う。国王の許可や公爵家の財産問題、さらにはランカスター家が王宮でどう扱われるか――様々な要因が複雑に絡み合うのだ。
 それでもジェニファーには迷いがなかった。あの侮辱的な結婚生活に戻るつもりは毛頭ない。たとえ財産を失い、家から追放されることになったとしても、あの“檻”に閉じ込められ続けるぐらいなら一人で生きていく道を選ぶ。
 そんな彼女を支えてくれるのは、メイドのクリスティーナや家令長マーサ(公爵家に残っているが、密かにジェニファーへ情報を送ってくれる)、そして新たに知り合った有能な弁護士たちだった。さらに――北方の大公、アレクサンダー・ヴォルフの存在も、ジェニファーの心を強く後押ししていた。
 アレクサンダーとの関係を、ジェニファーはまだ“友好的な知己”という程度にしか考えまいとしている。自分にはまだ離婚という大きな障害があり、公爵夫人としての鎖が完全には外れていないのだから。
 しかし、彼が時折見せる誠実な眼差しや、「困ったことがあれば何でも助力する」という言葉の数々は、ジェニファーの孤独を和らげ、未来を信じる力を与えてくれているのは事実だった。

 そして、ついに離婚に向けた最初の大きな交渉の場が設定された。
 王宮の一室――ここは国王の裁定が必要となる特別な紛争や、貴族同士の大きな揉め事を“非公式”に話し合うための場である。王族に関わる案件がこじれる前に、できるだけ穏便に解決を図る目的を持つ。
 その日は、ジェニファーの代理人である弁護士が同席し、エドワード陣営(彼自身と側近、弁護士)と向き合う形となった。
 ジェニファーは胸を張って会議室へ入った。引き締まった表情には毅然とした意志が宿っている。
 エドワードはその姿を見て、一瞬だけ視線を揺らす。だが、すぐに冷たい仮面をかぶり、「待っていたよ、ジェニファー」と淡々とした口調で言った。
「離婚を望むというならば、君にはそれ相応の覚悟があるのだろうな」
 その言葉は脅しにも近い響きを含む。しかしジェニファーは動じない。
「ええ、覚悟はしています。もはや私たちは仮面夫婦の体すら保てない状態ですから。形式を取り繕うメリットも見当たりません」
「ふん……」
 エドワードは鼻で笑うような仕草を見せるが、対してジェニファーの代理人弁護士が軽く咳払いをして話を進める。
「では、具体的に財産分与や諸手当の内容を詰めさせていただきましょう。いくら契約結婚であったとはいえ、夫人には相応の補償が必要と考えます」
「補償だと? ランカスター家が望んで結んだ縁組ではなかったのか?」
「殿下、結婚に双方の合意があったことは事実でも、夫婦生活の実態がなかったうえに、公爵夫人としての立場を著しく損なう行為が重なっていたこと――こちらは揺るぎない事実です。法的に見れば、夫人に不利な扱いが多々あったわけですから、その点について議論する必要があります」
 弁護士が淡々と指摘するたびに、エドワードの表情は険しくなる。まるで「俺に恥をかかせる気か」と言わんばかりだ。だが、ジェニファーは黙って弁護士の後ろに控え、堂々とエドワードの視線を受け止めていた。

 結局、この日は結論が出ることなく協議は終わった。エドワード陣営も、いきなりジェニファー側の要求をすべて呑むつもりはなく、今後何度か同席して話し合うという形で散会となる。
 しかし、ジェニファーにとっては大きな一歩だった。エドワードと正面から対峙し、「私はもうあなたの人形ではない」と言わんばかりに意志を示すことができたのだから。
 (あの冷たい眼差し……。でも、以前の私だったら萎縮していたかもしれない。今の私は、もう違う)
 会場を後にする廊下を歩きながら、ジェニファーはそう自分に言い聞かせる。出口付近で待っていたクリスティーナが「お疲れさまでした」と声をかけると、ジェニファーは小さく微笑んで答えた。
「ありがとう。まだ先は長いけれど、頑張るわ」

2.ローザ伯爵令嬢の企み

 一方、その頃クラレンス公爵家では、ある問題が深刻化していた。
 エドワードが愛人として寵愛してきたローザ・フィッツジェラルド伯爵令嬢の“投資”が、どうやら大きな損失を招きつつあるというのだ。ローザの遠縁が経営する商会へ多額の資金を投入し、王宮のコネを利用して事業を拡大しようと目論んだまでは良かった。しかし、実際に商会の経営はうまくいかず、赤字が膨らんでいるとの噂が絶えない。
 マーサから密かに届いた手紙にも「ローザ嬢が更なる投資をエドワード殿下に求めている。馬車や宝石を買い漁り、贅沢三昧な暮らしをしている様子が目立つ。公爵家の財産が危うい」と書かれていた。
 当然ながら、エドワードは激怒した。ローザが「絶対に儲かる」「元手を回収できる」と大言壮語していたのに、実態はその逆。自分の信用で資金を工面したことが無駄になるだけでなく、公爵家の名誉に傷がつく恐れもある。
「ローザ、これはどういうことだ。こんな大損をいつまで放置するつもりだ」
 公爵家の奥深い部屋で、エドワードが苛立ちをぶつける。
「……それは仕方ないのよ。事業というのは波があるものだわ。もう少し待てば、きっと取り戻せる」
「もう少し待てだと? これ以上の資金投入は危険すぎる。あの商会に本当に将来性があるのか」
 ローザは口紅を引き直しながら、あっけらかんとした態度を崩さない。
「大丈夫よ。あなたは王弟でしょう? 国王陛下から特別な許可さえ得れば、融資の期限を延ばすことだって……」
「勝手なことを言うな! 王宮がこんな不透明な取引を支援するわけがない。……そもそも、君は金の使い道を知っているのか? 宝石やドレスばかり増えているように見えるが」
「まあ、女には女の楽しみがあるでしょう? それが不満なら、ジェニファーみたいな地味でつまらない女を抱えて生きていれば良かったのに」
 その一言に、エドワードは思わず言葉を失う。ジェニファーの名が出ると、なぜか胸の奥が痛むような感覚があった。
 ――そういえば、ジェニファーは浪費など一度もしたことがなかった。公爵家の予算管理や使用人の給金についてもしっかりと目を通し、余計な出費は極力抑えようとしていた。社交界のドレスにしても、派手すぎる装飾品は控え、必要最小限の範囲で着飾っていたのだ。
 その地味さが、当時のエドワードには物足りなく感じられたのかもしれない。しかし、今こうしてローザのわがままぶりを目の当たりにすると、ジェニファーの“堅実さ”がどれほど貴重だったかを思い知る。
「……そ、それは……」
「なによ、珍しく黙っているわね。もしかして後悔しているの? あんな地味な妻を冷遇したことを」
「……そんなことはない」
 エドワードは否定するものの、その声には力がなかった。ローザが妖艶な笑みを浮かべ、エドワードの胸元に手をやる。
「大丈夫よ。私はあなたを退屈させたりしないわ。……ただし、そのためには資金が必要なの。ねえ、わかるでしょ?」
「……」
 そう囁くローザに、エドワードは苛立ちを募らせながらも何も言い返せない。恋人というよりも金蔓のように扱われているのを、さすがの彼も薄々感じ始めていた。
 (このままでは公爵家が食いつぶされるかもしれない……。だが、ジェニファーとの離婚を巡る財産問題もあるし……一体どうすれば……)
 頭を抱えるエドワードの姿を、ローザはどこか冷めた目で眺めていた。

3.ランカスター家の大いなる反発

 ジェニファーが離婚に踏み切るうえで、最大の障害となるのが実家ランカスター家である。
 父グレゴリー・ランカスター公は、王宮での影響力を維持するため、娘を王弟エドワードと結婚させたのに、今さら離婚されては面目丸潰れ。ひいては家の地位が危うくなる可能性が高い。
 離婚の話が具体的に進み始めたことを聞きつけた彼は、怒りに我を忘れるほどだった。
「ジェニファーめ……勝手なことを! このままでは我がランカスター家が王宮から疎まれ、衰退していくのは目に見えているのだぞ!」
 客間で父の声が響き渡る。使用人たちは震えあがりながら後ずさる。
「……落ち着いてくださいませ。殿下が娘を冷遇し、愛人を連れ回しているという話は、もはや社交界中が知っております。むしろジェニファー様が同情を集めているような状況とも……」
 側近の一人が恐る恐る意見するが、父は怒りで耳を傾けようとしない。
「同情など何の役に立つ! エドワード殿下との繋がりを捨てるなど、家として許せるはずがないだろう! くそっ……」
 父は机を叩き、荒々しく立ち上がる。
「こうなったら、直接ジェニファーに会って説得するしかない。あの娘は一度言い出したら頑固だから、どこかの男に唆されたのかもしれん。殴り飛ばしてでも目を覚まさせねば……」
 ランカスター公は血相を変え、すぐに馬車の用意を命じる。
 ――その一方で、実家の母や兄弟たちも事情を察してはいるが、父の剣幕に口出しできる状態ではなかった。ジェニファーを案じる気持ちはあっても、それを表に出せない雰囲気が家を支配していた。

 その日の夕刻、ジェニファーが離宮の自室にいると、やけに騒がしい声が聞こえてくる。扉を開けると、そこには父グレゴリー公が怒気を含んだ表情で立っていた。
「ジェニファー……! よくも勝手な真似をしてくれたな!」
「父様……驚きました。ここまでいらっしゃるとは思いませんでした」
 ジェニファーも多少うろたえながら応対するが、父の怒りは収まらない。威圧的な態度で彼女を睨みつける。
「お前、離婚などと馬鹿を抜かす気か。身の程を知れ! 王弟との縁組は我が家の悲願だ! 裏切るつもりか!」
「……私はもう、公爵家には戻りません。あれほど私を踏みにじった方と暮らす理由などありません」
「踏みにじられた? 貴族たるもの、家のために多少の犠牲は当然だ! お前はそれを理解せずに甘えているだけではないのか!」
 ジェニファーは胸に渦巻く悲しみを堪えながら、はっきりと反論する。
「いいえ、私は散々耐えてきました。でも、彼は目の前で愛人を誇示し、私を侮辱し続けました。そんな結婚を続ける意味がどこにあるのです? “公爵家と繋がっていれば家の名誉は保てる”――それが大義名分なら、私はいらないわ」
 父は苛立ちを隠せず、ギリギリと歯ぎしりする。
「貴様……親に向かってなんという口を利く。ランカスター家を捨てる気か!」
「捨てるのはランカスター家ではなく、“あの結婚”です。私は家に恨みがあるわけではないけれど、自分の尊厳を失ってまで犠牲になるつもりはありません」
 その毅然とした態度に、父は思わず言葉を失う。娘がこれほどまで強い意志を持っているとは、想像していなかったのだろう。
 やがて父は少しだけ声を落とし、激しく息をつきながら口を開く。
「……いいか、ジェニファー。お前が離婚を強行するなら、我が家は公爵家どころか王家からも見放される可能性がある。その時、お前の兄弟たちはどうなる。縁談や官職、すべて断られるかもしれん。お前は家族を巻き込むつもりか」
 ジェニファーの胸に痛みが走る。確かに、それは無視できない問題だ。自分の決断が、兄弟や母の将来を狭めることになるかもしれない。
 ――だからといって、自分が一生あの結婚に囚われる道を選ぶのか?
 心の中で葛藤が生まれるが、ジェニファーは目を伏せたまま言う。
「……もし私の離婚が原因で、家族に不利益が生じるなら、それは私の責任です。私ができる限りの補償を考えます。ですが、私を無理やりエドワード殿下のもとに返すなら、私は命をかけても抵抗します」
「バカな……。お前がどれだけ強情を張ろうと、世の中は甘くはないぞ! 女一人で生きていけるとでも思っているのか!」
「一人ではありません。助けてくれる人たちも、私を理解してくれる人たちもいます。私はそれを頼りに、生き抜く覚悟です」
 ジェニファーがまっすぐに父を見返すと、グレゴリー公はしばし沈黙に陥る。娘の決意が、想像以上に確固たるものであると悟ったからだろう。
 激しい怒りを抱えたまま、グレゴリー公は舌打ちして踵を返す。
「……好きにしろ。その代わり、あとで泣きついてきても知らんからな!」
 その捨て台詞を残して、父は足早に離宮を後にした。

 ジェニファーはその場に立ち尽くし、少しの間、息を整えられずにいた。背筋に冷たい汗が伝う。
(これで本当に、ランカスター家との縁が切れてしまうかもしれない。それでも――後悔はしない)
 目を閉じて深呼吸すると、心の中に浮かぶのはアレクサンダーの柔らかな笑顔。あの人なら、きっと私の選択を否定しない。そう思うと、自然と次の行動に移る力が湧いてきた。

4.アレクサンダーからの申し出

 そんなある日、ジェニファーのもとにアレクサンダーから一通の手紙が届いた。
 内容は「私の私邸に招待したい。今後のことも含めて、直接お話ししたい。」というもの。ヴォルフ公国の大使館に近い建物を借り受け、アレクサンダーたちが滞在しているらしい。
 離宮を出て彼と面会するのは少々勇気が要るが、ジェニファーは“公爵夫人”という肩書きを使って外出許可を取り、馬車を走らせた。
 アレクサンダーの私邸は、王都の貴族街にある館の一角を改装したもののようで、北方のインテリアを取り入れつつ、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「ようこそ、ジェニファー。招待に応じてくれて嬉しいよ」
 玄関ホールで出迎えてくれたアレクサンダーは、柔らかな笑みを浮かべている。ジェニファーも会釈で応じた。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。……こんなにも静かで素敵な場所なのですね」
「街中だと聞いていたけれど、庭が意外に広くて驚いたよ。さあ、奥のサロンへ」

 二人が通されたサロンは大きな窓があり、午後の陽光が差し込んで暖かい。壁には北方の風景画が飾られ、その独特の色彩がどこか神秘的だ。
 メイドが用意してくれたお茶と菓子を前に、しばし世間話を交わしたあと、アレクサンダーはゆっくりと切り出した。
「君が離婚に向けて動いていることは、私にも伝わってきています。やはり手続きは複雑なようだね……大丈夫?」
「はい。まだ簡単には進みませんが、私としては一歩ずつ前に進めていくしかないと思っています」
「君がそう決めたなら、私も応援する。困ったことがあれば、遠慮なく言ってほしい」
 アレクサンダーは迷いのない声でそう告げる。ジェニファーは一瞬、胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。
「……本当に、そこまでしていただく理由はないのに」
「理由なんて要らないよ。君が苦しんでいるのを見て、助けになりたいと思っただけだ。私は大公として、国益や外交を考える立場にあるけれど、個人的な感情で動くこともあるんだ」
 そう言って、彼は少しだけ笑いながら言葉を続ける。
「それに……何より、君が自由になってくれると嬉しい。君が心から笑える場所を見つけられるなら、私としてもこんなに喜ばしいことはないからね」
 ジェニファーはその真摯な眼差しに、思わず言葉をなくす。以前の彼女なら「男性の甘い言葉など信用できない」と思ったかもしれない。エドワードやローザが人を都合よく利用する姿を見てきたからだ。
 しかし、アレクサンダーには不思議と打算めいたものを感じない。むしろ彼は“大公”という大きな立場を持ちながらも、ジェニファーひとりのために手を差し伸べてくれようとしているように見える。
「……ありがとうございます。私、心からそう言ってもらえるなんて、思っていなかったので……正直、少し混乱しています」
「混乱させてしまったなら、ごめんね。でも、私は嘘をつくつもりはないよ。君が離婚を成し遂げ、もし新たな道を探すなら、その選択肢のひとつとして“北方のヴォルフ公国”があってもいい。それを私は歓迎したいんだ」
「ヴォルフ公国……!」
 ジェニファーは驚いて顔を上げる。そこまで具体的な提案が来るとは考えていなかった。確かに、エドワードと離婚すれば、彼女は王都での地位を失う可能性が高い。貴族社会で生きづらくなるかもしれない。ならば、新天地を求めるのも一つの手段だろう。
 だが、それは同時に、アレクサンダーの国へ行くということ。彼女にとっては未知の土地だ。
「考えるだけでいい。君を“私の国へ連れて行きたい”と願うのは、私のわがままかもしれないから。……けれど、もし君が望むなら、私はいつでも準備を整えるつもりでいるよ」
 アレクサンダーの声音は誠実で、押し付けがましさは微塵も感じられなかった。それがかえってジェニファーの胸を揺さぶる。
(私が本当に自由になれたら……この人と一緒に、新しい人生を歩むのも、悪くないかもしれない)
 ほんのわずかな希望が、彼女の中で芽生えた。もちろん、離婚が成立するかどうか、いまだに不確定な状況だ。だが、漠然とした暗闇のなかに、一つの“道”が見えたような気がする。

5.破綻する公爵家とエドワードの後悔

 その後も離婚協議は続いたが、エドワード陣営は次第に焦りを見せ始めていた。
 なぜなら、公爵家の財政がローザの浪費と投資失敗によって急速に悪化しているからだ。さらに、社交界では「エドワード殿下は愛人に振り回されている」「公爵夫人との離婚がこじれている」などの醜聞が広がり、エドワードの立場はますます不利になっていく。
 ある日の夜、エドワードは公爵家の執務室で書類を睨みながら苛立ちを爆発させていた。
「こんなはずではなかった……。何故だ、なぜこんなにも事態が悪化する」
 机に散乱するのは、ローザの商会が生んだ赤字の報告書や、追加融資を断られた王宮とのやり取りなど。頭痛を抑えきれず、眉間を押さえる。
 一方のローザはと言えば、最近ではエドワードと顔を合わせることも減り、勝手に遊び歩いているらしい。宝石やドレスを買い漁り、夜会では他の貴族男性に媚を売っているとの噂もある。
「ちくしょう……!」
 エドワードは拳を握りしめ、壁を殴りつける。部屋にいた執事が慌てて声をかけた。
「殿下、お怪我をなさいます。どうか落ち着いて……」
「落ち着けるものか! どうしてこうなった……」
 かつては、整った容姿と王弟という立場で、エドワードは社交界の華だった。ジェニファーとの形式結婚を結んだのも、ランカスター家との繋がりを得て王宮内での地位を確固たるものにするためだった。
 あの時は、ジェニファーが多少冷遇されようが、自分には愛人がいるし好き勝手に生きていける――そう思い込んでいた。ジェニファーはおとなしく従うだけの駒に過ぎないはずだった。
 しかし、今となってはどうだ。ジェニファーは離宮に移り住み、離婚を求めて反抗を始めた。しかも、社交界ではジェニファーに同情する声も少なくない。彼女の堅実な美徳を評価する人々からは、「エドワード殿下が手放したのは惜しい」とさえ囁かれている。
 (ジェニファーは……あの優しく気高い姿は……もう、俺の手には戻らないのか?)
 そんな思いが一瞬胸をよぎるが、エドワードはかぶりを振ってかき消す。自分からあれほど蔑んでおきながら、今さら惜しく思うなど矛盾だ。いや、矛盾だとわかっていても心が軋む。
「まったく……どうしたらいい」
 誰に問うでもなく呟いたとき、扉の向こうから軽いノックの音がした。続いて聞こえる、甘ったるい女性の声。
「ねえ、エドワード。私よ、ローザ」
 エドワードは一瞬眉をひそめたが、深いため息をついて扉を開けるよう執事に指示する。
 ローザは艶やかな夜会服を着て、香水の匂いを漂わせながら入ってきた。
「ご機嫌いかが? 最近顔を見せてくれないから、寂しかったわ」
「……どこに行っていた」
 エドワードは冷ややかに問いかけるが、ローザは気にする様子もなく笑う。
「ちょっと友人とお茶をしていただけよ。ああそうそう、あなたに頼んでいた追加融資の件、まだ?」
「馬鹿を言うな。これ以上、金を出せるわけがないだろう。公爵家の帳簿を見ろ。火の車だ」
「そんなの嘘よ。あなたは王弟、いくらでも金を作れるでしょう?」
 ローザのあまりの言い草に、エドワードは言葉を失う。
「……君は俺が誰かに頼めば、簡単に金が出てくると思っているのか? 公爵家の資金は無尽蔵じゃない。王弟といえども、王家の金庫を好き勝手に開けられるわけでもない。そんなことをすれば、陛下からの信頼を失い、遠からず失脚だ!」
「ふうん……失脚ねえ。それは困るわ」
 ローザは冗談めかして言うが、その目にはまるで感情がない。
「でも私、贅沢を我慢する気はさらさらないの。エドワード、あなたは私を喜ばせるだけの力がない男ってことになるわよ? それでもいいの?」
 エドワードの胸中に苛立ちがこみ上げる。どうしてこんな女に囚われてしまったのか。ジェニファーと結婚していた頃のほうが、はるかに平穏だったのではないか――そんな後悔の念が押し寄せる。
「君は……俺を利用するだけ利用して、切り捨てるつもりか?」
「さあ、どうかしら。あなた次第ね」
 そう答えるローザの笑みは、どこまでも残酷で美しい。エドワードはその場に立ち尽くし、思考が停止してしまう。これまで思い通りに生きてきたはずが、いつの間にか逆転されている――それを痛感する瞬間だった。

6.離婚成立とジェニファーの決断

 幾度かの交渉と法的手続きを経て、ジェニファーとエドワードの離婚は最終段階にまでこぎつけた。
 国王は“王弟”の面子を守るため、離婚そのものには口出ししなかったが、財産分与やジェニファーへの慰謝料については双方の溝が深く、何度も折衝が繰り返された。
 最終的に、エドワード側が“体面を最優先”して譲歩する形になった。公爵家が早期に離婚問題を終わらせて世間の目を逸らしたかったこと、そしてエドワード自身がローザの失敗投資で財政的に追い詰められていたこともあり、ジェニファーにある程度の金銭を渡して解決を図ろうとしたのだ。
 当然、ランカスター家は猛反対したが、国王や重臣が「これ以上の混乱は許されない」と取りなした結果、強引に話がまとまる形となる。
 こうして、ジェニファーは王宮の一室で正式に“離婚成立”の書類にサインを交わした。
 ――自分の人生を縛りつけていた鎖が、ようやく断ち切られた瞬間。
 書類から視線を上げると、エドワードが少し離れた場所で暗い顔をしているのが見えた。目が合うと、彼は何か言いたげに唇を動かすが、結局何も言わず背を向ける。
 (さようなら、エドワード。あなたのもとで私は「白い結婚」の悲しみしか知らなかった。今さら後悔されても、もう遅いわ)
 ジェニファーは静かに一礼して、その場をあとにした。背筋は伸び、瞳には力が宿っている。かつてのようにすくむことはない。

 離婚が成立すると、ジェニファーは離宮を引き払うことになった。名目上、まだ“公爵夫人”だったから滞在を許されていたが、離婚後はその理由が消滅する。
 ランカスター家に戻る選択肢もあったが、父との確執は決定的だ。家に戻れば再び束縛され、今度は「家の都合」に翻弄されるかもしれない。
 ――ならば、どこへ行く?
 ジェニファーは一瞬迷った。王都の中で家を借りることも考えたが、資産をあまり多く持っているわけでもなく、貴族社会に未練はない。かといって地方へ逃げる形で暮らすことも、寂しくはないだろうか――。
 そんなとき、アレクサンダーからの誘いの言葉が脳裏をよぎる。彼は「ヴォルフ公国へいつでもおいで」と言ってくれた。あくまで選択肢の一つとして、押し付けるつもりはないとも言っていた。
 ジェニファーは、自分の胸に正直に問いかける。
(私は……どうしたいのだろう。エドワードとの結婚で傷つき、失った時間を取り戻すには、何が必要なんだろう)

 答えを出したのは、離宮を出た翌日の夜だった。ジェニファーは馬車に乗り、ひとつの館を訪ねる。そこは以前アレクサンダーに招かれた、彼が滞在している私邸だ。
 玄関で使用人に案内されると、サロンに通され、まもなくアレクサンダーが姿を見せた。
「ジェニファー……あなたがここに来てくれるなんて。嬉しいよ」
 彼の温かい言葉に、ジェニファーの胸はじんわりと熱くなる。まだ戸惑いはある。それでも、この人を信じてみたいという思いが勝った。
「私、離婚が成立しました。もう公爵夫人でも、ランカスター家の娘でもありません。だから……」
 言葉に詰まるジェニファーを見て、アレクサンダーは黙って近づき、そっと手を取る。
「おめでとう。君が自由になれたことを、心から祝福する。そして、ようやく君に言えるよ――もしよければ、私の国へ一緒に来ないか?」
 ジェニファーは微かに頷き、震える唇から想いを吐き出した。
「……はい。私でよければ、あなたのもとへ行かせてください」

7.新たな人生――幸せな再婚へ

 ジェニファーがヴォルフ公国へ渡ると決まったとき、王都の社交界は大騒ぎになった。「あの美貌の元公爵夫人が北方の大公と再婚?」「国際問題にならないか?」などと、根も葉もない噂が飛び交う。
 だが、アレクサンダーは動じなかった。彼自身が正式に「ヴォルフ公国の大公妃」としてジェニファーを迎える意志があると明言し、 diplomatic route(外交ルート)を通じて国王にも通達したのだ。国王としては、大国ヴォルフ公国との関係強化を望んでいる手前、反対する理由はない。むしろ喜んで協力を申し出たほどだ。
 いっぽう、エドワードはその報を聞いて青ざめたという。公爵家の財政は未だ危機的状況から抜け出せず、ローザも影で別の有力貴族に取り入ろうと画策しているらしい。王宮内では「エドワード殿下より、いまやアレクサンダー大公のほうが頼もしい存在だ」という声すら出ている。
 そうしたゴタゴタを尻目に、ジェニファーは着々と渡航の準備を進めた。余計な装飾品や家具はすべて処分し、最低限必要な書類や愛用品だけをトランクに詰める。
 旅立ちの前夜、彼女はふと自室で一人、静かな時間を過ごした。これまでの人生を振り返れば、痛みや裏切りばかりが思い返される。けれど、その先には未来がある。アレクサンダーという光がある。
 (エドワードやローザへの“ざまあ”など、もうどうでもいいわ。私は自分の幸せを掴む。それが最大の復讐なのかもしれない)
 そう思うと、不思議と心が軽くなった。

 やがて、馬車に乗ってアレクサンダーのもとへ向かう日が来る。彼女はクリスティーナら少数のメイドを連れ、王都を出立した。王宮やランカスター家に別れの挨拶を入れる必要はない。もう彼女は自由の身だから。

 長い道のりを経て、国境の山脈を越え、広大な草原が広がるヴォルフ公国へ到着したのは初夏のことだった。そこで待ち受けていたのは、アレクサンダーの臣下たちの盛大な歓迎と、遠くから吹き渡る爽やかな風。
 「ここが……私の新しい故郷になるのね」
 ジェニファーは馬車の窓から見える美しい景色を見つめ、胸を高鳴らせた。エドワードとの結婚生活で味わった苦しみが嘘のように、今は希望に満ちている。
 アレクサンダーが「大公家の離宮」と称する城館にジェニファーを案内すると、そこには既に祝福の準備が整っていた。近臣たちが一列に並び、花びらを撒いて出迎えてくれる。その温かい歓迎ムードに、ジェニファーは思わず目頭が熱くなる。
「ようこそ、ヴォルフ公国へ。私の大切な人よ」
 アレクサンダーはそう言って微笑み、ジェニファーの手を取る。その瞳は誠実な愛情で満ち溢れていた。

 数日後――盛大な式典が行われ、ジェニファーはヴォルフ公国の大公妃として正式に迎えられる。純白のドレスに身を包み、大勢の国民たちの前でアレクサンダーと誓いの言葉を交わす。
 ――それは、かつての「白い結婚」とはまるで正反対の、心が震えるような幸福な瞬間だった。
 誓いの口づけのあと、アレクサンダーがぎゅっとジェニファーを抱きしめると、民衆が歓声を上げ、花束が投げ込まれる。その光景を目にして、ジェニファーは自分が本当に“愛される結婚”を得られたのだと、ようやく実感する。
 (もう誰にも踏みにじられることはない。私はここで、彼と共に歩んでいける)

8.エピローグ――本当のざまあは“幸せを掴む”こと

 時は少し経ち、ジェニファーはヴォルフ公国の大公妃として穏やかな日々を過ごしていた。公務ではアレクサンダーを補佐し、国民との交流を楽しむ。時には厳しい判断を迫られることもあるが、彼女はかつての経験を活かし、誠実かつ堅実な姿勢で取り組んでいた。
 「白い結婚」だった前の生活は、今や遠い過去の悪夢のように感じられる。エドワードやローザがどうなったのか、王都からの噂は断片的にしか入ってこないが、どうやら投資に失敗したローザは莫大な借金を抱え、社交界でも居場所を失いつつあるらしい。エドワードもローザと決裂し、財政再建に追われているという。
 ――きっと、彼は今ごろ後悔しているのかもしれない。ジェニファーを手放したことを。
 だが、ジェニファーはもうそんなことを気に留めるほど暇ではない。新たな国で築く日々は忙しくも充実しており、彼女は自分が生きる意味をはっきりと感じていた。
 ある日の午後、ジェニファーは城館のバルコニーから、広大な草原を眺めていた。心地よい風が髪を揺らし、あの王都では得られなかった解放感が全身を包む。
 後ろから歩み寄ってきたアレクサンダーが、そっと肩に腕をまわしてくる。
「ここから見る景色は、いつ見ても素晴らしいね」
「ええ。本当に……美しいわ」
 ジェニファーは微笑みながら、彼に体を預ける。かつて味わった冷たく閉ざされた夜とは違う。今の彼女には、寄り添う相手の温もりが確かにある。
「君とこうして並んでいられることが、私にとって何よりの幸せだ。ありがとう、ジェニファー」
「私のほうこそ。……こんなにも愛を感じたのは、初めてです。あなたと出会えたことに感謝しています」
 二人は見つめ合い、優しく唇を重ねる。
 その時、ジェニファーは強く確信した。自分が求めていたのは、地位や財産のための“偽りの結婚”などではなく、ただ「大切にされること」「心を通わせること」だったのだ――と。
 “ざまあ”という言葉では表しきれないほどの幸福が、今まさにジェニファーの人生を満たしている。元夫や愛人がいかに破滅しようと、それを嘲笑するより、自分が幸せに生きることこそが最大の復讐であり、最高の勝利なのだろう。

 こうして、ジェニファーは王都を捨て、北方の大公アレクサンダーと共に歩む道を選んだ。
 かつての「白い結婚」での苦しみから脱却し、真の愛に包まれた新婚生活は、どんな困難が訪れようとも、きっと乗り越えていけるに違いない。
 柔らかな風が草原を渡り、バルコニーに立つ二人の姿を優しく揺らしていく――。


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与三振王
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