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第3章 隣国の危機――国を救う才女
しおりを挟む1.盗賊団掃討作戦の結末
「――エヴァンジェリカ、合図だ! 急げ!」
グレイフリート北部の山間に差し込む朝日が、険しい地形を淡い金色に染めている。そんな冷え込む空気の中、エヴァンジェリカは崖の上から眼下を見下ろしていた。
彼女の足元には、地図と書き込みの入ったメモが散らばっている。昨晩まで徹夜で最終調整を続けた“盗賊団掃討作戦”の結晶だ。
「隊長! 東側の道を塞ぎました! あとは中央ルートを奴らが通ってくれれば、こちらの兵と挟撃が可能です!」
斥候として崖下へ降りていた兵士の一人が、声を上げながら駆け寄ってくる。エヴァンジェリカは地図上に視線を落とし、想定していたポイントを指先でなぞった。
――盗賊団の行動パターンから導き出した逃走ルートの要衝。この狭い谷間を抜けるほかに“楽”な道はない。ならばそこに兵を集中させ、別働隊を回り込ませて挟み撃ちにするのが、今回の作戦の骨子だった。
「よし……! では、私たちも移動します。隊長、本部隊を北側から誘導してください。私は予定通り、東から回り込む兵に合流します」
エヴァンジェリカは地図をたたみ、素早く行動を開始する。元々彼女は正規の兵士ではなく“作戦立案の参謀”のような立場だが、現場を見て状況に応じた指揮をするため、敢えて実地に出ているのだ。バラル伯からは「女がしゃしゃり出るな」と嫌味を言われたが、隊長や兵士たちはすでにエヴァンジェリカの判断力に一目置き始めている。
「了解です。お嬢さん、くれぐれも気をつけてくださいよ!」
隊長も慌ただしいながらも、彼女に敬意をこめた表情を向けている。恐らく、これほど組織的な作戦を立案・実行に移すのは、グレイフリートの兵たちにとって初めての経験なのだろう。
挟み撃ちの決行
兵士たちは事前に指示されていた通り、小規模な部隊に分割されてそれぞれが定められた地点に潜んでいる。崖や岩陰、茂みなどに隠れて待機し、盗賊団が“おのずと”通らざるを得ないルートへと誘い込むのだ。
その“誘導”役として、囮(おとり)に回っているのが別の小隊である。彼らはあえて少人数で堂々と姿を見せ、敵に「今なら襲える」と思わせて追いかけさせる。そして、十分に引きつけたところで逃げ回り、待ち伏せ地点に導く。
(気づかれずにうまく囲めますように……!)
エヴァンジェリカは心の中でそう祈りつつ、森の中を急ぎ足で移動する。岩壁に囲まれたルートを抜けると、小さな谷川を越える足場が見えてきた。そこに、彼女が合流すべき東側の別働隊が潜んでいるはずだ。
すると、遠くから喧騒と怒号が聞こえ始めた。馬の嘶きと人々の叫び声が入り混じり、明らかに戦闘が始まっているとわかる。
「来たわね……!」
エヴァンジェリカは足を速め、姿勢を低くしながら目的地に近づく。やがて谷川沿いの大岩の裏手に隠れる数人の兵士たちを視認した。中でも見覚えのある青年――レイヴァンが、こちらを手招きしている。
「エヴァンジェリカさん、予定通りですよ! 奴ら、囮小隊を追ってくる形で谷川を目指してます!」
レイヴァンは興奮した声で報告する。彼は元々、領主邸で下っ端兵士としてこき使われていたが、エヴァンジェリカの計画に賛同し、地道に情報収集や兵士たちの説得に奔走してくれた若者だ。
「よかった……。このまま私たちも位置を確保しましょう。盗賊団が通りかかったら、一斉に奇襲をかけるわ。隊長から連絡が入ったら、すぐ合図を送って」
「はい!」
エヴァンジェリカは岩の陰で地図を再確認しながら、次の動きを頭の中でシミュレートする。盗賊団は馬を使って移動している者もいるため、もし散り散りになってしまえば取り逃がす可能性が高い。だが、こちらも散り散りに配置していれば、複数方向から追撃が可能だ。
一番の懸念は、敵の中に強力な魔術師がいるかどうか、という点だった。しかし、これまでの報告によれば盗賊団の魔術の質は低く、戦闘面では脅威になるほどの使い手はいないらしい。エヴァンジェリカはそれを信じ、盗賊団のリーダー格を速やかに捕縛することを優先している。
作戦の要――指揮と連携
やがて馬蹄(ばてい)の音と荒々しい叫び声が、すぐ近くまで迫ってきた。囮役の兵士たちが飛び込んできて、数名の盗賊がその後ろを追い立てるように突撃してくるのが見える。
合図は――まだだ。数が少ない。これだけでは恐らく偵察隊や先鋒に過ぎないだろう。エヴァンジェリカは息を飲んで様子を見守る。
(本隊はどのくらいの人数で来るか……読み通りなら、あと数十人規模がなだれ込んでくるはず)
周辺の兵士も息を潜め、待機を続ける。すると、谷川の上流方向から再び大きな声が響いた。先ほどまで薄暗かった森の中を、突然たくさんの馬影が横切り、武装した男たちが前方へ殺到していく。
その瞬間――崖の上から赤い煙弾が打ち上げられた。これは隊長サイドが「敵本隊を確認した」と知らせる合図だ。
「今よ、出撃準備!」
エヴァンジェリカの小さな叫びに合わせて、周囲の兵士たちが一斉に動き出す。レイヴァンも槍を構え、低い姿勢で馬の足元を狙うために隠れ場所を移動する。
まず、囮に対して突撃していた先鋒の盗賊たちが、周囲から飛び出してきた兵士に動揺する。そこへ後続の盗賊本隊が追いつき、統率が取れないまま混乱を起こした。
「隊長! こちらも攻撃を開始します!」
エヴァンジェリカはすかさず補佐役の兵に声を掛け、合図用の旗を振らせた。これで南側の兵士も同時に挟撃を開始するはずだ。
激突と混乱
短いが激しい衝突が起こった。盗賊団は馬の機動力を活かして逃げようとするが、すでに東西南北へと通じる抜け道は塞がれている。しかも、周囲を囲んでいる兵は少人数ずつの小隊に分散しており、一部を破ってもすぐ別の方向から追撃が飛んでくる。
そこへ更なる追い打ちをかけるように、崖上に展開していた弓兵隊が矢を雨のように放った。馬上の盗賊たちは次々に矢を受け、足を止める者、必死に逃げようと馬を振り回す者が続出する。
「くそっ、罠だ! こんな辺境の兵が、こんな作戦を張るなんて……!」
盗賊団のリーダー格らしき男が、反撃を指示する怒声を上げた。しかし、どこから矢が飛んでくるのかわからず、味方同士の連携もままならない。
――これが、エヴァンジェリカが描いた陣形の強みだ。正面衝突では分が悪いが、相手を狭い谷間に誘導し、頭数と機動力を封じ込めば、少数精鋭でも優位に立てる。
「今が勝負……!」
エヴァンジェリカは小さな短剣を腰に手繰り寄せた。彼女はもともと貴族令嬢としての護身術を多少習っているが、前線で戦うほどの腕はない。自分の役目はあくまで指揮と状況把握だ。
下手に出張って命を落とせば、作戦が瓦解するリスクもある。彼女は指揮官として冷静に陣頭を観察し、一刻も早く盗賊団のリーダーを見極める必要があった。
(あの男かしら……? 一際大きな体格で、部下から指示を仰がれているみたい)
視線の先で暴れている巨漢が、どうやらリーダーのようだ。周囲の盗賊がその男のもとに集まり、必死に突破口を探っている。その動きを見て、エヴァンジェリカはすかさず合図用の笛を吹いた。
「レイヴァン! あの巨漢を囲んで!」
「了解!」
彼女の声に応じ、レイヴァンを含む数名が巨漢の後方へ回り込む。刃を向け合う一瞬の交錯の末、なんとか巨漢の逃げ道を遮断することに成功した。しかし、その男は大剣を振り回して凄まじい力で兵を薙ぎ倒していく。
「うわぁっ……!」
一人、また一人と兵士が弾き飛ばされ、宙を舞った。レイヴァンが慌てて間合いを取りながら槍を突き出すが、巨漢はそれすらも弾き返す勢いだ。
(このままだと、まるで歯が立たない……!)
エヴァンジェリカは歯噛みする。彼女の計算では、リーダーが多少の武術に長けていても、多方向からの連携攻撃で封じる予定だった。だが、想定を上回る怪力と剣術の腕前を持つ相手となれば、兵士たちの損害が拡大してしまうかもしれない。
「――隊長! リーダーの拘束を優先してください!」
急ぎ走ってきた隊長に声をかけ、エヴァンジェリカは大きく腕を振る。すると、あちこちで兵士の動きが変化し、周囲に散っていた者がリーダー格を囲むように集まり始めた。
同時に、崖の上から矢を放っていた弓兵隊にも合図を送る。リーダー周辺は味方兵も多いので誤射が怖いが、足元や背後を狙う形で弓を放てれば牽制くらいはできるだろう。
「くそっ、何なんだこの周到さは……! こんな辺境の兵が、どうして……」
リーダーの巨漢は苛立ちをあらわに叫ぶが、四方八方から兵が詰め寄り、思うように剣を振れなくなっている。さらに岩の上から飛んできた数本の矢が足元を掠め、陣形を崩す形になった。
その隙を突き、隊長がリーダーの剣を斜め上に受け流す。次いでレイヴァンが、渾身の力で横からタックルを見舞った。
「うああっ……!」
リーダーはバランスを崩し、よろめいた拍子に大剣を取り落とす。すかさず後方にいた兵士がリーダーの背に飛びつき、両腕を押さえつける。戦意を剥がされたリーダーは、あっという間に地面へ倒された。
「よし、拘束完了! そいつがボスだ、捕らえろ!」
隊長の声に続き、周囲の兵士が歓声のような安堵のような声を上げる。崖の上からも弓兵が大喜びで叫ぶ声が聞こえ、エヴァンジェリカも大きく息を吐いた。
「やった……!」
リーダーの捕縛は作戦の大きな要だった。頭を失った盗賊団は、すでに逃げ腰になっている。東側や南側の兵士が順次追撃し、抵抗を諦めた者たちから武器を取り上げ、縛り上げていく。これで今回の盗賊団主力は、ほぼ制圧できたと見ていいだろう。
エヴァンジェリカは胸の奥から湧き上がる達成感と同時に、まだ完全な油断はできないと自分に言い聞かせる。この勢力の残党が他の場所に潜んでいる可能性もあるし、何より“すべてが終わった”のはまだ先だ。
2.バラル伯の歪んだ栄誉
作戦から数日後――グレイフリートの領主邸では、盗賊団を制圧した功績を祝う小さな宴が開かれていた。盗賊団の大半は捕縛され、残党も周囲の山岳地帯を掃討することでほぼ壊滅状態にある。
これによって被害が減り、商隊が再び北の街道を安全に通行できるようになる見込みが立った。グレイフリートの町にとっては画期的な出来事であり、町民たちも少しずつ笑顔を取り戻しつつある。
「いやはや、我がバラル伯の領地が守られたのも、この伯の采配あってこそだな!」
領主であるバラル伯が、大理石の床に響く高笑いを放つ。宴会といっても、ほんの十数名ほどの客を招いた小さなものだが、伯自身はやけに上機嫌だった。
ある程度はバラル伯の指揮下で行われた作戦なので、彼が“領主として”の顔を立てるのは当然かもしれない。しかし、当のエヴァンジェリカは会場の隅で申し訳程度に設けられた小さな席に控え、まるで功労者という扱いを受けていない。
(まあ、最初から予想していたことだけれど……)
エヴァンジェリカは苦笑いを噛み殺し、グラスの中の葡萄酒をじっと見つめる。おそらく今回の成功は、バラル伯が「自分の名声を高めるための手柄」として王都に報告するのだろう。
もちろんエヴァンジェリカの名が完全に伏せられるわけではないが、追放者である彼女に特別な栄誉を与えたいと思う貴族がいるとは考えにくい。現に、周囲の貴族たちは「領主さま、素晴らしい作戦でしたね」「さすがはバラル伯!」と賞賛の言葉を惜しまない。
「ふん、これだけの功績を挙げたからには、きっと国王陛下も私を評価してくださるだろう。今度こそ、私はこの荒れ地からもっと栄えた領地へと異動するかもしれん……!」
バラル伯はそう嬉しそうに呟き、酒をあおる。どうやら、彼自身はこの辺境の領を飛び越え、もっと豊かな地を任されたいらしい。そのためには実績が必要であり、“盗賊団を壊滅させた”という華々しい手柄は絶好のアピール材料というわけだ。
(私が関与した作戦だとは、バラル伯はあまり認めたくないでしょうね。私に手柄を渡せば、自分の立場が薄れてしまうもの。……まあ、わかっていて協力したのだから、今さら文句を言うつもりはないわ)
エヴァンジェリカは、ほとんど空になったグラスの中身を舐めるように味わい、やがてそっとグラスを置いた。自分の席に運ばれる料理も質素で、周囲の貴族客がテーブルいっぱいに並べられた豪華な肉料理や果実を口にしているのとは対照的だ。
いつまで経っても“よそ者”扱いであることに、少し胸が苦しいが、同時に自分の立ち位置を改めて痛感する。王太子妃になるはずだったエヴァンジェリカは、今や“追放者”であり、ルシタニア王国でも正式な身分を持たない半ば流民のような存在なのだ。
不穏な訪問者
宴の喧騒が続く中、邸の玄関口で何やら騒ぎが起こったらしい。扉を開け放して衛兵がなだれ込み、急ぎバラル伯のもとへ駆け寄る。
貴族客たちが戸惑いの声を上げると、衛兵が恭しく一礼してから報告した。
「領主さま、大変申し上げにくいのですが……ルシタニア王宮より“勅使”が到着なさいました。お連れの護衛騎士が十数名おり、ただいま邸の門前でお待ちいただいております」
この報告に、バラル伯は飲みかけの酒を盛大に噴き出しそうになった。まさか王宮の勅使が、この辺境に突然やってくるとは想定外なのだろう。バラル伯は慌てて立ち上がり、周囲に目を配る。
「な、なぜだ……王宮の勅使が、こんな急に? ま、まあ、いい。すぐに客間を整えろ! 私も支度をする!」
貴族客たちも一気にざわめき、緊張感が走る。グレイフリートのような辺境では、王都からの使者を丁重に迎えるのが大原則だからだ。失礼があれば、それだけで領主の地位が揺らぐ可能性すらある。
やがてバラル伯の命令で執事やメイドたちが慌ただしく動き、客たちは宴会場から一旦退出。エヴァンジェリカもその一人として、とりあえず廊下の片隅に身を寄せる。
(勅使……いったい何の用かしら? もしや盗賊団の件で表彰か、あるいは問題視されるのか。それとも別の要件?)
疑問が尽きないまま待っていると、やがて大きな足音とともに、騎士の姿が視界に入った。華やかなマントを翻し、鎧の胸部にルシタニア王国の紋章を刻んだ騎士たちが十名ほど続き、その中心に一人の優美な男性が立っている。
金糸で装飾されたローブと、切れ長の目元が印象的なその男性は、年の頃は三十代後半といったところだろうか。厳かな雰囲気を漂わせつつ、どこか冷徹な気配も感じられる。彼こそが今回の勅使らしい。
「バラル伯、我が主君・ルシウス陛下の名のもとに、国王直々の勅命をお伝えすべく参上いたしました」
男性の声はよく通り、邸内に響き渡る。バラル伯はひどく緊張した面持ちで丁寧に膝を折り、深く頭を下げる。
「こ、これはご足労いただき恐れ多い……。バラル伯爵家当主・ディアランド・バラルにございます。陛下の御命令とあらば、何なりと承りまする」
「うむ。……まずは礼を言わなければなるまいな」
勅使の男性はちらりと邸内を見回し、軽く顎を引いて続けた。
「先日の盗賊団壊滅により、北方街道の安全が確保されたことは、国王陛下も把握しておられる。その功績については、追って“正式な書状”で褒賞を下すとのことだ」
「はっ! ありがたき幸せにございます……!」
バラル伯は歓喜に震えそうな声を押し殺し、懸命に平伏する。他の貴族客も、まるで自分の手柄であるかのように得意げに胸を張る者もいれば、安堵のため息をつく者もいる。
しかし、続く勅使の言葉は、決して“それだけ”では終わらなかった。
「……だが、陛下が今回の件に深く関心をお持ちになられたのは、盗賊団の殲滅だけが理由ではない」
勅使の視線が、バラル伯を越えて、辺りを探るように動く。エヴァンジェリカはとっさに物陰から一歩後退し、気配を殺そうとするが、その男性の視線は鋭く、まるで彼女を探り当てようとしているかのようだ。
「どういう意味でございましょう……?」
バラル伯が恐る恐る尋ねる。勅使は再び冷厳な口調で語った。
「陛下は、“今回の作戦を主導し、盗賊団を一網打尽にする筋書きを描いた人物”に興味を持っておられる。バラル伯、お前にそのような才覚があったとは……少々思えぬが? よもや、協力者がいたのではないか?」
「それは、その……」
バラル伯は明らかに言い淀む。表向きは自分の手柄として王都に報告していたが、国王側近ともあろう人物がここまで踏み込んでくるとは想定外だったのだろう。
一方でエヴァンジェリカは、胸が高鳴るのを感じる。国王・ルシウスが“私”に興味を持っている――? それが本当なら、どうすればいいのか。素直に姿を現すべきなのか、あるいは逃げるべきか。頭がぐるぐると回っている。
「な、何を仰る。私がこの領を守るために、兵を束ねて戦ったまでのこと……」
苦しい言い訳をするバラル伯。しかし、勅使は一切容赦しない態度である。
「……陛下は既に“作戦の中枢”がバラル伯ではない可能性を、いくつかの情報筋から得ておられる。私の役目は、それが何者なのかを確かめることだ。それから、その者をできれば王都へ同行させること。――陛下の勅命だ」
「こ、これは……」
バラル伯は大粒の汗をかき、周囲を見回す。彼としては、エヴァンジェリカの存在を黙って王都からの褒賞を横取りしたいところだが、ここまで勅使が明言している以上、隠し通すのは難しい。下手に嘘をつけば国王に睨まれ、領地どころか自分の地位も失いかねない。
やがてバラル伯は意を決したように顔を上げ、奥の方で隠れているエヴァンジェリカを見やった。そして、しぶしぶという様子で口を開く。
「……この成果の裏には、一人の“客人”の助力があったのは事実でございます。しかし、そやつはメルガーデン王国からの追放者でありまして……何やら曰く付きの存在で……」
「追放者、だと?」
勅使は目を細め、その方向を見る。ガタガタと震えながら道を開けた貴族客たちの間から、エヴァンジェリカの姿がまざまざと現れた。バラル伯の指し示す方を見て、勅使は口元に薄い笑みを浮かべる。
「……なるほど。お前が、その才覚を発揮したという“客人”か」
部屋中の視線が一斉にエヴァンジェリカへと注がれる。引き寄せられるように、彼女は一歩前に出た。かつては王太子妃の立場にふさわしい気品ある立ち振る舞いを徹底的に叩き込まれていた彼女だが、今や薄いドレスしか着ておらず、貴族らしい威厳を示すものは何一つない。
それでも、彼女の背筋はすっと伸びていた。公爵令嬢としての誇りは、いくら蔑まれようとも失われてはいない。
「は、はい……わたくしはエヴァンジェリカ・セロンと申します」
声を震わせないように、懸命に言葉を紡ぐ。勅使はその名乗りを聞くと、小さく頷いた。
「セロン……なるほど。やはり噂に違わぬか。貴様、メルガーデンの公爵家出身でありながら追放されたと聞くが、何故ルシタニアに?」
ここで正直に事の経緯を説明するべきなのか。いじめの冤罪で追放されたという真実を、赤の他人である王国の勅使にまで詳細に話す必要はない。
けれど、下手に取り繕って国王陛下の疑念を招けば、余計に面倒なことになる。エヴァンジェリカは一瞬迷った末、なるべく簡潔に事実をまとめることにした。
「……わたくしは、メルガーデン王国の王太子の婚約者でした。しかし、ある聖女による陰謀により、いじめの加害者として嵌められ……罪を着せられて追放されました。故郷には戻れず、この国境地帯に流れ着いた次第です」
室内がざわつく。バラル伯は「そんなスキャンダル話を堂々と語るんじゃない」と言わんばかりに慌てた様子を見せるが、勅使は動じることなく続けた。
「そうか。――だが、その才覚は本物と見受ける。なぜなら、お前が実質的に策を練り、盗賊団を殲滅したという報告が、すでに陛下の耳に届いているからだ」
「……っ」
エヴァンジェリカは思わず唇を噛む。自分の貢献が表に出ることを望んでいたわけではないが、ここまで明言されるとは思っていなかった。
それを聞き、バラル伯は苦々しげに口を挟む。
「では、そやつをどうなさるおつもりで……?」
勅使はバラル伯を一瞥し、それから再びエヴァンジェリカに視線を戻す。
「陛下は、『その才をさらに確かめたい』と仰せだ。よって、お前を“王都アルトラヴィス”へと招き、直接陛下がお目通りなさることになる。……エヴァンジェリカ・セロン、その覚悟はあるか?」
「え……」
息を呑む。隣国の王都――ルシタニア王国の中心地へ自分が呼ばれるなど、考えてもいなかった。だが、国王陛下直々の勅命ともなれば、断れば“逆らった”とみなされる可能性が高い。かといって、気軽に引き受けるのも不安だ。
勅使は少し声のトーンを落として、彼女にたたみかける。
「陛下は、お前を無理やり縛って連れて行けとは仰らない。だが、お前が拒めば、陛下は『招きに応じぬ者』として見なすことになる。そうなれば、この先ルシタニアで生きるのは極めて難しくなるだろう。……選ぶがいい」
要するに、“行かない”という選択肢は事実上用意されていない。ここで断れば、滞在先であるグレイフリートにもいづらくなるし、そもそもバラル伯が黙っているとは思えない。
エヴァンジェリカは自分の中の恐怖と、ほんのわずかな期待を秤にかける。――王都へ行けば、ルシウスという国王が自分の力をどう評価するか直に確かめられるかもしれない。あるいは、冷酷な処分を下されるかもしれない。
(でも、これを逃せば私は永遠に“追放者”のまま。ルシタニアに居場所を築くチャンスなど、二度と巡ってこないかもしれない……)
思い返せば、メルガーデン王国で自分の実力を信じてくれた人はほとんどいなかった。王太子レオナードはフローラの甘言に惑わされ、公爵家は自分を見捨てた。――けれど、ここにきてルシウス王が自分の才覚に目を留めているというのなら、それは一筋の光ではないだろうか。
エヴァンジェリカは自分の鼓動を強く感じながら、勅使をまっすぐに見上げる。
「……わかりました。ルシウス陛下のお招きに応じます」
その言葉に、勅使は満足げに頷いた。
「賢明な判断だ。では、三日後に出立する。準備を整えておけ。お前には、私たちが王都まで護衛をつけてやる」
「は、はい……よろしくお願いいたします」
頭を下げたエヴァンジェリカの横で、バラル伯がしぶしぶといった様子で唇を尖らせる。彼から見れば、せっかくの手柄を国王陛下に直接売り込む“目障りな女”を、容易く野に放つようなものかもしれない。
だが、王命は絶対だ。バラル伯にも止める権利などない。
(こうして、私はルシウス王のもとへ赴くことになった。――冷酷王と呼ばれる王が、私にどんな言葉をかけるのか……正直、不安だけれど)
エヴァンジェリカは胸の奥で強く決意する。ルシタニア王国の王都アルトラヴィス――そこは、彼女が新たな未来を掴むための大きな舞台となるだろう。
3.王都アルトラヴィスへの道
勅使が現れた翌朝、エヴァンジェリカは滞在中の屋敷で身支度に追われていた。もともと持っているものが少ない彼女は、荷物といっても大した量ではない。主な荷は、領主から支給された最低限の衣服や日用品、そして彼女が書き溜めていた作戦メモや地図程度だ。
ただし、今は“公爵令嬢”としての身分証がないため、王都での滞在中に困るだろうと考えたバラル伯(というより、その部下の執事)が、一応の身分代わりになる書面を発行してくれることになった。追放者である以上、公的な証明は難しいが、「バラル伯爵家の客人」という扱いならば最低限の礼儀を得られる可能性がある。
「まあ、結局は国王陛下とやらが私の価値を見極めるだけだから、形ばかりの書面だけれど……」
エヴァンジェリカは半ば自嘲気味に呟き、与えられた安宿の小部屋を見回した。ここを去るのかと思うと、少しだけ感慨があった。苦難の始まりにも思えたグレイフリートだったが、盗賊団掃討の件で幾人かの仲間や知人ができたのも事実だ。
ドアがノックされ、レイヴァンが入ってくる。彼はいつもの兵士の制服を着込み、少し寂しげな表情を浮かべていた。
「もう出発なんですね、エヴァンジェリカさん……。せめて何かお礼をしたかったんだけど……こんな辺境じゃ、まともに贈り物もできないし」
「そんなこと気にしないで。レイヴァンにはいろいろ助けてもらったし、私の方こそ感謝してるわ。あなたがいなかったら、盗賊団作戦だって成功しなかったかもしれない」
エヴァンジェリカは素直な笑みを浮かべると、小さく肩をすくめる。思えば最初に地下室へ食べ物を持ってきてくれたのがレイヴァンだった。もし彼の協力がなかったら、彼女はバラル伯に取り合ってすらもらえず、追い返されていたかもしれない。
「お嬢さんが王都へ行ってしまうなんて、やっぱり惜しいな……。帰ってこられるんですか?」
「わからない。もしかしたら、そのまま王都で働くことになるかもしれないし……陛下に嫌われたら、どこかに追い出されるかもしれない。でも、とりあえずは自分の未来を切り拓くためにも行くしかないわ」
エヴァンジェリカはそう言い切って、背筋を伸ばす。怯えてばかりいては何も始まらないのだ。王太子レオナードに見捨てられたあの日から、彼女はずっと立ち止まっているわけにはいかないと心に誓っている。
レイヴァンはわずかに唇を噛み締めたあと、小さな袋を取り出した。それをエヴァンジェリカに差し出し、視線を逸らしながら呟く。
「大したもんじゃないけど、これ……薬草を干して粉にしたやつです。怪我や熱が出たときに煎じて飲むと効くんです。山育ちの友人が作り方を教えてくれて……」
「ありがとう、助かるわ。王都までの道のりで何があるかわからないものね。大事に使わせてもらう」
エヴァンジェリカは丁寧にそれを受け取り、胸のポーチにしまい込む。暖かな気遣いが嬉しく、また名残惜しい気持ちがこみ上げる。
「行ってらっしゃい、エヴァンジェリカさん。あなたならきっと、どこでだって立派に生きられますよ」
「ありがとう。レイヴァンも元気でね」
そう言葉を交わし、二人は固い握手を交わした。
王都行きの行列
三日後、バラル伯の屋敷前には十数名の騎士と馬車が用意され、ちょっとした行列になっていた。勅使一行は王都まで戻る道中、各地で報告や書類の受け渡しを行うらしく、割と大掛かりな移動体制を取っている。
エヴァンジェリカは、そのうちの一台の馬車に乗ることになった。護衛として数名の騎士が付き添い、バラル伯からの書面や勅使から渡された“同行許可証”を手元に持っている。
バラル伯は出発を見送る際、相変わらず渋い顔をしていたが、最後には形だけの挨拶をしてきた。
「まあ……王都で何があろうと、私は知ったことではない。もし結果的にお前が陛下に気に入られるようなことがあれば、私に恩を返すのを忘れるなよ」
「……ええ、もしそんな日が来るなら、そうしますわ」
エヴァンジェリカは苦笑いを浮かべながら馬車に乗り込む。車輪が軋み始め、乗り慣れない感覚が腰を揺らす。窓から見えたレイヴァンを含む兵士たちの姿が、次第に遠ざかっていった。
こうして、エヴァンジェリカはルシタニア王国の王都アルトラヴィスへ向かう旅に出る。グレイフリートでの一幕は、彼女がこの地で生き抜くための“第一歩”に過ぎなかった。果たして、王都で彼女を待ち受けるのはどのような運命なのか――誰も知る由はない。
4.揺れ動くルシタニア王国の政局
一方その頃、王都アルトラヴィスは大国としての繁栄と、内部にくすぶる火種の双方を抱えていた。ルシウス・ヴォルフガングが王位について数年、内乱はほぼ収束し、貴族の多くは彼の統治に従っている。しかし、表向きの安定の裏には“冷酷王”の徹底した粛清を快く思わない勢力も存在した。
王宮の広大な回廊を静かに歩む一人の宰相――マグナスは、その波紋を誰よりも鋭く察していた。彼はルシウスにとって数少ない腹心であり、幼い頃から王家に仕えてきた古参でもある。
薄いグレーの髪と白皙の肌を持ち、細身ながら知性がにじむ眼差しをしている。王宮に仕える多くの者は、この宰相マグナスを“冷酷王の右腕”と呼んでいるが、実際には彼もまた淡々と国政を進めているだけだった。
「陛下、先日の大公派閥との調整は滞りなく完了し、反対勢力は沈黙を保っております。ただ、一部の貴族が水面下で何かを画策しているとの噂があり、注意が必要かと……」
マグナスは王の執務室に入り、書類を整えながら報告する。
ルシウスは豪奢な椅子に腰掛け、机に両肘をついてじっと資料を読み込んでいた。漆黒の髪と青い瞳は、どこか冷たい光を宿しているが、その深い瞳は鋭い観察力を物語っている。
「構わん。反対勢力がひっそり息を潜めるのは、よくあることだ。あえて抑圧しすぎる必要はない。……それより、バラル伯の領地で起きた盗賊団制圧の件、どうなった?」
その問いに、マグナスは書類の一枚を取り出して答える。
「は。勅使が既にグレイフリートに赴き、“その人物”を王都へ招く手はずとなっております。恐らく、間もなくアルトラヴィスに到着するでしょう」
「そうか……」
ルシウスは小さく笑みを浮かべる。その笑みは、傍目には冷たく映るかもしれないが、マグナスはその変化を見逃さない。
「珍しいですね、陛下がここまで個人に執着を示されるのは」
「面白そうだと思っただけだ。メルガーデン王国の公爵令嬢が、追放されてこちらに来た。しかも、ただの亡命者ではなく、盗賊を一網打尽にするだけの知略を見せたという。――いったいどんな女なのか、見極める必要がある」
宰相は静かに頷く。確かに、ただ者ではない。メルガーデン王国の内情にも通じているかもしれないし、今後の外交にも利用できる可能性がある。何よりルシウス自身が興味を抱いたとなれば、国王として何らかの思惑があるのだろう。
「私が陛下のおそばで監視役を務めましょうか?」
「必要ない。しばらくは俺自身が話を聞く。――それにしても、何の罪で追放されたのか。いじめの冤罪とやらか? メルガーデン王太子も愚かしいな。むざむざ有能な駒を捨てるとは」
ルシウスの言葉には、嘲笑に近いものが混じる。彼は幼い頃から過酷な権力闘争の只中にあり、人材の価値を見極めることを学んできた。自らを裏切った者は粛清する一方で、優れた者には積極的に手を差し伸べる。
それが、今のルシタニアを急速に安定させた大きな要因の一つでもある。
「……では、その女が到着し次第、お声がけいたします」
「頼む。俺も忙しい身だからな、あまり待たせるのは本意ではない。存分に話をしてみたいものだ」
そう言い残し、ルシウスは再び資料に目を落とす。その眼光は冷ややかでありながら、どこか期待に満ちているようでもあった。
5.初めての王都――混迷の始まり
それから数日の道中を経て、エヴァンジェリカたち勅使一行はようやくルシタニアの王都アルトラヴィスに到着した。
グレイフリートとは比べものにならない規模の城壁と、石造りの壮大な門。近づくにつれて見えてくる高層の建物や活気ある市街地の様子は、彼女の想像をはるかに超えていた。
「すごい……」
思わず馬車の窓を開けて身を乗り出し、エヴァンジェリカは息を呑む。華やかな店が立ち並び、人々が行き交う大通りには行商人や旅人だけでなく、貴族らしき衣服を着た者もいる。四方から聞こえる喧噪や異国の香辛料の匂いは、まさに大都市の賑わいを物語っていた。
「ん? 初めての王都か?」
馬車に同乗している騎士が、少しおかしそうに声をかける。
「はい……あまりにも広くて、驚きました。メルガーデンの王都とは、だいぶ雰囲気が違うんですね」
「そうだろうな。ここアルトラヴィスは商業も盛んだし、人種も多様だ。まあ、今は陛下の治世で安定しているから、余所からの移住者も多いんだよ」
騎士は得意げに語る。エヴァンジェリカは胸の奥に複雑な思いを抱きながらも、窓の外に目をやった。ふと、遠方にそびえる白亜の城――ルシタニア王宮の尖塔が、視界に入る。
これからあそこへ行き、“冷酷王”ルシウスのもとへ通されるのだ。いったい、どんな言葉をかけられるのか。彼女の運命はどこへ向かうのか。まるで胸が締めつけられるような緊張を感じる。
(落ち着いて……自分のできることをすればいい。下手な嘘や虚勢は通用しないでしょうし、正直に、そして堂々と振る舞うしかないわ)
長い城下町を抜け、いよいよ王宮の門へと近づく。騎士たちが検問所で書類を見せると、衛兵は敬礼を持って門を開く。重々しく開かれた扉の向こうに広がるのは、手入れの行き届いた芝生と噴水、そして遠くに構える雄大な宮殿の姿だった。
やがて馬車が止まり、勅使の一行が下車する。エヴァンジェリカもぎこちなく外に出て、白亜の石畳に足をつける。そこへ一人の侍従らしき男性が姿を現し、一礼した。
「皆様、お疲れ様でございます。国王陛下は本日、早速お会いになると仰っております。どうぞ館内へお入りください」
想像よりも早い展開だが、それだけルシウス王が“急いでいる”ということなのかもしれない。エヴァンジェリカは心を落ち着かせるために深呼吸をし、侍従の後を追った。
(……逃げ場なんて、もうどこにもない。ここまで来たんだから、腹をくくるしかないわ)
王宮の回廊は、芸術品のように美しい彫刻や壁画で飾られ、床には豪華なタイルが敷き詰められていた。メルガーデンの宮殿も貴族的な優雅さを誇っていたが、こちらはより実用的かつ威圧的にすら感じられる。
大きな扉が開かれ、エヴァンジェリカは広々とした謁見の間へと通される。椅子に腰掛けている人物――漆黒の髪と青い瞳を持つ若き王が、冷やかな視線を向けていた。
「……お初にお目にかかります、ルシウス陛下」
彼女は低く頭を垂れる。王の近くには宰相マグナスらしき男が控えており、そのほかにも数人の高位貴族が立ち会っている。張り詰めた沈黙が空気を包む。
(まるで、裁かれている気分ね……)
エヴァンジェリカは息苦しさを覚えながらも、必死に耐えた。すると、やがてルシウスが静かに口を開く。
「メルガーデン王国の公爵令嬢、エヴァンジェリカ・セロン……お前が、我が国境を荒らしていた盗賊団を仕留めるための策を立てたというのか」
その声は低く、威厳がある。生半可な返事では許されないという圧力がひしひしと伝わる。エヴァンジェリカは震えそうになる声をこらえ、懸命に応える。
「はい。私は、バラル伯の依頼を受け、兵たちと共に作戦を立案し、実行しました。私一人の力ではありませんが、結果として盗賊団を掃討することができました」
「ふむ……」
ルシウスは頷き、そばに控えていた宰相と視線を交わす。マグナスがメモを取りながら、落ち着いた声で補足を入れる。
「事前に得た報告と相違ございません。バラル伯は当初、自分の手柄として報告しておりましたが、兵士たちの証言などからエヴァンジェリカ殿の関与が明らかとなり、陛下が直々にお呼びした次第です」
場が再び静まる。ルシウスの目が、まるで獲物を狙う獅子のようにエヴァンジェリカを射抜いている。
やがて、彼は言葉少なに告げた。
「――ここまでの貢献、見事だ。話を聞いた限りでは、なかなかの才覚と度胸を持ち合わせているようだな」
「恐れ多いお言葉です……」
エヴァンジェリカは深く頭を下げる。すると、ルシウスがさらに続ける。
「ならば、お前にもう一つ試練を与えよう。――我がルシタニア王国は、今後さらなる外征と国内の再編を推し進める。お前は“参謀”として、私の下で働いてみる気はあるか?」
「え……」
参謀――? エヴァンジェリカは一瞬、自分の耳を疑う。王太子妃でも侍女でもなく、ましてや飾りでもない。ルシウスは彼女を“実務”に携わらせるつもりなのだろうか。
周囲の貴族たちがどよめく。中には「追放者をそんな要職に?」と疑念の声を上げる者もいる。だが、ルシウスは全く意に介さず続けた。
「もちろん、断ってもいい。だが、その場合は私の許しなくルシタニアに滞在することは認められないだろう。――さあ、どうする?」
まるで凍りついたように、エヴァンジェリカの思考が一瞬止まる。けれど、彼女はすぐに冷静さを取り戻した。この国で生きていくなら、ルシウスの庇護を得るのが何より確実な道だ。
メルガーデンを追われた今、貴族として華やかな地位を望んでいるわけではない。だが、己の知識と才覚を生かす場所があるなら、それこそが自分を救う唯一の方法かもしれない。
「……お受けいたします。わたくしの力でよければ、ぜひお役に立たせてください」
強い決意を込めてそう答えた瞬間、ルシウスがわずかに唇を上げて笑んだ。その笑みは冷徹でありながら、何か底知れぬ感情を孕んでいるようにも見える。
「いいだろう。――ならば、今日からお前は“私の参謀見習い”だ。しばし離宮に滞在し、国政や軍備の動きを把握してもらう。宰相、手続きを頼む」
「かしこまりました」
宰相マグナスが淡々と頷き、エヴァンジェリカの方を向く。その面差しには、どこか丁重な敬意が滲んでいた。
「エヴァンジェリカ殿、こちらへ。お部屋と必要なものを手配いたしましょう。今後は、正式にルシタニア王宮の一員としてお仕えいただく形となります」
突然の大抜擢。追放者から一転、王の“参謀見習い”としての地位。周囲の貴族が皆、一様に驚きや嫉妬を露わにしているのがわかる。
(こんな急展開……でも、やるしかないわ。私が築けなかったものを、ここで手にできるのなら……!)
エヴァンジェリカは自分の胸に湧き上がる昂揚感を必死に抑えながら、深々と頭を下げる。こうして彼女は、冷酷王ルシウスのもとで新たな試練に立ち向かうことになるのだ。
――王太子に捨てられ、公爵家にも見放された娘。だが、その才覚を手放しで喜ぶかどうかは、まだわからない。ルシウスが求めるのは“成果”であり、“結果”だけだ。もしエヴァンジェリカが期待外れと判断されれば、再び放り出されるかもしれない。
それでも、今の彼女には“ここ”しか居場所はない。王宮の廊下を進む足取りは重くもあり、希望に満ちてもいる。明日からどんな試練が降りかかろうとも、絶対に挫けるわけにはいかないのだ。
エピローグ――始動する新たな運命
こうして、エヴァンジェリカはルシタニア王宮に身を置き、“冷酷王”ルシウスの下で参謀見習いとなった。
まだ彼女は知らない――この決断こそが、後に「ルシタニア王国の危機を救う英雄譚」へと繋がる一歩であることを。
メルガーデン王国で味わった屈辱と孤独、そして復讐心にも似た怒りは、彼女の胸の奥底で静かに燃え続けている。いつか真実を証明し、己を追放した王太子と聖女フローラに、必ずや“ざまあみろ”と言わしめてやりたい。
しかしその先には、想像を絶する試練と、思いもしなかった“愛”が待ち受けることになるだろう。冷酷王ルシウスが見せる“特別な関心”の正体を、エヴァンジェリカはまだ把握できていないのだから。
――嵐の予感を孕んだ大国ルシタニアで、エヴァンジェリカの運命は大きく動き始める。
国の内外に渦巻く陰謀、政争、そして戦火の影。彼女はその中心で知略を巡らせ、時に傷つきながらも、着実に地歩を固めていくのだ。
やがて、“追放された公爵令嬢”は国を救う才女として、その名を高らかに轟かせることになる。だが、それはまだ少し先の物語――。
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