愛のない結婚のはずでしたのに、気づけば独占溺愛されていました

しおしお

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第3章 裏切り者たちと、ざまあの報い

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3-1 王宮内でリヴィアへの嫌がらせが露骨になる

 

王都へ戻った翌朝――。
王宮の瑠璃の回廊は、朝日に滲む薄桃色の光を映しながらも、ほの暗いざわめきを孕んでいた。
リヴィアはクラリスと侍女二名を伴い、王妃翼から政庁棟へ向かう。今日は慈善舞踏会の寄付目録に署名するだけの、短い公務のはずだった。

 

しかし回廊を半ば進んだところで、突如、天井高く吊られた花籠が――

 

  ガサッ

 

鈍い音とともに落ち、リヴィアの髪へ乾いた花屑が降り注いだ。
散ったのは赤薔薇と白百合を干からびさせた装飾花。美しいはずの花弁は色を失い、灰のように肩を汚す。

 

「妃殿下!」
クラリスの低い声が反響し、護衛が駆け寄る。
天井の滑車を点検すると、縄が鋭い刃物で切り落とされていた痕が見つかった。

 

(……偶然、ではない)

 

胸に浮かんだ確信を隠し、リヴィアはドレスの裾を払った。
花粉で淡青の生地が薄く茶色に染まるが、顔には微笑を保つ。
侍女の一人、若いフェリシアが素早く布を差し出しながら囁く。

 

「本当に申し訳ありません! 掃除係が片付け忘れたせいで――」
「忘れた? 縄を『切り忘れた』者などいないでしょう」

 

クラリスの鋭い声が低く落ちる。フェリシアは肩を震わせ視線を逸らした。

 

* * *

 

政庁棟の署名室――。
リヴィアは寄付帳へ名前を書き終え、ペンを置く。その瞬間、机上のインク壺が横から弾かれるように倒れ、漆黒の液が帳面に奔った。

 

「まあ、大変!」
「侍女がまた粗相を……」
周囲に居合わせた文官たちが声を潜め、無表情の裏でほくそ笑む気配を隠し切れない。

 

インクをこぼした張本人は、王太子付き書記官の補助役だという若い男だった。謝罪を口にしながら、視線はリヴィアではなく、背後の文官へ泳いでいる。

 

(意図的な失点。矛先は私――しかし誰かの命令)

 

リヴィアは静かに立ち上がり、濡れた帳面を閉じた。
すると扉の外で控えていた近衛隊長が現れ、倒れた書記補佐を無言で拘束する。
灰色の制服越しに見える双頭鷲の徽章が、神経質なざわめきを鎮めた。

 

「殿下の勅命により、妃殿下への妨害行為は一切取り締まる。公務中の破損は背後関係を含め監査室で糾明する」

 

不意打ちの宣告に、文官たちの顔色が変わる。
その場を支配したのは、影の王太子――リヴィアを守るという彼の宣言の“重さ”だった。

 

* * *

 

昼食のため王妃翼へ戻ると、廊下に立つ侍女見習いたちがわざとらしく会釈しつつ小声で囁く。

 

「妃殿下は“契約妻”ですって」
「でも殿下は心底ご執心らしいわ。お情けで守られるなんて滑稽よね」
「王子の気が変わっても、もう後妻は無理。哀れな飾り人形――」

 

一語一句が硝子の破片のように突き刺さる。しかしリヴィアは足を止めず、視線すら与えなかった。
むしろ胸奥で、冷たい水面に落ちた雫の波紋が静かに広がる。

 

(哀れなのは、彼女たちの習わし。
 侮辱でしか己を飾れぬなら、いずれ自分の汚泥に沈むわ)

 

扉を閉めた瞬間、クラリスが深く息を吐く。
「これ以上は黙過できません。殿下へ報告を――」
「いいえ、まだ待って」
「待つ、と……?」
「侮辱は“証”になる。彼らが自ら網を編むのを見届けましょう」

 

リヴィアの声音は静かだったが、湖底の石より固い決意があった。

 

* * *

 

その夜――。
王太子からの晩餐招待を辞退し、書庫で一人読書するリヴィアのもとへ、クラリスが血相を変えて駆け込んだ。

「妃殿下、厨房で使用人が倒れました! 原因は食器に塗られた緑錆。毒性は弱いが皮膚炎を起こす――」

「緑錆? 私の昼食皿と同じ金線細工の――」

 嫌がらせはエスカレートしている。標的はリヴィアと分かるが、無関係の使用人まで巻き込む狂気は看過できない。
 リヴィアは書を閉じ、立ち上がった。

「クラリス、侍医と監査室へ報告を。証拠は保存させて」

「承知しました。しかし殿下には?」

「殿下には……朝まで知らせないわ。私自身が経緯を整理してから」

 クラリスは逡巡したが、主の瞳に揺るぎない意志を読み取り、深く膝を折った。

* * *

 

深夜――翡翠翼の自室。
リヴィアは机上に事件の経緯を時系列で綴り、背後勢力の推測を列挙していた。
そこへ低いノック音。

「……リヴィア、起きているか」

 エルクレインだった。
 彼女は慌てて書簡を裏返すと扉を開ける。
 王太子は薄装束のまま、眉に憂色を宿していた。

「緑錆の件を聞いた。君が傷つかなかったのは幸運に過ぎない。私は――怒りで眠れなかった」

 拳を握り締める彼に、リヴィアは首を横に振った。

「殿下。怒りは刃です。振るう前に“証”を磨きましょう。犯人を捕えても、背後を潰さなければ同じ事が繰り返されます」

 王太子はしばらく沈黙し、やがて息を吐いた。

「分かった。君のやり方に従おう。ただし私も一緒だ。――お前だけは、手放したくないのだから」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で燃える灯が強く脈打つのを感じた。
 嫌がらせは闇。だがその闇を照らす光は、契約を超えて自分たちを結び始めている。

 リヴィアは机上の書簡を彼に差し出した。

「では殿下、共に闇を暴きましょう。私の“証”を――あなたの剣で」

 灰青の瞳が燃え、二人の視線が重なる。
 夜はまだ長い。だがこの瞬間から、王太子夫妻は共闘を誓った。
 裏切り者たちへ向け、静かな“ざまあ”の序曲が鳴り始める。

 

3-2 陰謀を仕掛けた侍女長と貴族令嬢、バレて処罰

 

翌朝、王宮東棟の〈鏡の間〉。
床を磨き抜いた黒大理石には重厚な金の装飾が映り込み、壁一面の巨大鏡が光を乱反射させている。
ふだんは舞踏会のために使われるこの広間に、今日だけは侍従を含む監査室要員、近衛、文官、そして数名の貴族令嬢と侍女たちが呼び集められていた。
尋問――より正確には“公開糾弾”を行うためだ。

 

壇上で議事を司るのは王太子エルクレイン。
その隣には臨時の補佐としてリヴィアが立ち、背後でクラリスが控える。
扉が重く閉ざされると、近衛隊長が声を張り上げた。

 

「被疑者、侍女長補佐カミラ=セルヴァーノ、および侯爵令嬢レテシア=アルモローザを前へ!」

 

二人は鎖こそ着けられていないが、逃亡を防ぐため腕に魔封じの銀輪をはめられていた。
レテシアは昨日までの優雅な笑みを失い、顔面を蒼白にしている。
カミラは頬を引きつらせながらも懸命に背筋を伸ばし、薄い唇をかみしめた。

 

◆ ◆ ◆

 

「まずは証拠を示す」

 

王太子の声は静かで、しかし冷鋼(れいこう)の刃のように硬い。
近衛が机へ並べたのは、毒性緑錆が塗られた金線皿の欠片、天井花籠を切断した刃と一致する小刀、そしてレテシアの控室で見つかった複数の手紙だ。

 

──用意した毒草はそちらで粉に。
──“白い結婚”の令嬢に恥を。
──殿下が慰みに過ぎぬ妃を捨て、貴女へ心を寄せるよう導きたし。

 

手紙にはカミラの署名と、レテシアの返礼が交互に記されていた。
互いに筆跡を誤魔化す気配もなく、共犯を示す動かぬ証拠だ。

 

◆ ◆ ◆

 

「弁明はあるか」

王太子が問うと、レテシアが泣きそうな声で叫んだ。

 

「私は知らなかったの! 全部カミラが――」

「違います、レテシア様こそが首謀者で――」

 

二人の言い訳が交錯し、広間に不協和音が響く。
やがて監査室長が淡々と読み上げた。

 

「王太子妃殿下襲撃を計画した証書、及び毒物所持の自白は筆跡鑑定済み。首謀は両名。侍女長補佐カミラは前侍女長フィオレンツァの姪。解雇後の復職を条件に、レテシア嬢を唆(そそのか)したと判明」

 

静寂が落ちる。
レテシアは泣き崩れ、カミラは膝を折って床を叩いた。

 

◆ ◆ ◆

 

リヴィアは壇上から二人を見下ろした。
胸の奥に、怒りよりも深い哀れみが湧く。
――栄達を焦り、他人を貶めてまで王太子の寵を奪おうとした愚かさ。
だが哀れみは同情ではない。
彼女はゆっくり前へ出て、よく通る声で語りかけた。

 

「王太子殿下に愛されたくて焦るお気持ちは理解できます。けれど、私の命や侍女たちの健康を代償にする愛など、殿下が望むと思いましたか?」

 

レテシアは顔を上げられず、喉の奥で嗚咽を漏らした。
カミラは牙を剥(む)いたような目で睨み返すが、王太子と目が合った瞬間、その光は粉々に砕けた。

 

エルクレインは椅子から静かに立ち上がった。
隠しようのない怒気を抑え込みながら、背筋をまっすぐ伸ばす。

 

「妃殿下への害意は、王家への叛逆とみなす。
 カミラ=セルヴァーノを王宮侍籍より除名し、三日以内に領外追放。
 レテシア=アルモローザを一年間の禁錮および侯爵家爵位継承権の停止、侯爵家には五万リューグの罰金。
 ――異議は?」

 

鏡の間に集う文官・貴族は誰一人声を上げなかった。
二人を捕縛し連行する近衛の足音だけが、煌(きら)びやかな広間に虚しく響く。

 

◆ ◆ ◆

 

人々が去り、広間に残ったのは王太子とリヴィア、そしてクラリスのみ。
天井の鏡が二人を重ね合わせ、あたかも祝福の光輪で包むように見えた。
リヴィアは深く息を吐き、肩の力を緩める。

 

「……終わりましたね、殿下」
「君のおかげだ。証を集め、背後を断ち切った」

 

王太子はリヴィアの手を取り、掌にそっと口づけた。
その瞬間、彼女の頬に淡い朱が射す。
だが照れよりも先に、胸にこみ上げてくるものがあった。

 

(私を必要だと言ってくれた。今度は私が殿下の――)

 

胸に芽生えた決意を言葉にする前に、静かな拍手が響いた。
暗がりから現れたのは、第三王子ユリウスとその側近数名。
優美な笑みを浮かべるユリウスは、兄の怒りがまだ完全に収まっていないことなど意にも介さぬ様子で歩み寄る。

 

「さすが兄上。鮮やかな手際だ。……けれど“白い結婚”の妃殿下が、いつの間にこれほど信頼を得たのか。興味深いね」

 

その声色には揶揄が混ざる。
王太子の眉がわずかに動いた。
リヴィアは一歩前に出て、静かに挨拶を返す。

 

「殿下の信頼に見合う人間になるには、まだ努力が足りませんわ。ですが少なくとも、王家を脅かす陰謀からは殿下を守れると証明できたかと存じます」

 

ユリウスは瞬きをし、やがて朗らかに笑った。
「確かに……これは面白くなってきた」
その言葉の裏に潜む何かを感じ、王太子が軽く肩を張る。
リヴィアは彼の袖口をそっとつまんだ。無言のうちに、次なる波が来ても共に対峙するという意志を伝えるために。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜。
翡翠翼のバルコニーで、リヴィアは久々に深呼吸をした。
王太子は彼女の隣に寄り添い、星明りを受けながら呟く。

 

「今日は、君の強さに救われた」
「私こそ。殿下の覚悟がなければ、証は無力でした」
「……いつか契約書を焼き捨てたい。紙に書かれた『白い結婚』ではなく、心に書く真の誓約を」

 

囁きは甘く、湖面で揺らぐ星の群れのように澄んでいた。
リヴィアは胸の奥で応える。その誓いを受け入れる日は、遠くない。
侍女長と貴族令嬢のざまあは、王宮に警告を与えるだけでなく、二人の絆をさらに強く結び直す――そんな予感が、夏の夜風の匂いと共に漂っていた。

 



3-3 “白い結婚”に乗じて玉の輿を狙った女たちの末路

 

王太子妃いじめの黒幕が捕縛された翌週――。
王宮では、社交界の若い令嬢たちが“白い結婚”の残骸を漁るかのように、不穏な動きを見せていた。

 

「リヴィア妃殿下は所詮〈契約妻〉よ」
「王太子殿下のご寵愛? 気まぐれでしょう?」
「“次”の座を狙うなら今しかないわ」

 

そんな囁きが昼餐会の裏で飛び交い、密談の火種は瞬く間に燃え広がる。
首謀者は三人。侯爵家の双子姉妹エルザとイレーネ、そして公爵令嬢で王族遠縁を自称するセシリアだ。
彼女たちは“妃の座”をくじ引きの景品か何かと勘違いし、王太子の気を惹くため互いに謀を重ねる。

 

◆ ◆ ◆

 

ある午後、翡翠翼の前庭。
リヴィア宛てに「茶会へぜひ」と書かれた手紙が届き、侍女が設えた白張りの天幕へ案内された。
そこには艶やかなドレスの三人が並び、笑顔で迎える。

 

「妃殿下、“お疲れでしょう”と思い、癒やしの香茶をご用意しましたの」

エルザが出した薔薇茶には、微量ながら眠気と眩暈を誘う“月影草”が混ぜ込まれていた。
だがリヴィアは笑みを崩さない。
机上の茶器をそっと回して自分の杯とエルザの杯を入れ替えると、涼しい声で言った。

 

「香りを楽しまれた方が良いでしょう。――さあ、どうぞ」

エルザが蒼白になる。その隣でイレーネは、あわてて別の菓子皿を差し出した。
だが菓子の底に忍ばせたのも同じ月影草。
イレーネは不自然に震える姉を見て失策を悟り、手を払った拍子に毒入り菓子が自分のドレスを汚す。
そこへ待っていたように近衛が現れ、証拠品を押収。 

 

◆ ◆ ◆

 

茶会は中断。
リヴィアは侍女の手を借りて庭奥の温室へ案内する。
薄紫の藤が香る温室には、王太子エルクレインと監査室書記官が静かに立っていた。

 

「君たちの細工は、すでに従者が把握している」
王太子の声は冷たい湖面のように静まり返り、三人の肩が震える。

 

「王太子妃殿下を失脚させようとした罪、ならびに毒草所持。
 ――アルモローザ侯爵家にも連座罰。公爵令嬢セシリアは爵位降格のうえ王都追放」

 

なおも口を開き抗弁しようとした三人だが、毒入り菓子の匂いで顔色が悪いエルザが先に崩れ落ちる。
毒性は弱いとはいえ、慣れぬ薬草を扱った報いだった。

 

◆ ◆ ◆

 

夕焼けが回廊を染める頃。
粛々と連行される三人の背を見送りながら、リヴィアは胸に去来する思いを噛み締める。
侍女のフェリシアがそっと寄り添った。

 

「殿下のお心はもう、妃殿下にしかありませんのに。なぜ皆さまお気づきにならないのかしら」
「見たいものだけを見ると、真実は見えなくなるのよ」

 

リヴィアは穏やかに答えたが、その瞳には決意の光が宿っている。
自分が立つべき場所、守るべき人――それはもう、揺るぎない。

 

◆ ◆ ◆

 

夜。
翡翠翼のバルコニーに出ると、王太子が星空を仰いでいた。
リヴィアが近づくと、彼はすぐ振り返り、柔らかな声で問う。

 

「心が痛まなかったか?」
「ええ……少し痛みました。でも“ざまあ”は自業自得に過ぎませんわ」

 

王太子の手がそっとリヴィアの髪を撫で、額へ口づけが落ちる。
その温度は昨日よりも近く、確かで、甘い。

 

「君が傷つく前に終わって良かった。――お前だけは、決して手放さない」

リヴィアは頬を染めながらも、はっきりと頷いた。
遠くの夜空で流れ星が走り、二人の影が重なり合う。

裏切り者たちが自滅し、残ったのは揺るぎない信頼の芽。
それは静かに、しかし着実に“白い結婚”という名の檻を壊しつつあった。

 


3-4 リヴィアを守るため、王太子が本気を出す

 

 王宮の大評議室──そこは、王と枢密顧問たちが国政を定める最奥の場所だ。
 六月半ばの午後、緋色の絨毯を敷いた半円形の議場には、異様な緊張が漂っていた。
 議題は「王太子妃襲撃未遂事件の背後勢力について」。
 玉座の脇に侍立する王太子エルクレインの横顔は、磨き抜いた刃金のように硬い。

 

 顧問長老が卓を叩く。
「王太子殿下。毒草は侍女長一派と一部令嬢の独断という調書でございます。これ以上の追及は、貴族派全体を刺激する懸念が──」

 言外に「事を荒立てるな」と求める老臣の声。
 しかしエルクレインは一歩前へ出た。

 

「──殿下?」

 王の問い掛けに応じるより早く、王太子は剣を抜いた。
 抜刀と言っても、穂先を誰へも向けない。
 銀光が天井のステンドグラスを受け、七色の屈折を床に落とすと、彼は静かに膝を折り、刃を掌にあてた。

 

 ざわめき。
 その中で、薄く流れ出た血は鏡のように赤い。

 

「この血は、王家の未来と妃への誓いに差し出すものだ。
 ──妻を狙う陰謀を見逃すなら、王冠は不要。
 いかなる派閥であろうと、二度と手を伸ばさせぬ」

 

 刹那、空気が凍った。
 老臣たちは言葉を失い、国王は眉をわずかに上げる。
 だが長い沈黙ののち、玉座から短い言葉が落ちた。

 

「よい。王太子の求めに従い、〈護宸(ごしん)特命監〉を再設置しろ。
 王太子妃殿下に対する一切の妨害は、王家に対する反逆とみなす」

 

◆ ◆ ◆

 

 その夜──。
 王宮の裏庭では、月下のパーティーが催されていた。
 先王の誕辰を祝う恒例の小規模舞踏会。
 だが密かに集められた情報では、妃殿下のワインに強い幻惑薬が混入される恐れがあるという。

 

 楽団が低く序曲を奏でる。
 彩色ランタンが揺れる中、リヴィアは王太子の腕を取り、芝生に敷かれた舞踏用タイルに立った。

 

「大丈夫。近衛を四重に配置した。暗殺者が紛れ込む余地はない」
 エルクレインの囁きは穏やかだったが、瞳の奥で焔が揺れている。
 踊り始めた直後──

 

 シュッ。
 低い風切り音とともに、白磁の給仕皿が飛んだ。
 皿の縁に塗られていたのは、劇薬「星狐の灰」。
 飛翔の軌跡はリヴィアの背へ。

 

 刹那、剣閃。
 エルクレインが左手のみで鍔を押し開き、半歩で踏み込みざま水平に斬り払った。
 砕けた皿片が月光を浴び、銀雨となって芝に散る。

 

「敵襲──っ!」
 近衛隊長の叫びを合図に、闇から黒装束数名が飛び出した。
 だが四重の護衛網は瞬時に閉じ、逃げ道を断つ。
 短剣を抜いた刺客は王太子へ突進するが、二合も刃を合わせぬうちに膝をついた。
 王太子は刃の平で相手の手首を打ち、逆手に取って跳ね上げる。
 叫びとともに短剣が宙を舞い、砂利に突き刺さった。

 

「ここは、私の“王国”だ。──妃に触れる資格は誰にもない」

 低い声が夜気を震わせ、刺客全員が制圧される。
 その間、リヴィアは騎士の盾に守られ、一歩たりとも下がらぬまま夫の背を見つめていた。
 血を見るには至らなかったが、剣戟の火花は星より鋭い。

 

◆ ◆ ◆

 

 ほどなくして刺客の身元が判明する。
 後ろ盾は、前宰相派閥の有力伯爵エンリオ。
 評議室で王太子の強硬姿勢を嫌い、妃を人質に揺さぶろうとしたのだ。

 

 だが翌朝には勅令が下る。
 エンリオ伯の爵位と領地の一部没収。
 刺客は叛逆罪で終身幽閉。
 従属していた小伯爵家も連鎖的に罰金と官位剥奪。

 処罰の速さは稲妻のようで、王宮は震え上がった。

 

◆ ◆ ◆

 

 夜の静けさが戻ったバルコニー。
 エルクレインは剣を納めた手でリヴィアの肩を抱く。
 彼女の頬に髪のほつれを払いながら、深く息をついた。

 

「怖かったか?」
「いいえ。殿下の背中があったから、少しも」
 リヴィアは静かに首を振る。
 恐怖よりも、圧倒的な安堵と誇りが胸を満たしていた。
 自分を守るために、王子は剣を抜く覚悟を示した──それがただ嬉しかった。

 

 王太子はそっと額を寄せる。
「立場も剣も、全部君の盾になる。その代わり──」
「代わり?」
「君の声を私の剣に。私が過ちそうになったら、正してくれ」

 リヴィアは微笑み、彼の胸元で囁く。
「誓います、殿下。私は剣の鞘(さや)……剣が迷わぬよう、常に声を届けますわ」

 

 星と湖のきらめきが、二人の影を包む。
 “白い結婚”と呼ばれた紙切れは、もはや燃えかすほどに脆い。
 エルクレインが示した〈本気〉は、王宮の秩序すら塗り替える炎となり、
 リヴィアはその中心で凛と立つ花となった。

 
3-5 リヴィア、初めて王太子に本心を見せる

 

護宸特命監の設置と叛逆伯爵の失脚から一夜。
翡翠翼の深奥――晩春の夜気を閉じ込めた小さなオレンジ温室に、淡く灯るランタンが揺れていた。
静寂を破るのは水滴が鉢を叩く音と、二人分の呼吸だけ。

 

「殿下、今宵は星も隠れましたわね」
リヴィアは薄手のショールを胸もとで閉じ、白い息を吐く。
それは安堵の吐息でもあった。
昨夜、剣を抜いて自分を庇った王太子の姿が脳裏に焼き付き、興奮が残って眠れなかったのだ。

 

エルクレインは植え込みの間をゆっくり歩み、揺れる花弁を指先でそっと整えた。
「雲がかすめただけさ。すぐ晴れる」
「いずれ晴れる空――それを信じられるのは、殿下のおかげでしょう」

 

王太子が振り向く。灰青の瞳がランタンの明かりを映し込み、星空よりも深く瞬く。
「君が信じてくれたから、私は剣を抜けた」
「いいえ。私が信じるより先に、殿下が私を――守る価値があると証明してくださった」

声が震えた。
胸の奥で、感情の堰がほろほろ崩れていく音がする。
それは恐怖でも緊張でもない。“幸福が怖い”という稚い怯えだった。

 

「リヴィア」
王太子は距離を詰め、彼女の前で膝を折った。
そして腰の小鞘(しょうさや)から一枚の羊皮紙を取り出し、両手で差し出す。
──『白い結婚協約書』。
すでに封蝋は剥がれ、殿下の署名欄が丁寧に切り取られている。

 

「君が望むなら、私の名をもう一度ここへ書き足す。
 “愛情は不要”ではなく、“たとえすべてを失っても君を守る”と。
 だから――本心を聞かせてくれないか」

諳誦(あんしょう)のように穏やかな声。
リヴィアは紙を受け取り、細い肩を小さく震わせた。
涙が零れるのを、止められなかった。

 

(本心……それは、契約がある限り言ってはいけないと思っていた言葉)

 

指先が紙をたわませ、やがて膝へ落とす。
一歩踏み出し、しゃがむ王太子の頬にそっと両手を添える。
薄闇の中で瞳を合わせ、確かめるように口を開いた。

 

「私は……怖かったのです。
 “愛されない”と決めつければ、傷つかなくて済むと思っていた。
 けれど殿下が命を懸けて守ってくださった瞬間、
 その考えは臆病だったと理解しました。
 もう逃げませんわ。
 殿下をお慕いしています。
 妻として、王太子としての器を越えて、一人の人として――心から」

 

闇がしんと沈む。
王太子の瞳が揺れ、息が絡む距離で熱を帯びる。
「……聞けて、嬉しい」
震える呟き。すぐに強い腕が背を抱き寄せ、胸板へ引き寄せられた。
リヴィアは頬を濡らしながら微笑む。泣き顔を見せるのは貴族令嬢として失態だ。だが今は、夫に甘える一人の女性でいた。

 

「涙は星より綺麗だ。……なのに君は星を羨むのか」
「違いますわ。星よりも眩しい方が、すぐそばにいるから」

王太子が短く笑い、額を重ねる。
唇がそっと触れた。
それは契約の証でも義務でもない、互いの意思で交わす最初の“夫婦の口づけ”。
甘い息を分け合ううち、遠くで雲が割れ、わずかな星が姿を現した。

 

◆ ◆ ◆

 

やがて熱が収まると、王太子は懐から羊皮紙と小瓶の蝋を取り出した。
「契約は新しく書き換えよう。今度は誓いの条文を自分たちで」
「ええ。まず条件を一つ――“互いを裏切らない”」
「二つ、“互いの弱さを恥じない”」
「三つ、“毎晩おやすみの口づけを”」
「四つ、“朝は必ず同じ卓で朝食を”」
「五つ、これは私から。“白い結婚”ではなく“永遠の結婚”と呼ぶこと」

羊皮紙には二人のペンが交互に走り、小さな誓約が積み重なる。
最後に王太子が封蝋を温め、双頭鷲の印章を押した。
その紋章は紅ではなく、温室のオレンジを映した黄金色に輝いて見えた。

 

◆ ◆ ◆

 

温室を出ると、翡翠翼への渡り廊下に朝の気配が差し始めていた。
リヴィアは寄り添う腕を握りながら、ふと振り返る。
闇の中にあった恐怖と不安は、背後の温室に置いてきた。
前へ進む道が眩しくても、隣に差し出された手を掴めばいい。
そう気づかせてくれた王太子の横顔が、夜明けの光を浴びて静かに微笑む。

 

「おはよう、リヴィア」
「おはようございます、エルクレイン様」

二人は歩き出す。同じ歩幅で、同じ未来へ。
それは“白い結婚”の終わりと、真実の物語の始まりを告げる夜明けだった。

 

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