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第1話 伝説級ポンコツ令嬢、誕生
しおりを挟むクラリッサ・フォン・ローゼンベルクは、公爵家の令嬢でありながら、誰もが認める「伝説級のポンコツ」だった。
朝の光が差し込む公爵邸の自室。クラリッサは鏡台の前に座り、いつものように髪を梳こうとブラシを手に取った。
「ふぅ……今日こそはきちんと整えましょう」
そう呟いて、力を込めて髪を梳く。
しかし、ブラシが通るたびに髪はふくらみ、広がり、まるで反抗する生き物のように跳ね上がっていく。
アホ毛が一本、二本……三本、四本と次々に立ち上がり、天を突く。
「えっ? なんで……どうして……?」
慌ててもう一度梳く。すると今度はアホ毛が五本、六本と増殖し、頭全体がまるで爆発したかのように乱れる。
「も、もういいですわ……」
とうとうクラリッサは肩を落とし、ブラシを放り投げた。
鏡に映るのは、寝癖だらけの髪と、すりガラスのような分厚い眼鏡をかけた、完全に諦めきった顔の令嬢。
最後のとどめを刺すように、頂点のアホ毛が勝ち誇ったようにぴょんと揺れている。
そこへ、控えめにノックする音がした。
「お嬢様、お茶が入りましたわ」
扉を開けて入ってきたのは、忠実なメイドのソフィアだった。
黒髪をきっちりとまとめ、完璧なメイド服を着こなした彼女は、クラリッサとは対照的に優雅で落ち着いている。
「ありがとう、ソフィア」
クラリッサは眼鏡をずり上げながら、ソフィアが持ってきたティーセットを受け取った。
二人は窓辺の小さなテーブルに向かい合い、紅茶を注ぐ。
クラリッサがカップを傾けた瞬間――
「あっ、つっ!」
熱い紅茶を少し傾けすぎて、舌先を火傷してしまった。
慌ててカップを戻すと、ソフィアは慣れた様子でナプキンを差し出す。
「お嬢様は本当に……。お気をつけくださいませ」
「ご、ごめんなさい……」
叱るというより、半ば諦めたような調子。
それでもソフィアはさらりと言う。
「私が、ふぅふぅして冷まして差し上げましょうか?」
「ソフィア! 子供じゃありませんわ!」
クラリッサは顔を真っ赤にして抗議するが、その様子はむしろ小さな子供の駄々にしか見えない。
ソフィアは肩をすくめて控えめに微笑んだ。
二人のやり取りはどこか温かく、親しみやすさすら感じさせる。
見ている者がいれば、きっとこう思っただろう。
――ああ、なんて仲の良い主従なのだろう、と。
しかし、ソフィアが紅茶を注ぎ足すために背を向けた瞬間――
彼女の口元に、ほんの一瞬だけ、冷たい光が浮かんだ。
それは、嘲笑のようにも見えた。
あるいは、愛らしいお嬢様の姿に、こぼれてしまった微笑みにも思える。
「……」
クラリッサがタオルで必死に髪を拭いている間、ソフィアはその笑みを見せまいと背を向けた。
誰も気づかぬはずのその表情は、後に数多の憶測を呼ぶことになる――。
クラリッサを見つめるソフィアの瞳に浮かぶ光。
それが意味するものは、嘲りか、それとも別の感情か……。
今は、まだ誰にも分からなかった。
その日の午後、クラリッサは庭園を散策することにした。
優雅に歩こうと心に決め、ドレスの裾を軽く持ち上げる。
ところが、庭園の石畳は平らなはずなのに――
「きゃあああっ!」
何もないところでつまずき、前のめりに転倒。
眼鏡が宙を舞い、アホ毛だらけの髪がばさっと広がる。
「また……また転びましたわ……」
慌てて立ち上がろうとした瞬間、裾を踏んで二度目の転倒。
床に突っ伏したまま、クラリッサはしばし呆然とした。
やがて、恐る恐る周囲をきょろきょろと見回す。
「……よ、よかった……誰も見てませんわね……」
胸をなで下ろしつつ、赤面しながら立ち上がる。
しかし恥ずかしさは消えず、まるで現場から逃げ出すように足早に歩き出した。
その途端――
「つ、つんのめっ!? お、おっとっと……!」
危うく三度目の転倒。両腕をばたばた振り回してなんとか踏みとどまる。
完全に間抜けな姿である。
クラリッサは再びきょろきょろと辺りを見回した。
……やはり、誰もいない。
「ふぅ……。し、慎重に……ですわ」
今度は妙にぎこちない速歩で、その場を立ち去った。
その夜、クラリッサは自室で本を読んでいた。
一冊を読み終え、次の本を手に取ろうと立ち上がった瞬間――
ミシリ、と嫌な音。
腐った床板が抜け、片足がすっぽりと沈み込んだ。
「……」
驚きが大きすぎて、言葉も出ない。
ただ呆然と穴に嵌った自分の足を見下ろし、しばし動けずにいる。
「……え?」
ようやく小さく声を漏らすと、遅れて慌てて足を引き抜こうとし始めた。
――この間の抜けた光景を知る者は、誰もいない。
こうして、クラリッサは毎日を失敗の連続で過ごしていた。
誰もが彼女を「ポンコツ令嬢」と呼び、笑いものにしていた。
しかし――
そのすべてが、彼女の仕組んだ「舞台」の一部であることを、知る者はまだいなかった。
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