『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第12話 それは契約ではなく、同じ場所に立つこと

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第12話 それは契約ではなく、同じ場所に立つこと

 午後の光が、館の廊下に長い影を落としていた。

 私は図書室の一角で、本を開いたまま手を止めていた。文字は目に入っているのに、内容がまったく頭に入ってこない。

(……静かすぎる)

 この館の静けさには、もう慣れたはずだった。けれど今日は、その静けさがやけに意識に引っかかる。

 理由は、わかっている。

 朝、ひとりで外に出て、そして自分の足で戻ってきたこと。
 逃げられたのに、逃げなかったこと。

 それを、カインが止めなかったこと。

(……あの人)

 信じろとも、縛るとも、引き留めるとも言わなかった。

 選べ、と言っただけだ。

 私はそっと本を閉じ、図書室を出た。廊下を進むと、奥のテラスでカインが立っているのが見えた。手すりに片手を置き、庭を眺めている。

 近づく足音に、彼は振り返った。

「……どうした」

「……少し、話したくて」

 そう言うと、彼は頷き、私のために椅子を引いた。

 私は腰を下ろし、しばらく言葉を探した。言いたいことはある。けれど、どう言えばいいかわからない。

「……私」

 やっと、口を開く。

「ここに来た時、全部“契約”だと思ってました」

 花嫁。
 生贄。
 身代わり。

「だから、怖くて、疑って、逃げ道ばかり考えて……」

 カインは、何も言わずに聞いていた。

「でも、今は……」

 言葉が詰まる。

「……今は、契約だからここにいる、って言えなくなりました」

 それは、告白だった。

 カインの赤い瞳が、静かに私を捉える。

「それは……重い言葉だ」

「わかってます」

 私は、ぎゅっとスカートを握った。

「血の契約も、絆も……正直、まだよくわかりません。怖さが消えたわけでもないです」

 正直な気持ちだった。

「でも……同じ場所に立ってる、って感じはします」

 一瞬、風が吹き抜ける。

 カインは、ゆっくりと息を吐いた。

「……それ以上を、私は望んではいけないな」

「え?」

「君が“同じ場所に立っている”と感じてくれるなら、それで充分だ」

 彼は、私から視線を外し、庭を見た。

「契約は、力で結べる。血も、誓いも、理屈もある。だが……心は、奪えない」

 胸の奥が、静かに震えた。

「私は、君の隣に立ちたい。前でも、後ろでもない」

 その言葉は、甘くも強引でもなかった。

 ただ、誠実だった。

 私は、しばらく黙ってから、そっと頷いた。

「……それなら」

 顔を上げる。

「私も、同じです」

 カインが、わずかに目を見開いた。

「まだ……“好き”とか、言えませんけど」

「それでいい」

「でも……隣に立つのは、嫌じゃない」

 言い切ると、不思議と心が軽くなった。

 カインは、微かに笑った。

「ならば、今日はそれだけでいい」

 彼は立ち上がり、私に手を差し出した。

「戻ろう。夕食の時間だ」

 私は、その手を見つめた。

 一瞬、迷って――
 それから、そっと手を重ねた。

 強く握られることはなかった。
 引っ張られることもなかった。

 ただ、同じ速さで歩くための、手。

(……契約じゃない)

 そう、はっきり思えた。

 この日、私は初めて――
 吸血鬼の花嫁としてではなく、
 “カインの隣に立つ人間”として、館の中へ戻った。
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