『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第11話 選ばれたのは、血ではなく沈黙

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第11話 選ばれたのは、血ではなく沈黙

 朝の光は、昨日までと何も変わらなかった。

 カーテン越しに差し込むやわらかな日差し。鳥の声。館の中を満たす、静かで整った空気。

 ――けれど、私の中だけが、少し変わっていた。

(……名前、呼ばれただけなのに)

 ベッドから起き上がりながら、昨夜のことを思い出してしまう。血を吸われたわけでも、触れられたわけでもない。ただ、扉越しに名前を呼ばれただけ。

 それなのに、胸の奥がざわついたままだった。

(……ほんとに、ずるい)

 私は深呼吸をひとつして、いつものように身支度を整える。すりこぎ棒は、ちゃんと確認。鍋も、定位置。

 備えはある。
 でも――

(……心の備えは、全然足りてない)

 朝食の席には、すでにカインがいた。

「おはよう、リネア」

「……おはようございます」

 声が重ならないように、少しだけ間を置いて返す。

 昨日の夜のことには、互いに触れなかった。触れなくても、そこに“何か”が残っているのがわかる。

 それが、少しだけ息苦しい。

「……よく眠れたか」

「……はい。少しだけ」

 嘘ではなかった。

 ほんの少し。
 けれど、確かに眠れた。

 カインはそれ以上聞かなかった。ただ、紅茶を私の前に置く。

 沈黙。

 不思議と、気まずさはなかった。ただ、静かだった。

(……この人、沈黙を怖がらない)

 村では、沈黙は不安の証だった。怒りか、拒絶か、諦めか。何か言わなければ、空気が壊れる。

 でも、ここでは違う。

 沈黙が、ちゃんと“間”として存在している。

「……今日は」

 私が口を開くと、カインが視線を向けた。

「……館の外を、少し歩いてみたいです」

 一瞬、彼の表情が変わった。驚きではない。警戒でもない。

 ――考えている顔。

「危険はない」

 そう言ってから、彼は続けた。

「だが、君が望むなら、私は同行する」

「……一人で行きたいです」

 自分でも意外な言葉だった。

 でも、必要だった。

 ここが安全かどうかじゃない。
 彼が信じられるかどうかでもない。

(……私が、どうしたいか)

 カインは、しばらく黙っていた。

 そして、静かに頷いた。

「わかった」

「……いいんですか」

「君が選んだことだ。止める理由はない」

 胸の奥が、少しだけ軽くなる。

 私は朝食を終え、外套を羽織って館を出た。

 外の空気は、思っていたよりも冷たく、澄んでいた。庭を抜け、小道を歩く。どこまでも静かで、穏やかな場所。

(……逃げようと思えば、今だ)

 ふと、そんな考えがよぎる。

 足を止めて、振り返る。
 館は、変わらずそこにある。

 逃げ道はある。
 けれど、足は動かなかった。

(……私)

 選ばれたのは、血じゃなかった。

 恐怖でも、義務でも、契約でもない。

 私は――
 “ここにいる”という選択を、静かに選んでしまっている。

 少し歩いてから、私は館へ戻った。

 玄関に立っていたカインが、私を見て微笑む。

「……早かったな」

「……ええ」

「戻ると、思っていた」

「……どうしてですか」

 彼は、少しだけ考えてから答えた。

「君は、逃げる人ではない」

 胸が、きゅっと鳴る。

(……それ、褒めてない気がする)

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 私は、すりこぎ棒を抱え直し、彼を見上げる。

「……まだ、信じきってはいませんから」

「それでいい」

「でも……」

 言葉を選びながら、続ける。

「……ここが嫌だとは、思いませんでした」

 カインは、何も言わなかった。

 ただ、深く、静かに頷いた。

 血は、まだ結ばれていない。
 誓いも、約束も、完全ではない。

 それでも。

 この日、私ははっきりと知った。

 ――私はもう、無理やり“縛られている花嫁”ではない。

 沈黙の中で、自分の意思を選び始めた――
 そんな、厄介な女になってしまったのだと。
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