『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第10話 眠らぬ夜に、名前を呼ばれた

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第10話 眠らぬ夜に、名前を呼ばれた

 その夜、私はまったく眠れなかった。

 ベッドに横になっても、目を閉じるたびに首元の違和感がよみがえる。薄く残った痕に触れるたび、心臓が余計な音を立てた。

(……吸われた)

 事実は、それだけだ。

 命を奪われたわけでもない。苦しめられたわけでもない。むしろ、目が覚めた時の体は驚くほど軽く、頭も冴えていた。

 問題は――そこじゃない。

(……嫌じゃなかった)

 その一点が、どうしても頭から離れなかった。

 私は横向きになり、枕を抱きしめる。すりこぎ棒は、ちゃんと枕元にある。鍋も、ベッド脇に置いてある。

(備えはある。逃げ道は……ないけど)

 そう思って、苦笑した。

 逃げ道がないのは、屋敷の構造のせいだけじゃない。
 自分の心が、どこかで「逃げたい」と思わなくなっている。

(……だめだな)

 自覚した瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。

 ――コン。

 小さな音。

 私は、反射的に体を起こした。

「……どなたですか」

 声が、少し震えた。

「私だ。起こしてしまったか」

 カインの声。

 昼間よりも低く、静かで、夜に溶けるような声だった。

(……来た)

 けれど、昨日までのような恐怖はなかった。代わりに、わけのわからない緊張が胸を占める。

「……眠れていませんでした」

 正直に答えると、扉の向こうで小さく息を吐く気配がした。

「そうか」

 一拍置いて、彼は言った。

「入らない。扉越しでいい」

 その言葉に、なぜかほっとしてしまった自分が悔しい。

「……昨日のこと、謝りに来た」

 その一言で、胸がどくんと鳴る。

「勝手なことをした。許されないことだ」

 私は、しばらく何も言えなかった。

 謝られると思っていなかったわけじゃない。でも、こんなふうに真正面から向き合われると、どう反応していいかわからなくなる。

「……怒ってます」

 ようやく、そう言った。

「当然だ」

「でも……嫌じゃなかった自分にも、腹が立ってます」

 沈黙。

 それは、責める沈黙ではなかった。

「……混乱させてしまったな」

「はい」

 即答だった。

「私は、普通の村娘です。吸血鬼の血の契約とか、絆とか……正直、よくわかりません」

「それでいい」

「でも……」

 言葉に詰まり、私は唇を噛む。

「でも、カイン様が、私を大事にしてくれてるのは……わかります」

 口にした瞬間、顔が熱くなる。

「だから……余計に、ずるいんです」

 扉の向こうで、微かに息を吸う音がした。

「……すまない」

「謝らないでください」

 私は、立ち上がり、扉に手を当てた。

「謝られると……許したみたいになるから」

 沈黙が落ちる。

 長く、静かな沈黙。

 やがて、カインが口を開いた。

「……君が望まない限り、二度としない」

「……はい」

「それでも、ここにいたいと思えなくなったら――すぐに言え」

 その言葉は、命令でも脅しでもなかった。

 ただの、約束だった。

「私は、君の選択を尊重する」

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

(……ほんとに、ずるい)

「……今日は、それだけですか」

「ああ」

 少し間を置いて、彼は続けた。

「眠れない夜は、人の心を弱くする。だから……名前だけ、呼ばせてほしい」

 私は、思わず息を止めた。

「……え?」

「拒むなら、やめる」

 扉越しなのに、その距離がやけに近く感じられる。

 私は、すりこぎ棒を握りしめたまま、答えた。

「……一回だけなら」

 小さな笑みを含んだ気配。

「ありがとう」

 そして。

「――リネア」

 ただ名前を呼ばれただけなのに、胸がきゅっと鳴った。

「……おやすみ」

「……おやすみなさい」

 足音が遠ざかり、完全な静けさが戻る。

 私は、ゆっくりとベッドに戻った。

 首元の痕に触れながら、天井を見る。

(……血よりも、名前の方が、効くってどうなの)

 そんなことを思いながら。

 その夜、私は少しだけ――
 穏やかな眠りに落ちた。
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