『身代わり花嫁は鍋をかぶり、すりこぎ棒で吸血鬼と向き合う』

しおしお

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第27話 身代わりだった私が、名を呼ばれる日

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第27話 身代わりだった私が、名を呼ばれる日

 応接間の扉は、重く、そして静かに閉まった。

 向かいの椅子に座るのは、見慣れた顔――村の使いだった男。かつては私を「リネア」と呼び捨てにし、用事があれば顎で使ってきた相手。

 その男が、今は背筋を伸ばし、視線を下げている。

「……ご無沙汰しております、奥方様」

 その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく弾けた。

(……奥方様、か)

 少し前まで、その言葉に照れてばかりいたはずなのに。
 今は、不思議と逃げたくならなかった。

「用件を、どうぞ」

 私はそう言って、静かに紅茶に口をつけた。
 声は、思ったより落ち着いていた。

 男は一瞬だけ言葉に詰まり、それから慌てたように頭を下げた。

「は、はい。村長より……その……お詫びと、お願いを預かって参りました」

「お願い?」

 嫌な予感が、胸をよぎる。

「最近、村の周囲で魔獣の被害が相次いでおりまして……例の“契約”を、再び……」

 言葉の続きを、私は聞かなかった。

「――“花嫁”を、ですか」

 男は、びくりと肩を震わせた。

「……は、はい」

 その瞬間、頭の中に浮かんだのは、マリアンヌの泣き顔でも、村長の打算的な目でもなかった。

 初めてこの館に来た夜。
 鍋をかぶり、すりこぎ棒を握りしめて震えていた自分。

(……もう、戻らない)

「その話は、お断りします」

 はっきりと、そう告げた。

「で、ですが……! 前例が……」

「前例?」

 私は、ゆっくりと顔を上げた。

「その前例で、私は“身代わり”として差し出されました」

 空気が、ぴしりと張りつめる。

「結果、私はここで生きています。大切にされ、守られ、選ぶ権利を得ました」

 男は、何も言えなくなっていた。

「もう、誰かを差し出す話には、関わりません」

 そう言ってから、私は一拍置いて続けた。

「……それと」

 男が、恐る恐る顔を上げる。

「私の名前は、“奥方様”でも、“花嫁”でもなく――リネアです」

 その言葉は、静かだったが、確かだった。

「身代わりではない、私自身の名前です」

 男は、深く、深く頭を下げた。

「……失礼いたしました、リネア様」

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。

 応接間には、私とカインだけが残った。

 沈黙。

 そして、隣から低い声がした。

「……よく、言えたな」

 私は、ふっと息を吐いた。

「怖かったです。でも……言わなきゃ、前に進めない気がして」

 カインは、私の横に立ち、そっと手を差し出した。

 握るでもなく、引くでもなく――
 ただ、“そこにある”手。

 私は、一瞬だけ迷ってから、その手に自分の手を重ねた。

「……もう、身代わりじゃありません」

「ああ」

 彼の声は、静かで、揺るぎなかった。

「君は、最初から――君だった」

 胸の奥が、熱くなる。

 この日、私はようやく理解した。

 名を呼ばれるということは、
 存在を認められるということ。

 そして私は、
 自分自身を“選び直す”ことができたのだと。
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