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第1話 婚約破棄宣告と、宮廷が凍りついた日
しおりを挟む王宮の大広間は、冬の夜より冷たかった。
磨き上げられた大理石の床に、紅い絨毯がまっすぐ伸びる。
けれどその先に立つ第一王子ルーファスの表情は……妙に引きつっている。
そして、私はというと――
ただ彼の言葉を聞き終えるのを待っているだけなのに、
周囲の貴族たちは“氷の女帝が呼吸した”かのように震え上がっていた。
「ヴァイオレット・アーデルハイト嬢。
……我らが婚約は、本日をもって破棄する」
その声は、まるで猫背の老人のように腰が引けていた。
人前で婚約破棄を言い放つ王子の態度ではない。
「理由は?」
私は極めて丁寧に尋ねた。丁寧すぎて空気が震えた。
ルーファスは、一瞬だけ私の顔をまともに見る。
そして、言ってはいけないことを言った。
「……君が……怖い」
――大広間の時間が止まった。
いや、正確には“止まった後で、急激に冷え込んだ”。
貴族の女性たちの扇がパタリと落ち、男たちは肩をすくめ。
侍従たちは助けを求める目でこちらを見るが――私が助けるわけがない。
「怖い……?」
私は微笑んだ。完璧に礼儀正しく、上品に。
宮廷の誰一人として、それが“本気で怒った証拠”と理解できる者はいなかった。
「殴らなかった私を褒めてほしいくらいですわ」
ルーファスの顔が真っ青になった。
周囲から、悲鳴ともため息ともつかない声が上がる。
「い、いまのは脅しだろうか……?」
「殴るつもりが……あったのか……?」
ひそひそ声が広がる中、私は軽く首をかしげる。
「王子。私、あなたに手を上げたことは一度もありませんわ。
ですが――言わせていただきますと」
ルーファスが小刻みに震える。
「殴られずに済んだこと、もっと感謝なさって?」
宮廷が凍りついた。
王子は一歩、また一歩と後ずさる。
慌てて近くの騎士が支えたが、手が震えている。
その様子を見ながら、私は深々とドレスの裾を持ち、優雅に一礼した。
「婚約破棄、確かに承りました。
ですが、一つだけ申しておきますわ」
声色は柔らかく。ただし、中身だけ鋼鉄。
「あなたが“怖い”と感じているのは、私ではありません。
自分の無能さに直面するたび、逃げ続けてきたご自身ですわ」
ルーファスが息を呑む。
私は踵を返し、堂々と大広間を歩き去った。
背後から声が飛ぶ。
「ヴァ、ヴァイオレット嬢!この場は――!」
側近の一人が慌てて呼び止めるが、私は振り返らない。
「殿下が怖いとおっしゃるのなら、私のほうこそ遠慮いたしますわ。
――二度と近づかなくて済むのですもの。万々歳ですわね?」
ざわり、と宮廷がざわめいたその瞬間。
私は心の底からこう思っていた。
(ああ……これでようやく好きなように動けますわ)
婚約破棄は終わった。
ここから始まるのは――悪役令嬢ヴァイオレットの、暴虐の“改革”である。
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