『婚約破棄された私、偽装結婚の果てに真実の結婚にたどり着きました。――もうBL王子には興味ありません!』

しおしお

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第2章 2-1 形式だけの結婚式

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第2章 2-1 形式だけの結婚式

 婚姻契約書にサインをしてから、わずか三日後。
 レティシアとセドリックの“結婚式”は、驚くほど静かに行われた。

 それは王都でも滅多に見られぬほどの簡素な式だった。
 貴族社会では、婚礼は派手であればあるほど家の名誉になる。
 だが、アークハート侯爵は、誰の目も避けるようにして小さな私邸の礼拝堂を選んだ。

 参列者はわずか六名。
 セドリックの側近である執事ヴァルドと侍従のリネア、そしてレティシアの実家から派遣された護衛二人と侍女。
 神父が静かに祈祷書を開き、二人の前に立つ。

 聖堂の中は、外の喧噪とはまるで別世界だった。
 白い花が祭壇に並べられ、窓から差し込む光が二人を包む。
 けれど、その神々しい空気の中に、緊張とも静寂ともつかぬ透明な距離があった。


---

「セドリック・アークハート侯爵。あなたは、この女性を妻として迎え、良き伴侶として支え合うことを誓いますか?」
 神父の声が響く。
 セドリックはわずかに頷き、低く答えた。

「誓います」

 それは、氷のように澄んだ声だった。
 だがその奥には、確かな力と誠実さがあった。
 彼が口にする「誓い」は、愛ではなく――責任だった。

 次に、神父はレティシアに問う。
「レティシア・ドラン。あなたは、この男性を夫として受け入れ、共に歩むことを誓いますか?」

 レティシアはゆっくりと息を吸う。
 胸の奥で、なぜか鼓動が速くなっていた。
 ――これは、愛を誓う式ではない。
 ――形式だけの結婚。

 そう言い聞かせながらも、彼女の瞳はまっすぐにセドリックを見た。
 その瞳の奥に、一瞬だけ揺れる光が映る。

「……誓います」

 その声は静かで、しかし揺るぎなかった。
 神父が微笑み、手を掲げる。

「この誓いは、神と民の前において有効とされます。
 セドリック・アークハート侯爵とレティシア・ドラン――いえ、これよりは“アークハート侯爵夫人”として、
 あなた方の結婚が成立したことを、ここに宣言します」


---

 拍手も歓声もなかった。
 祝福の音楽も鳴らない。
 ただ、白い花弁が一枚、窓から差し込む風に乗って舞い落ちる。

 それを見た瞬間、レティシアはふと息を呑んだ。
 まるでその一枚の花が、彼女に「これでいい」と囁いているようだった。

 セドリックは彼女に向かって小さく頭を下げた。
「これで、契約は成立です」

「はい。……ありがとうございます、旦那様」

 “旦那様”という響きに、セドリックの眉が一瞬だけ動く。
 それは拒絶ではなく、どこか照れ隠しのようなものだった。

「あなたの部屋は、屋敷の東棟に用意しました。
 必要なものは執事ヴァルドに言ってください。
 不便なことがあれば――遠慮なく」

「承知しましたわ。お気遣い、痛み入ります」

 儀礼的な言葉。けれど、どちらもそれ以上は続けなかった。


---

 式のあと、馬車で侯爵邸に戻る道すがら。
 窓の外には春の終わりを告げる花々が揺れていた。
 しかし、車内にはほとんど言葉がなかった。

 レティシアはふと、彼の横顔を見た。
 セドリックは目を閉じ、静かに呼吸している。
 その表情は、凛としているのにどこか疲れて見えた。

(……この人も、きっと何かを背負っている)

 噂では「心を凍らせた男」と呼ばれている。
 だが、彼の沈黙の奥には、氷ではなく傷があるように思えた。
 そのことに気づいた瞬間、レティシアの胸が少しだけ締めつけられた。


---

 侯爵邸に戻ると、屋敷の使用人たちが一斉に出迎えた。
 皆、一糸乱れぬ動きで深く礼をする。

「ご帰宅を歓迎いたします、侯爵閣下。そして――侯爵夫人」

 その言葉に、レティシアは一瞬だけ息を呑んだ。
 ――“夫人”。
 形式的であっても、その呼び名の重さが、胸にずしりと響く。

「初めまして、皆さま。これからお世話になります」

 礼儀正しく頭を下げると、執事のヴァルドが一歩前へ出た。
 白髪交じりの髪をきっちり撫でつけ、無表情ながら温かみのある声で言う。

「閣下のご命令により、東棟の一室をすべて新しく整えました。
 お好みの香や調度があれば、すぐに手配いたします」

「ありがとうございます。……とても心強いですわ」

 ヴァルドが静かに微笑む。
 その微笑みには、主に仕える忠誠と同時に、どこか彼女を気遣う優しさがあった。


---

 東棟の部屋は、思ったよりも広かった。
 壁は白く塗られ、天井の梁には繊細な彫刻が施されている。
 豪奢というよりは、上品で落ち着いた雰囲気だった。

 窓を開けると、庭園のバラが見える。
 季節は初夏に差しかかっており、淡いピンクと白の花が咲き乱れていた。

「……きれい」

 思わず漏れた言葉に、背後から声がした。

「気に入ったようですね」

 セドリックが、いつの間にか扉の前に立っていた。
 彼は相変わらず表情を変えない。だが、ほんのわずかに口元が柔らいでいた。

「はい。とても落ち着く部屋です」

「良かった。……この邸は、もともと私の母が設計したものです。
 東棟は、母がよく過ごしていた場所でね。
 だから――女性が静かに暮らすには、最も適している」

 その言葉に、レティシアは小さく頷いた。
 セドリックの声が、今までよりも少しだけ温かく聞こえた。

「……あなたの母上も、穏やかな方だったのですね」

「いや、むしろ厳しかった」
 セドリックが珍しく微笑を浮かべる。
「ただ、厳しさの中に愛情があった。――それが、母の強さだった」

 その横顔を見つめながら、レティシアは思う。
 彼は冷たい人ではない。
 ただ、優しさをどう表現していいか分からない人なのだ、と。


---

 夕刻。
 式の報告を終えたあと、二人は晩餐を共にした。
 長いテーブルに、二人きり。
 銀の燭台が灯り、蝋燭の炎がゆらゆらと影を揺らす。

「こうして食事を共にするのも、これが最初で最後になるかもしれませんね」
 レティシアが穏やかに言うと、セドリックはグラスを手に取って答えた。

「契約上はそうだが、私は無理に避けるつもりはない。
 食卓を囲むことまで禁じる条項は、なかったはずです」

「……それもそうですわね」
 くすりと笑う。
 氷の侯爵が、そんな冗談めいたことを言うとは思わなかった。

 ワインを口に運び、芳醇な香りを味わいながら、レティシアはふと思った。

(この人となら、静かに生きられるかもしれない)

 王太子との婚約生活では、いつも息苦しかった。
 完璧を求められ、笑顔すら指導された。
 だがセドリックは違う。
 彼は何も求めない。
 ――ただ、そこに“居ること”を許してくれる。

 その静かな優しさが、何より心地よかった。


---

 夜。
 レティシアが部屋に戻ると、暖炉に火が灯っていた。
 香の匂いが微かに漂い、白い寝具が整えられている。
 その中央に、一輪の花が置かれていた。

 白いバラ。

 その花びらには、わずかに露が光っている。
 カードも手紙もない。
 けれど――誰が置いたのか、分かる。

「……あの方、まさか自分で?」

 小さく笑う。
 氷の侯爵と呼ばれる男が、こんな粋な真似をするなんて。

 ベッドの縁に腰を下ろし、レティシアは花をそっと抱きしめた。
 白い結婚。
 色のない関係のはずが、いつの間にか心に淡い色が灯り始めていた。


---

> 恋ではない。
けれど確かに、彼の優しさが、彼女の心を温めていた。
名ばかりの妻――そのはずが、白い花びらに、ほんのり紅が滲み始めていた。



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