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1-4 名ばかりの妻になる決意
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第1章 1-4 名ばかりの妻になる決意
翌朝、屋敷の空気は、どこか張り詰めていた。
昨日の訪問――アークハート侯爵、セドリックの突然の求婚。
誰もがそれを夢か幻のように思っていた。
王太子からの婚約破棄という屈辱の余韻がまだ残る中、今度は隣国の名門侯爵が求婚してくる――。
それも「恋愛抜きの契約結婚」だというのだから、家中の使用人までが動揺していた。
だが当の本人、レティシアは驚くほど静かだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、寝台の上に白く落ちる。
その光の中で、彼女はひとり思索していた。
(名ばかりの妻、か……。それでいい。愛など、もう必要ないわ)
そう呟き、鏡の前に座る。
頬に残るわずかな疲れの影。
それは涙ではなく、決意の跡だった。
化粧台に置かれた銀の櫛を手に取り、ゆっくりと髪を梳く。
髪を撫でるたびに、過去が遠ざかっていく気がした。
---
食堂では、父のドラン伯爵が険しい表情で待っていた。
新聞を広げる手が小刻みに震えている。
母は食欲を失い、カップの中の紅茶を見つめていた。
「おはようございます、父上、母上」
レティシアの穏やかな声が、重たい沈黙を破った。
父が新聞をたたきつけるように机に置く。
「レティシア、聞かせてもらおう。昨日のあの話――お前、本気なのか?」
「ええ、本気ですわ」
「ふざけるな! あの男が何を考えているかも分からんのだぞ。
“白い結婚”だと? そんなものは建前にすぎん! 裏があるに決まっている!」
父の怒声にも、レティシアはまったく動じなかった。
紅茶を一口含み、静かにカップを置く。
「たとえ建前でも、誠実な建前なら結構ですわ。
あの方の言葉には、偽りがありませんでした」
「馬鹿な……! あの“氷の侯爵”が、誠実だと?」
「冷たく見える方ほど、心の奥に熱を秘めていることがあります。
それを知らないのは、冷たさの仮面に怯える人たちだけですわ」
父は言葉を失い、母が静かに娘の手を取った。
「レティシア……あなた、そんなに辛かったのね」
母の瞳には涙がにじんでいた。
レティシアは小さく首を振る。
「もう、辛くなんてありません。
あの夜会で恥をかかされた時、私は思いましたの。
“もう誰かに期待するのはやめよう”って。
だったら、最初から“愛し合わない結婚”の方が、きっと穏やかですわ」
その言葉に、父も母も沈黙した。
誰よりも現実を見つめているのは、今や娘自身だった。
---
昼下がり。
屋敷の一角、離れの自室で、レティシアは羽ペンを取った。
彼の言葉――「互いの自由を尊重し、干渉しない」――が耳に蘇る。
その冷静な響きの中に、なぜか安心を覚えた。
(あの方は、私の心を壊さない人……)
その確信があった。
愛を囁く男たちは皆、最後には彼女を利用した。
けれど、セドリックは違った。
最初から何も求めず、ただ「互いの孤独を守る」と言った。
羽ペンの先を紙に落とす。
しなやかな筆致で、手紙を書き始める。
> 『セドリック・アークハート侯爵閣下
ご提案の件、慎重に拝読いたしました。
私は貴殿の条件をすべて受け入れます。
この結婚が形式であれ、誠実に向き合うことを約束いたします。
どうか私を、名ばかりの妻としてお迎えください。
レティシア・ドラン』
書き終えた便箋に封蝋を押し、息を吐く。
その瞬間、胸の中に冷たい風が吹き抜けた。
だが、それは寂しさではなく――自由の始まりの風だった。
---
三日後。
セドリック・アークハート侯爵は再びドラン邸を訪れた。
黒い外套に金の刺繍が光り、彼の姿はまるで冬そのものの化身のようだった。
「お受けいただけたと伺いました」
「ええ。契約書の内容もすべて確認しましたわ」
「……後悔は?」
「ありません」
短いやりとりの後、二人は応接室に通された。
机の上には婚姻契約書が置かれている。
セドリックは文書を取り上げ、一つずつ条項を読み上げた。
「第一条、互いの生活に干渉しないこと。
第二条、寝室は別とする。
第三条、公の場では夫婦として振る舞うこと。
第四条、秘密を詮索しないこと。
第五条――恋愛感情を持ち込まないこと。」
最後の条項を読み上げる時、彼の声がわずかに揺れた。
だが、その微かな震えを誰も気づかなかった。
レティシアは静かに頷き、羽ペンを取った。
インクが紙を濡らし、流麗な筆跡で名前が記される。
> “レティシア・ドラン”
続けて、セドリックがサインを入れる。
書き終えると、彼はゆっくりとペンを置き、真っ直ぐに彼女を見た。
「これで、あなたは今日から――アークハート侯爵夫人です」
その声は冷たくも優しくもなく、ただ静かだった。
けれど、その静寂の中に、確かな誠意があった。
「……名ばかりの、ですが」
「名ばかりでも、あなたを侮辱させはしない。それが私の契約だ」
彼の言葉に、胸の奥が熱くなる。
誰も守ってくれなかった彼女にとって、その一言は何よりの誓いだった。
---
夕暮れ。
馬車の窓から見える景色が、ゆっくりと遠ざかっていく。
父も母も門前に立ち尽くしたままだ。
妹が泣きながら手を振る姿が、薄い霞の向こうに揺れる。
「行ってまいります、父上、母上」
レティシアは小さく頭を下げ、馬車の扉を閉じた。
馬車の中には、彼女とセドリック、二人だけ。
沈黙が続いたが、不思議と気まずさはなかった。
その沈黙は、互いの心を守るための優しさのようでもあった。
「……あなたは、本当に強い方ですね」
セドリックがふいに呟いた。
「強い、ですか?」
「ええ。大半の人間は、あの夜会で屈辱を受ければ、涙で自分を慰める。
だが、あなたは違った。あの微笑みは、誇りの証だ」
「誇り、というより……意地ですわ」
レティシアは笑う。
「泣いたら負けだと思ったんです。
でも、あの笑みを“冷たい女”と呼ぶ人が多いなら……いっそ、そのままでいい。
冷たい妻は、氷の侯爵にぴったりでしょう?」
セドリックはわずかに目を細めた。
そして、ほんの一瞬だけ笑った――それは彼の噂を覆すほど、柔らかな笑みだった。
「……あなたのような女が妻であれば、冷たい氷も、少しは溶けるかもしれませんね」
レティシアの心臓が一度だけ跳ねた。
けれど、その鼓動を悟られぬよう、窓の外を見つめた。
西の空が紅に染まり、風が白い髪を撫でていく。
(名ばかりの妻、名ばかりの結婚……それでいいはずなのに)
心のどこかで、何かが静かに芽生え始めていた。
---
日が沈む頃、馬車はアークハート侯爵邸へと到着した。
石造りの壮麗な邸宅。
夕陽の光に照らされて、まるで古の城のように輝いている。
「ようこそ、アークハート侯爵邸へ。今日からここがあなたの家です」
セドリックの声が静かに響く。
その瞬間、レティシアの胸に、ようやく実感が生まれた。
「……はい。お世話になります、旦那様」
彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
――その笑みは、氷のように冷たく、そしてなぜか温かかった。
---
> 白い結婚。
恋も情もないはずの契約。
けれど、誰にも見えぬところで、小さな愛の芽が確かに芽吹き始めていた|単語《ルビ》
翌朝、屋敷の空気は、どこか張り詰めていた。
昨日の訪問――アークハート侯爵、セドリックの突然の求婚。
誰もがそれを夢か幻のように思っていた。
王太子からの婚約破棄という屈辱の余韻がまだ残る中、今度は隣国の名門侯爵が求婚してくる――。
それも「恋愛抜きの契約結婚」だというのだから、家中の使用人までが動揺していた。
だが当の本人、レティシアは驚くほど静かだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、寝台の上に白く落ちる。
その光の中で、彼女はひとり思索していた。
(名ばかりの妻、か……。それでいい。愛など、もう必要ないわ)
そう呟き、鏡の前に座る。
頬に残るわずかな疲れの影。
それは涙ではなく、決意の跡だった。
化粧台に置かれた銀の櫛を手に取り、ゆっくりと髪を梳く。
髪を撫でるたびに、過去が遠ざかっていく気がした。
---
食堂では、父のドラン伯爵が険しい表情で待っていた。
新聞を広げる手が小刻みに震えている。
母は食欲を失い、カップの中の紅茶を見つめていた。
「おはようございます、父上、母上」
レティシアの穏やかな声が、重たい沈黙を破った。
父が新聞をたたきつけるように机に置く。
「レティシア、聞かせてもらおう。昨日のあの話――お前、本気なのか?」
「ええ、本気ですわ」
「ふざけるな! あの男が何を考えているかも分からんのだぞ。
“白い結婚”だと? そんなものは建前にすぎん! 裏があるに決まっている!」
父の怒声にも、レティシアはまったく動じなかった。
紅茶を一口含み、静かにカップを置く。
「たとえ建前でも、誠実な建前なら結構ですわ。
あの方の言葉には、偽りがありませんでした」
「馬鹿な……! あの“氷の侯爵”が、誠実だと?」
「冷たく見える方ほど、心の奥に熱を秘めていることがあります。
それを知らないのは、冷たさの仮面に怯える人たちだけですわ」
父は言葉を失い、母が静かに娘の手を取った。
「レティシア……あなた、そんなに辛かったのね」
母の瞳には涙がにじんでいた。
レティシアは小さく首を振る。
「もう、辛くなんてありません。
あの夜会で恥をかかされた時、私は思いましたの。
“もう誰かに期待するのはやめよう”って。
だったら、最初から“愛し合わない結婚”の方が、きっと穏やかですわ」
その言葉に、父も母も沈黙した。
誰よりも現実を見つめているのは、今や娘自身だった。
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昼下がり。
屋敷の一角、離れの自室で、レティシアは羽ペンを取った。
彼の言葉――「互いの自由を尊重し、干渉しない」――が耳に蘇る。
その冷静な響きの中に、なぜか安心を覚えた。
(あの方は、私の心を壊さない人……)
その確信があった。
愛を囁く男たちは皆、最後には彼女を利用した。
けれど、セドリックは違った。
最初から何も求めず、ただ「互いの孤独を守る」と言った。
羽ペンの先を紙に落とす。
しなやかな筆致で、手紙を書き始める。
> 『セドリック・アークハート侯爵閣下
ご提案の件、慎重に拝読いたしました。
私は貴殿の条件をすべて受け入れます。
この結婚が形式であれ、誠実に向き合うことを約束いたします。
どうか私を、名ばかりの妻としてお迎えください。
レティシア・ドラン』
書き終えた便箋に封蝋を押し、息を吐く。
その瞬間、胸の中に冷たい風が吹き抜けた。
だが、それは寂しさではなく――自由の始まりの風だった。
---
三日後。
セドリック・アークハート侯爵は再びドラン邸を訪れた。
黒い外套に金の刺繍が光り、彼の姿はまるで冬そのものの化身のようだった。
「お受けいただけたと伺いました」
「ええ。契約書の内容もすべて確認しましたわ」
「……後悔は?」
「ありません」
短いやりとりの後、二人は応接室に通された。
机の上には婚姻契約書が置かれている。
セドリックは文書を取り上げ、一つずつ条項を読み上げた。
「第一条、互いの生活に干渉しないこと。
第二条、寝室は別とする。
第三条、公の場では夫婦として振る舞うこと。
第四条、秘密を詮索しないこと。
第五条――恋愛感情を持ち込まないこと。」
最後の条項を読み上げる時、彼の声がわずかに揺れた。
だが、その微かな震えを誰も気づかなかった。
レティシアは静かに頷き、羽ペンを取った。
インクが紙を濡らし、流麗な筆跡で名前が記される。
> “レティシア・ドラン”
続けて、セドリックがサインを入れる。
書き終えると、彼はゆっくりとペンを置き、真っ直ぐに彼女を見た。
「これで、あなたは今日から――アークハート侯爵夫人です」
その声は冷たくも優しくもなく、ただ静かだった。
けれど、その静寂の中に、確かな誠意があった。
「……名ばかりの、ですが」
「名ばかりでも、あなたを侮辱させはしない。それが私の契約だ」
彼の言葉に、胸の奥が熱くなる。
誰も守ってくれなかった彼女にとって、その一言は何よりの誓いだった。
---
夕暮れ。
馬車の窓から見える景色が、ゆっくりと遠ざかっていく。
父も母も門前に立ち尽くしたままだ。
妹が泣きながら手を振る姿が、薄い霞の向こうに揺れる。
「行ってまいります、父上、母上」
レティシアは小さく頭を下げ、馬車の扉を閉じた。
馬車の中には、彼女とセドリック、二人だけ。
沈黙が続いたが、不思議と気まずさはなかった。
その沈黙は、互いの心を守るための優しさのようでもあった。
「……あなたは、本当に強い方ですね」
セドリックがふいに呟いた。
「強い、ですか?」
「ええ。大半の人間は、あの夜会で屈辱を受ければ、涙で自分を慰める。
だが、あなたは違った。あの微笑みは、誇りの証だ」
「誇り、というより……意地ですわ」
レティシアは笑う。
「泣いたら負けだと思ったんです。
でも、あの笑みを“冷たい女”と呼ぶ人が多いなら……いっそ、そのままでいい。
冷たい妻は、氷の侯爵にぴったりでしょう?」
セドリックはわずかに目を細めた。
そして、ほんの一瞬だけ笑った――それは彼の噂を覆すほど、柔らかな笑みだった。
「……あなたのような女が妻であれば、冷たい氷も、少しは溶けるかもしれませんね」
レティシアの心臓が一度だけ跳ねた。
けれど、その鼓動を悟られぬよう、窓の外を見つめた。
西の空が紅に染まり、風が白い髪を撫でていく。
(名ばかりの妻、名ばかりの結婚……それでいいはずなのに)
心のどこかで、何かが静かに芽生え始めていた。
---
日が沈む頃、馬車はアークハート侯爵邸へと到着した。
石造りの壮麗な邸宅。
夕陽の光に照らされて、まるで古の城のように輝いている。
「ようこそ、アークハート侯爵邸へ。今日からここがあなたの家です」
セドリックの声が静かに響く。
その瞬間、レティシアの胸に、ようやく実感が生まれた。
「……はい。お世話になります、旦那様」
彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
――その笑みは、氷のように冷たく、そしてなぜか温かかった。
---
> 白い結婚。
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