『婚約破棄された私、偽装結婚の果てに真実の結婚にたどり着きました。――もうBL王子には興味ありません!』

しおしお

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1-3 隣国からの使者・冷徹侯爵セドリック

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第1章 1-3 隣国からの使者・冷徹侯爵セドリック

 婚約破棄の宣告から、わずか三日。
 レティシア・ドランは、家の奥にある客人用の離れに閉じこもるようにして過ごしていた。

 王太子アランによる“公開断罪”の噂は瞬く間に王都全体へと広がり、屋敷には見知らぬ使者や好奇の手紙が押し寄せた。
 ――「本当に冷たい女なのか」「聖女を虐げたというのは真実か」
 そんな言葉を目にするたびに、胸の奥で何かが乾いていくのを感じた。

 父のドラン伯爵は、彼女を見るたびに顔をしかめるようになった。
 母は、まるで罪人を扱うように距離を置き、妹たちは廊下でひそひそと噂する。

「お姉様、また夜会での話題にされていましたわ。王太子殿下の新しい婚約者、聖女リリア様があの夜のことを涙ながらに語られたそうですの」
「……そう」
「でも、お姉様が“真実の愛が腐らないよう祈っておりますわ”と仰った時の顔が怖かったって。みんな震えたって」
「そう。……なら、怖がっていればいいのよ」

 淡々とした声で答えながら、レティシアはティーカップを口に運ぶ。
 紅茶はすでに冷めていたが、冷たさのほうが今の気分に似合っていた。

(あれで泣くほど、私は純粋じゃないのよ)
 自分でも笑ってしまうほど皮肉だ。
 貴族社会は建前と噂でできている。泣けば「未練」、笑えば「悪女」。
 どちらに転んでも、女が責められるのだ。

 だから、レティシアはあの日、あえて微笑んだ。
 その笑みが、剣よりも鋭い武器になると知っていたから。


---

 午後、突然、屋敷の外が騒がしくなった。
 執事が駆け込んできて、慌てた様子で叫ぶ。

「旦那様っ、隣国アークハート侯爵家の使者が! 門前で侯爵閣下自らお待ちです!」
「なに? 侯爵閣下が直々に? 本気か!」

 父のドラン伯爵は椅子を蹴って立ち上がる。
 侯爵――しかも、隣国の名門アークハート家。その名を知らぬ者はいない。
 領土を三つも治め、軍政にも影響を持つ一族。若き当主セドリックは、“氷の侯爵”と呼ばれる男だった。

 冷酷無比、情を持たぬ男。
 だがその実力は本物で、若くして隣国の内乱を鎮めた立役者とされている。

(そんな人物が、なぜ父の屋敷に?)
 レティシアは静かに立ち上がる。
 自分とは無関係――そう思いたかった。けれど、嫌な予感が胸を掠めた。


---

 応接室に通された男は、噂通りの人物だった。
 長身で、整った顔立ち。冷たい金の瞳が、光を反射する氷のように美しい。
 だが、その視線は少しも人を見ていないような冷たさを含んでいた。

「初めまして。アークハート侯爵、セドリック・アークハートと申します」
「ど、どうぞお掛けください、侯爵閣下。まさか我が家に何のご用で……」

 父が震える声で問いかけると、セドリックは落ち着いた仕草で腰を下ろした。
 彼は視線をレティシアへ向ける。
 その目が一瞬だけ、静かに光を宿した。

「ドラン伯爵令嬢――レティシア様にお目通り願いたく参りました」

 レティシアの胸が小さく跳ねる。
 何の用があるというのだろう。
 まさか、王太子の件に関する詰問か――そう思った瞬間、セドリックは静かに言葉を重ねた。

「単刀直入に申し上げます。――私と結婚していただけませんか」

 空気が止まった。
 父が椅子を倒し、母は顔を真っ青にして息を呑む。
 レティシア自身も思わず立ち上がってしまった。

「……え?」

「私は、今、婚約を破棄されたばかりです」
「……まあ、奇遇ですわね。私も同じですわ」
「ええ、ですから――互いの名誉を守るために、“契約結婚”を提案に参りました」

 その口調は穏やかだが、まるで氷柱のように冷たい。
 彼はまっすぐにレティシアを見つめながら、淡々と続ける。

「この結婚は形式のみ。互いの利益を守るためのものです。
 あなたは王太子との婚約破棄で社交界からの立場を失いつつある。
 私は政略結婚を断ったことで周囲の圧力を受けている。
 利害は一致しているはずです」

 父が慌てて口を挟んだ。
「し、しかし侯爵、娘は今……」
「伯爵閣下。これは彼女自身の意志を問う話です」

 静かだが、一歩も引かぬ声。
 その一言に、ドラン伯爵は口をつぐんだ。
 セドリックはレティシアを見据え、言葉を続ける。

「もちろん、恋愛も関係も必要ありません。寝室も別です。
 互いの自由を尊重し、干渉しない。――ただし、夫婦として表向きの体裁を保つことだけが条件です」

 まるで法律を読み上げるような正確さ。
 レティシアは思わず口を開いた。

「……まるで、取引のようですわね」
「ええ。これは“取引”です。あなたに自由を与え、私にも世間体を与える。
 それが、この契約結婚の目的です」

 冷静な言葉。だが、嘘は感じられなかった。
 むしろ、彼の中には奇妙な誠実さがあった。
 打算や欲ではなく、“清らかな合理”のようなものが。

 レティシアは微笑む。
「面白いお話ですわね。ですが、なぜ、私に?」
「理由ですか」
 彼は少し目を伏せた。
「あなたの噂は王都にも届いています。断罪の夜会で涙ひとつ流さず、王太子を皮肉で切り捨てた令嬢だと」
「……それが?」
「それを見て、興味を持ったのです」

 その瞳が真っすぐに射抜く。
「あの場で涙を流すことは簡単だった。しかしあなたはそうしなかった。
 誇りを捨てず、理性を保った。……そういう人間なら、私と契約を結ぶにふさわしい」

 静寂。
 部屋に響くのは、時計の針の音だけ。

 やがて、レティシアは小さく笑った。
 心のどこかが、不意に軽くなったように感じた。

「――侯爵様。あなた、案外お優しいのね」
「優しさではありません。合理的な判断です」
「でも、冷たいだけの人なら、わざわざ私のような女を救おうとは思わないはずですわ」

 その言葉に、セドリックは一瞬だけ表情を動かした。
 わずかに視線を逸らし、短く息を吐く。

「……救うつもりはありません。ただ、互いに“孤独を隠す仮面”が必要なだけです」

「ふふ。いい仮面ですこと。では、その契約――もう少し、詳しく聞かせてくださいませ」

 レティシアは椅子に腰を下ろし、姿勢を整えた。
 彼の冷たい瞳の奥に、わずかな温もりが宿った気がした。


---

 夕刻、侯爵は帰る前に短く告げた。

「三日後、婚姻届を持って再び参ります。
 それまでに考えておいてください。拒否されても構いません」

「ええ、承知しましたわ。――ただひとつだけ、質問を」

「なんでしょう」

「もし、この“白い結婚”に色がついたら、どうなさるおつもり?」

 彼の金の瞳が、わずかに揺れた。
 それでも、答えは静かに、はっきりと。

「その時は――私が責任を取ります」

 そう言って、彼は夜の帳の中へと去っていった。

 冷たい風が吹き込む玄関先で、レティシアは静かに呟く。

「……責任を取る、ね。まるで恋の予告みたいですわ、侯爵様」

 その唇に、初めて心からの微笑みが浮かんだ。
 それは、長い冬の終わりを告げる、ほんの小さな春の兆しのようだった。


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