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2-2 別々の寝室、契約に従う二人
しおりを挟む🌙第2章 2-2 別々の寝室、契約に従う二人
結婚式の翌夜。
レティシアは、侯爵邸の長い回廊をひとり歩いていた。
広い館は、蝋燭の灯りが壁に揺らめき、静まり返っている。
隣を歩く侍女が囁くように言う。
「お部屋はこちらでございます、レティシア様。旦那様とはお部屋が別でございますので……」
「ええ、承知していますわ」
それは、最初の契約で決められていたこと。
“夫婦ではあるが、互いの領分には踏み込まない”――
そう、これは恋愛でも情愛でもなく、形式上の結婚。
けれども、侍女が去ったあと、レティシアは静かに息を吐いた。
広すぎる部屋、冷たい月光、そして……静寂。
初めて訪れた侯爵邸の寝室は、完璧に整えられすぎていて、人の気配が薄い。
どれほど絢爛な天蓋付きの寝台があろうと、ここは“他人の家”なのだと、痛いほど感じた。
ドレスのコルセットを外し、薄手のナイトドレスに着替える。
鏡に映る自分の顔は、驚くほど穏やかだった。
――涙なんて、とうの昔に枯れた。
あの男に裏切られた夜、泣きすぎて、心のどこかが壊れてしまったのだろう。
「これでいいのよ。静かに、誰にも傷つけられずに暮らせるなら」
そう呟いて、寝台に身を沈めた。
---
翌朝。
朝食は、侯爵と同じ食卓ではなく、それぞれ別室でとる――これも契約の一部だった。
けれども、その日、思いがけず執事から伝言が届いた。
「旦那様が、朝食を一緒にどうかと」
「……え?」
驚いたレティシアは、思わず匙を落としそうになった。
たしかに彼は冷徹な男だと噂されていた。政略のためにいくつもの縁談を断り、感情を見せぬまま領地を拡大してきた侯爵――セドリック・アークハート。
そんな彼が、どうして。
半信半疑のまま食堂に向かうと、すでに彼は席に着いていた。
黒の軍服を思わせる上衣を身に纏い、姿勢は完璧。
その鋭い金の瞳が、レティシアを見るなり少しだけ和らいだ。
「おはよう、レティシア。体調は問題ないか」
「……ええ。お気遣い、痛み入りますわ」
「昨日の式で、疲れているかと思ってな」
彼は短く言って、紅茶を口にした。
香ばしいパンの香りが広がり、静かな時間が流れる。
まるで、互いに言葉を選びながら距離を測っているようだった。
レティシアは思い切って尋ねる。
「契約では、互いの生活を干渉しないことになっておりますが……」
「朝食くらいは、一緒にしても問題ないだろう?」
その声音は、どこか照れくさそうで。
無表情の奥に、わずかな人間味が覗いた気がした。
「……そうですね。問題、ありませんわ」
そう答えた自分の声が、少しだけ柔らかかったことに気づいて、レティシアは内心で小さく苦笑した。
---
それから数日。
生活は淡々と続いた。
侯爵は執務に明け暮れ、レティシアは屋敷の管理や書庫の整理を任される。
誰も彼女を「裏切り者の令嬢」と罵る者はいない。
ただ、淡々と、穏やかに日々が過ぎていった。
しかし、ある晩。
執務室の前を通りかかったとき、中からかすかな声が聞こえた。
「……彼女を巻き込みたくはない。俺の問題だ」
侯爵の低い声。
相手は執事だろう。
レティシアは、咄嗟に足を止めた。
扉越しに聞くその声音は、冷たさではなく、どこか苦しげだった。
――巻き込みたくない、とは、誰のことを?
彼女の胸に、知らず小さな痛みが走る。
部屋を離れたあとも、その言葉が頭から離れなかった。
---
翌朝、侯爵の姿はなかった。
侍女によれば、夜明け前に出立したらしい。
理由は告げられず、ただ「急用」とだけ。
代わりに、机の上に小さな包みが置かれていた。
中には、銀の刺繍糸で縁取られた白い手袋。
メモが添えられていた。
> 『この館では冬が早い。外を散歩するなら、防寒を忘れないように。』
無骨な文字。けれども、整った筆致。
それが彼の手によるものだと分かった瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
「……冷徹だなんて、嘘ですわね」
ぽつりと呟く。
“白い結婚”のはずが、気づけば心のどこかが色づいていく。
---
夜。
暖炉の火を眺めながら、レティシアは思う。
彼は何を抱えているのだろう。
あの冷たい眼差しの奥に、どんな孤独を隠しているのだろう。
契約で交わされた言葉――「互いの自由を尊重する」。
それは便利な言葉だった。
だが本当に、互いの距離を保つためだけの“盾”なのだろうか。
「……もし、あなたの孤独に手を伸ばしても、契約違反かしら」
自嘲気味に微笑み、レティシアはそっと紅茶を口にする。
その温かさが、彼女の胸にじんわりと広がった。
---
その夜、夢を見た。
あの婚約破棄の夜会で、自分を嘲る人々の中、ただ一人、黙って見つめていた彼――セドリック侯爵。
彼の眼差しには、冷たさよりも哀れみがあった。
まるで「君も俺と同じだ」と語りかけるように。
目が覚めると、頬に涙が流れていた。
レティシアはそっと目を拭いながら呟く。
「もう泣かないって、決めたのに……」
だが、涙の理由は悲しみではなかった。
それは、心の奥で芽生え始めた“誰かを想う温度”――。
---
その翌日、侯爵は戻ってきた。
いつものように冷静な表情で。
「ただいま戻った。……留守中、問題はなかったか」
「ええ。あなたの仰る通り、冬が近いですね。外はもう冷たい風が吹いていましたわ」
彼はわずかに目を見開き、そして小さく微笑んだ。
――その笑顔は、まるで氷が解ける音を伴うようで。
「……その手袋、似合っている」
言葉の少ない人なのに、その一言が胸に残る。
レティシアは俯いて微笑んだ。
「ありがとうございます、旦那様」
彼女の声は、今までよりも確かに“柔らかい”。
白い結婚の契約は、まだ終わっていない。
けれど、二人の間に流れる空気は、もう“無色”ではなかった。
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