『婚約破棄された私、偽装結婚の果てに真実の結婚にたどり着きました。――もうBL王子には興味ありません!』

しおしお

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第2章 2-3 仮面の舞踏会と夫婦の噂

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第2章 2-3 仮面の舞踏会と夫婦の噂

 王都では、初夏の恒例行事である「仮面舞踏会」が開かれる季節になっていた。
 貴族たちが顔を隠し、身分を超えて語らうその夜は、政治的駆け引きと恋の火花が入り混じる華やかな社交の場。
 アークハート侯爵にも当然、招待状が届いていた。

 銀の封蝋には王家の紋章。
 文面には「ご夫人とともにお越しください」と丁寧に書かれている。

 それを読んだセドリックは、少しだけ眉をひそめた。

「……どうやら、行かねばならぬようだ」

 書斎で書類を整理していたレティシアが、顔を上げる。
「王家主催のものですのね」

「ああ。断るわけにはいかない。
 ……形式上の夫婦であっても、“妻”を同伴せねば不自然だ」

 その言葉に、レティシアは小さく微笑んだ。
「つまり、私も“演じる”必要があるということですね」

「……すまない。負担をかける」

「いいえ。形式だけでも、妻としての務めを果たしますわ」

 彼女の穏やかな返答に、セドリックはほんの一瞬だけ視線を逸らした。
 淡い月明かりのような笑み――それが、妙に胸の奥に残った。


---

 舞踏会の夜。

 王都の中心にある大理石の宮殿は、光と音楽に包まれていた。
 天井から吊り下げられた無数のシャンデリアが輝き、貴族たちは仮面越しに互いを探り合う。

 レティシアが姿を現すと、会場のざわめきが一瞬だけ止んだ。

 純白のドレスに銀糸の刺繍、顔には白銀の仮面。
 その姿は、まるで雪の精のように幻想的だった。
 人々が息を呑む中、彼女の隣に黒衣の男――セドリック・アークハート侯爵が立つ。

 黒と白。
 対照的な二人が並ぶ姿は、まるで絵画のようだった。

「アークハート侯爵夫妻だ……」「噂以上の美しさだ」「あの二人、本当に契約結婚なのか?」

 囁きが広がる。
 セドリックは無表情のままレティシアの手を取った。

「……大丈夫か?」

「ええ。少し緊張しているだけです」

「心配いらない。私がいる」

 その低い声に、鼓動が一瞬だけ跳ねた。
 彼の手は冷たいはずなのに、不思議と温かかった。


---

 舞踏が始まると、仮面をつけた貴族たちが次々に踊り出る。
 レティシアもセドリックに導かれ、ゆっくりとステップを踏んだ。
 初めて踊るはずなのに、なぜか息が合う。

「意外ですわね」

「何が?」

「踊りはお好きでないと思っていました」

「嫌いではない。ただ……相手がいなかっただけだ」

「まあ、侯爵様にもそんな時代が?」

 レティシアが微笑むと、彼の口元もわずかに緩む。
 周囲から、再び囁きが起こった。

「見たか? 二人が笑っている……」「あれが氷の侯爵か?」「あの微笑は初めて見た」

 レティシアはその声に気づき、ふと顔を伏せた。
 仮面の下で、頬がわずかに熱を帯びる。

(……私たちは、契約夫婦なのに)

 それでも、彼の手が自分を支えてくれる限り、その事実を忘れたくなった。


---

 舞踏が終わると、貴族たちは次々に二人へ挨拶を寄せた。

「アークハート侯爵閣下、奥方様のご美貌には王都中が息を呑んでおります」
「ご夫婦仲がよろしいと伺いました。羨ましい限りですわ」

 そんな言葉を聞くたび、レティシアは丁寧に微笑んで応じた。
 一方で、セドリックは静かに頷くだけ。
 だが、その無言がかえって「愛妻家」としての印象を強めていた。

「ふふ、まるで本当に――」
 そう口にした瞬間、レティシアは我に返った。
 “本当に”――その言葉が、胸の奥で妙に響いた。


---

 夜が更ける頃、会場の隅で一人の令嬢が声をかけてきた。
 赤い仮面に深紅のドレス。派手な装いの女――侯爵家の縁戚、エルナ夫人だった。

「まあ、レティシア夫人。今宵もお美しいわ」

「ごきげんよう、エルナ夫人」

「ねえ、ひとつだけ気になっていたの。……あなたと侯爵閣下、本当に“形式だけ”のご結婚なの?」

 その問いに、レティシアは一瞬、言葉を失った。
 周囲には他の貴族もいる。
 この場で下手なことを言えば、翌日には王都中の噂になる。

「それは――」

 と、その時。

「夫人、探しました」

 背後から声がした。
 振り返ると、セドリックが立っていた。
 彼は何も言わず、レティシアの肩に手を置く。

「申し訳ない、エルナ夫人。妻は少し疲れている。失礼する」

 そのまま彼は、彼女の手を取って会場を離れた。
 背後で「まあ……なんて情熱的」「やっぱり本物だったのね」と囁く声が聞こえた。

 レティシアは、引かれるまま廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。

「……助けてくださったのですね」

「放っておけば、君が困る」

「“妻が困る”とは言わなかったのですね」

「……言うべきだったか?」

 その答えに、レティシアは思わず笑ってしまった。
 彼は少しだけ困ったように眉を寄せる。

「笑うことか?」

「ええ。侯爵様らしいと思って」

 その笑顔を見たセドリックの表情が、わずかに緩んだ。
 仮面の下に、確かに柔らかな笑みが宿る。


---

 馬車に乗り込み、帰路につく。
 車内には沈黙が漂っていたが、心地よい沈黙だった。

「……君は、社交の場が得意なのだな」

「ええ。昔は好きでしたわ。けれど今は、人の噂話ばかりで少し疲れます」

「私もだ。だが、今日の君は堂々としていた。……美しかった」

「……え?」

 思わず言葉を失う。
 セドリックは視線を窓に向けたまま、淡々と続けた。

「噂に惑わされず、己を曲げない女性は、美しいと思う」

 胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
 それは、ただの称賛の言葉――それ以上でも以下でもない。
 けれど、彼の声に嘘がなかった。

 レティシアはそっと瞳を伏せた。
「……ありがとうございます。あなたも、少し笑えば素敵なのに」

 彼がふとこちらを見る。
 その金の瞳に、柔らかな光が宿っていた。

「笑うことを、忘れていたのかもしれない」

「では、これから少しずつ思い出してくださいね」

 そう言って微笑むと、彼の唇がわずかに動いた。
 まるで、ほんの少しだけ笑ったように。


---

 屋敷に戻ると、夜風が二人を迎えた。
 東棟と西棟――別々の道へ向かう前に、セドリックが口を開いた。

「……今日の君は、立派だった」

「ありがとうございます、旦那様。……貴方も、少しだけ優しかったですわ」

 その言葉に、彼は驚いたように瞬きをした。
 そして、ほんの短い沈黙のあとで答える。

「……気をつけよう」

「ふふ、それは褒め言葉です」

 二人の間に、かすかな笑いが生まれた。
 その音は、広い廊下に静かに溶けていく。

 扉が閉まる瞬間、レティシアは胸に手を当てた。
 心臓が早鐘のように鳴っている。

(おかしいわね。これは契約の関係のはずなのに……)

 けれど、胸の奥に灯った小さな光は、もう消せそうになかった。


---

 翌朝。
 王都の新聞には、こんな見出しが躍っていた。

> 『氷の侯爵、ついに氷解す。
舞踏会で夫人に微笑みを――理想の夫婦、ここに誕生』



 レティシアはその記事を見て、呆れたようにため息をついた。
「……理想の夫婦、ですって。困りましたわね」

 机の上には、一輪の白いバラ。
 前夜、彼が自ら庭から摘んだものだった。

 記事を読んだセドリックがどんな顔をしているか――
 想像しただけで、胸の奥がくすぐったくなる。


---

> 噂が真実になるのは、いつだろう。
形式だけの関係のはずが、
その夜の微笑みが、二人の距離を確かに近づけていた。
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