『婚約破棄された私、偽装結婚の果てに真実の結婚にたどり着きました。――もうBL王子には興味ありません!』

しおしお

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2-4 小さな嫉妬と、初めての名前呼び

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第2章 2-4 小さな嫉妬と、初めての名前呼び

 仮面舞踏会から数日が経った。
 その夜の記事――『氷の侯爵、ついに氷解す』――は王都中の話題となり、貴族たちの間で噂が絶えなかった。

 「侯爵夫妻は理想の夫婦」「あの微笑みは真実の愛の証」――そんな憶測が飛び交い、彼らの知らぬところで“完璧な愛妻家”という称号が勝手に定着していく。

 もちろん、当の本人たちは困惑していた。

「……困りましたわね、旦那様。もう買い物にも出られません」
 新聞を畳みながら、レティシアが苦笑する。

「まったく……王都の記者は筆が軽すぎる」
 セドリックはため息をついた。
「次に外に出れば、また妙な記事にされるだろう」

「“氷の侯爵、ついに溶けて愛に溺れる”――なんて見出しが出たらどうしましょう」

「冗談ではない」

 セドリックの苦々しい表情に、レティシアは思わず吹き出した。
「ふふ……失礼。けれど、皆様がそう信じてくださるのなら、それも悪くありませんわ。
 少なくとも、私たちの“形式結婚”を疑う人はいなくなる」

「……それはそうだな」

 彼の口調は冷静だが、どこか不機嫌に聞こえた。
 レティシアはその違和感に首をかしげる。

(どうしたのかしら……まるで、何か気にしているような)

 翌日。
 侯爵邸には、社交界の有力者たちからの手紙が山のように届いた。
 招待状、祝辞、そして――噂の真偽を確かめたいという下心混じりの訪問依頼。

 レティシアはそれらを整理していたが、その中にひときわ鮮やかな封筒を見つけた。
 金の縁取りに、薔薇の紋章。差出人は――第二王子ハーヴェイ。

「……第二王子殿下?」

 文面を開くと、流麗な筆跡でこう記されていた。

“先日の舞踏会にて、貴殿の夫人のご姿を拝見し、深く感銘を受けました。
ぜひ次回の晩餐会にご夫婦でご臨席願いたい。”

 ――夫人のご姿に感銘、という一文に、レティシアはわずかに眉をひそめる。
 それでも、丁寧な文体に悪意は感じられなかった。

「侯爵様にお見せしなければ」
 そう思って書斎を訪れると、セドリックはすでにその手紙を読んでいた。

「……殿下からの招待か」

「ええ。出席なさるおつもりですか?」

 彼は無言のまま、手紙を机に置いた。
 そして、低い声で言った。

「……あの男の目は信用できん」

「殿下を、ですか?」

「昔から、気に入ったものは何でも自分のものにしようとする癖がある。
 特に、美しいものには目がない」

 その言葉に、レティシアの胸がわずかに跳ねた。
 “美しいもの”――それは今、彼女のことを指している。

「ふふ……まさか、私が奪われるとでも?」

「油断は禁物だ」

 短い返答。
 それは護るようでもあり、どこか苛立ちを含んでいた。

(……もしかして、嫉妬?)

 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。
 まさか、氷の侯爵が嫉妬を――?

 彼が顔を背けたのを見て、確信に変わった。

 晩餐会の夜。
 レティシアは淡い青のドレスに身を包み、髪には白い小花を飾った。
 セドリックは黒の燕尾服に青のタイ。
 二人並ぶと、まるで月と夜空のように調和していた。

 王子主催の晩餐会は、思ったよりも形式ばったものだった。
 長いテーブルに並ぶ貴族たち。
 第二王子ハーヴェイは中央に座り、穏やかに微笑んでいる。

「おお、アークハート侯爵。ようこそ」
 彼は立ち上がり、両手を広げた。
「そして――レティシア夫人。あなたの美しさは、まるで夜明けの女神のようだ」

 その口ぶりに、セドリックの眉がわずかに動いた。

「光栄に存じます、殿下」
 レティシアは完璧な笑みで応じる。
 だが、彼の隣でセドリックのグラスがわずかに鳴った。

 周囲の視線が集まる中、ハーヴェイは構わず続ける。
「侯爵、ご夫人を少しお借りしても?」

「……何のご用でしょうか」

「この会の主催として、夫人に乾杯の音頭をお願いしたいのです」

 一瞬の沈黙。
 セドリックは明らかに不快そうに目を細めたが、レティシアが先に微笑んだ。

「もちろん、光栄ですわ。――旦那様?」

 その一言で、彼は小さく息を吐いた。
 彼女を信じるように、頷く。

 レティシアはグラスを掲げ、優雅に立ち上がった。

「皆様、本日はこの素晴らしい場にお招きいただき、誠にありがとうございます。
 夫として、そして臣下として、侯爵が国を支えていることを、妻として誇りに思っております」

 その言葉に、会場が静まり返った。
 そして拍手が起こる。
 ハーヴェイでさえ、言葉を失っていた。

 レティシアが席に戻ると、セドリックは低く囁いた。
「……見事だ」

「お褒めいただけて光栄です、旦那様」

 彼の声が、わずかに掠れていた。

 帰りの馬車の中。
 レティシアは、外の夜景を眺めながら微笑んでいた。
 彼の横顔が窓の光に照らされる。
 いつもより、少しだけ険しい。

「旦那様。まさか、本当に嫉妬なさったの?」

 唐突な問いに、セドリックはわずかに肩を強張らせた。

「……何の話だ」

「ふふ。顔に出ていますわよ」

 彼はしばらく沈黙した後、低く呟いた。
「……もし、君が他の男に笑いかけたら――私は不快だ。
 それが何と呼ばれる感情なのかは、私にも分からない」

 その言葉に、レティシアの胸が一気に熱を帯びた。
 言葉にならないほど、心が震える。

「……それは、嫉妬ですわ、旦那様」

「……そうか」

 彼の指が、そっと彼女の手に触れる。
 その一瞬のぬくもりが、すべてを語っていた。

 屋敷に戻ると、夜の風がひんやりと頬を撫でた。
 東棟へ向かう途中、レティシアは足を止めた。

「旦那様」

「何だ?」

「……名前で呼んでいただけませんか?」

「名前、を?」

「ええ。“夫人”でも“妻”でもなく、私自身として。
 この結婚が形式だけだとしても、せめて――名前で呼ばれたいのです」

 セドリックは目を伏せ、しばらく何も言わなかった。
 静かな夜気が流れ、遠くでフクロウの声が響く。

 そして――

「……レティシア」

 その声は驚くほど優しく、低く響いた。
 まるで、長い冬を越えた春の風のようだった。

 レティシアは息を呑み、そして微笑んだ。
「はい、旦那様」

 彼はゆっくりと首を振る。
「……今は、“旦那様”ではなく、セドリックでいい」

「――セドリック」

 名前を呼んだ瞬間、二人の間の距離が、確かに一歩、近づいた。

 その夜、レティシアの寝室の机には一輪の白いバラがあった。
 だが、いつもと違い――その花弁の中心には、淡い赤が差していた。

 彼が摘んだのだろう。
 “白い契約”の象徴に、初めて色が宿る。

 レティシアは花を胸に抱き、静かに目を閉じた。

(――これは、恋ではない。
 でも、恋よりも確かな何かが、私たちの間に生まれ始めている)

形式だけの結婚が、少しずつ色を帯びていく。
氷の侯爵が呼んだ、たった一言の名前。
それは、レティシアの心に灯った“初恋”の音だった。

🌹
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