『婚約破棄された私、偽装結婚の果てに真実の結婚にたどり着きました。――もうBL王子には興味ありません!』

しおしお

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3-1 夫婦の距離と、不意のぬくもり

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第3章 3-1 夫婦の距離と、不意のぬくもり

 春の風がやわらかく侯爵邸の庭を撫でていた。
 冬の間、眠っていたバラが少しずつ蕾をつけ始め、温室では新芽が顔を覗かせている。

 レティシアは庭師たちの作業を見守りながら、そっと笑みをこぼした。
「……この庭も、だいぶ息を吹き返しましたわね」

「貴女が世話をしてくれたおかげだ」
 背後から穏やかな声がした。
 振り向けば、セドリックが立っていた。
 黒い執務服のまま、朝の光を受けてその銀灰色の瞳がきらめいている。

「お忙しいのに、こんな時間に?」

「視察のついでだ。屋敷の者たちが最近、生き生きとしている。……君の影響だろう」

「まあ、恐れ多いお言葉ですわ」
 軽く会釈するレティシアに、セドリックはわずかに微笑んだ。

 以前は、彼が微笑むなど考えられなかった。
 冷徹と呼ばれるほど表情を崩さなかった彼が、今はこうして穏やかに言葉を交わしてくれる。

 それが不思議で、そして嬉しかった。


---

 昼過ぎ、書斎の机には山のような書類が積まれていた。
 レティシアは手伝いのために入室したが、セドリックの目の下には濃い影が見える。

「旦那様、少しお休みになってくださいませ」

「これを片づけてからだ。報告書の確認が遅れれば、部下が困る」

「ですが、無理をすれば余計に仕事が滞りますわ」

 言いながら、彼の手から書類をすっと取り上げる。
 セドリックは驚いたように瞬きをした。

「……君、私の机に手を出すのは初めてだな」

「奥様ですもの。多少の越権はお許しいただけるでしょう?」

 にっこりと笑ってみせると、彼は口元を押さえて苦笑した。
「……勝てないな」

 結局、レティシアは彼を半ば強引にソファへ座らせ、紅茶を用意した。
 香り高いカモミールティー。
 彼女の手から湯気の立つカップを受け取った彼は、静かに息をついた。

「……温かいな」

「お茶がですか?」

「いや――君の心遣いが、だ」

 その言葉に、レティシアの胸がどくんと跳ねた。
 何気ない一言なのに、まるで恋人に囁かれたように甘い響きだった。

(な、何を考えているの……わたくし、落ち着きなさい! これはただの社交辞令……)

 自分に言い聞かせながらも、頬の熱は下がらない。


---

 その夜。
 書斎での仕事を終えたセドリックが自室へ戻ると、廊下の窓辺でレティシアが月を見上げていた。
 彼女の金糸の髪が月光を受けて輝いている。
 まるで、白い花のようだった。

「こんな時間にどうした」

「眠れなくて……。少し、夜風に当たっておりました」

「風が冷える。体を冷やすな」

 そう言いながら、彼は自分の上着を彼女の肩にかけた。
 突然のことで、レティシアは小さく息を呑んだ。

「せ、セドリック様……?」

「君が風邪をひいたら、屋敷が混乱する」

「……それだけ、ですの?」

 自分でも意地のような言葉だった。
 けれど、セドリックは真っ直ぐに彼女を見つめる。

「それだけではない。君に何かあると――私が、嫌だ」

 短い言葉だったが、その中にどれだけの感情が詰まっているか、レティシアには分かった。

 胸の奥で何かが溶ける音がした。
 あの夜に聞いた名前呼びから、確かに何かが変わり始めている。


---

 翌朝。
 執務中にセドリックがふと目を上げると、窓の外でレティシアがメイドと一緒に花の世話をしていた。
 風に揺れる金髪が光に包まれ、笑うたびに花よりも美しく見える。

 彼は知らず知らず手を止め、しばらく見惚れていた。

 だが、ドアのノックで現実に引き戻される。
 秘書官が書類を差し出しながら、にやりと笑った。

「旦那様、最近お優しいですね。夫人の影響でしょうか?」

「……仕事に集中しろ」

 咳払いをしながら書類を受け取る。
 だが、顔の熱は隠せなかった。


---

 その日の午後、事件が起きた。
 温室で花の剪定をしていたレティシアが、誤って指を切ってしまったのだ。
 小さな傷だったが、血を見た瞬間にセドリックの表情が変わった。

「大丈夫ですわ、少し切っただけです」

「放っておけるか」

 彼は即座に手を取り、ハンカチを巻きつける。
 その手つきは驚くほど丁寧で、そして――震えていた。

「……申し訳ありません。わざわざ」

「謝るな。君が傷つくのは……見たくない」

 その言葉に、レティシアの胸が締めつけられた。
 彼の声は静かだが、どこか必死だった。

「セドリック様……」

「もう“様”はつけるなと言っただろう」

「……セドリック」

 名前を呼ぶと、彼はふっと目を細めた。
 その瞬間、彼女の手を包む指が少し強くなった。

「その方が、ずっといい」

 心臓が跳ねる。
 彼の言葉は、まるで恋の告白のように響いた。


---

 夕暮れ、レティシアは一人、温室の中で息を整えていた。
 指の痛みよりも、胸の鼓動の方が落ち着かない。

(あの人は、どうしてあんなに優しいの? 契約の結婚なのに……)

 思えば、最初は冷たくて、必要最低限の会話しかなかった。
 それが今では、目が合うたびに微笑んでくれる。
 名前を呼んでくれる。
 気づけば、その声が一日の楽しみになっていた。

(……私、まさか、恋を……?)

 自分の頬が熱い。
 答えを出すのが怖かった。


---

 一方そのころ、セドリックは寝室で机に向かっていた。
 だが、手元の書類はまったく頭に入らない。
 レティシアの笑顔が脳裏から離れないのだ。

「……おかしいな」

 独りごちる。
 これまで、どんな美女を見ても心が動いたことなどなかった。
 政治的な婚約、形式的な愛。それが貴族の常だった。
 だが今――彼は、たった一人の笑顔に心を奪われている。

「形式のはずだったのに……」

 その言葉は、静かな夜に溶けた。


---

 夜更け。
 レティシアが寝室へ戻ると、机の上にまた一輪の花が置かれていた。
 昨日と同じ白薔薇――だが、今夜の花は蕾の中心が深紅に染まっている。
 そして、その花弁の下に小さな紙片が添えられていた。

> 『今日は、ありがとう。
どうか無理をするな。
――セドリック』



 その短い一文を見た瞬間、レティシアの目が潤んだ。
 指先で花を撫で、胸に抱きしめる。

「……不器用な人ですわね」

 けれど、その不器用さが、愛おしかった。


---

 侯爵と令嬢。
 形式のはずだった二人の結婚は、もう“形式”の枠を超え始めていた。
 名前を呼ぶこと、手を包むこと、花を贈ること――
 そのどれもが、心の距離を縮めていく。

 そして、レティシアはまだ知らなかった。
 その夜、セドリックもまた、同じ白薔薇を手にして、同じ月を見上げていたことを――。


---

> 契約の夫婦が、互いを想い合うようになった瞬間。
それは恋の始まりでもあり、運命の歯車が回り出す音でもあった。
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