1 / 38
第一話 白い結婚の提案
しおりを挟む
第一話 白い結婚の提案
結婚式の夜というものは、もっと甘やかで、もっと気まずく、そして多少なりとも感情が揺れるものだと思っておりました。
けれど、現実はずいぶんと静かなものでした。
侯爵家の新しい寝室は、広く、整えられ、完璧でした。重厚な天蓋付きの寝台、暖炉の穏やかな火、磨き上げられた床。どこにも瑕疵はありません。まるでこの部屋そのものが、感情など不要だと告げているかのようでした。
私はその中央に立ち、ゆっくりと手袋を外しました。
目の前には、夫となったアレクシス・フォン・グランディス侯爵。軍務派の名門に生まれ、若くして武功を立て、冷徹と名高い方です。
そして彼は、私をまっすぐ見て、ためらいなく言いました。
「先に伝えておく。私には、想っている女性がいる」
ずいぶんと潔い告白ですこと。
私は瞬きを一つだけして、微笑みました。
「まあ」
驚くべき場面なのでしょう。泣き崩れるか、怒るか、あるいは詰るか。そういう反応を期待されたのかもしれません。
けれど、私は首をかしげただけでした。
「正直にお話しくださるのですね」
「……怒らないのか?」
低い声に、ほんのわずかに警戒が混じる。
怒る理由が、どこにありましょう。
「政略結婚でございますもの。お互いに事情があるのは当然ですわ」
私たちは今日、家と家の利害によって結ばれました。愛を誓い合ったわけではありません。式典は華やかでしたが、それは社交界への宣言に過ぎません。
彼が誰を想っていようと、契約内容に変更はないのです。
「では、提案がございます」
私はドレスの裾を整え、静かに言いました。
「白い結婚にいたしましょう」
彼の眉が、わずかに動きました。
「……どういう意味だ」
「夫婦としての義務を、互いに求めないということですわ。干渉もいたしません。もちろん、体裁は整えます。社交の場では仲睦まじい夫婦を演じましょう」
私は穏やかに続けました。
「その代わり、私の生活に干渉なさらないでくださいませ」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てました。
沈黙が落ちます。
彼は私を観察しているようでした。虚勢かどうかを測るように。
「君は……それでいいのか」
「ええ。理想的ですわ」
本心です。
夫が愛を求めないなら、私は自由を得られる。なんと素晴らしい契約でしょう。
私は公爵家の娘。実家の後ろ盾も、資産も、知識も持っております。ここで無理に感情を消耗する必要はありません。
静かな生活。読書。庭園の改修。慈善事業の運営。やりたいことは山ほどあります。
彼はまだ、信じられないという顔をしていました。
「嫉妬は」
「ございません」
「……恨みは」
「契約に含まれておりませんわ」
思わず、彼の口元がわずかに緩みました。初めて見る表情です。
「変わった女だな」
「よく言われます」
実際のところ、泣き喚く方が理解しやすいのでしょう。けれど私は、泣いても現実が変わらないことを知っております。
結婚とは、家同士の合意。そこに幻想を持ち込めば、傷つくのは自分です。
「……分かった」
彼は短く言いました。
「干渉はしない」
「ありがとうございます」
「だが」
低い声が続きます。
「この屋敷は私の家だ。規律は守ってもらう」
「もちろんですわ。奥方としての責務は果たします」
体裁は守る。それが契約。
私は一歩下がり、優雅に一礼しました。
「では、本日はお休みになられますか?」
彼は一瞬、言葉を失ったようでした。
「……同じ部屋で眠る必要はない」
「そうですわね」
私はあっさりとうなずきます。
「隣室を使わせていただきます」
そうしてその夜、私たちは別々の部屋で眠りました。
侯爵家の新しい奥方として迎えられた初夜は、驚くほど静かに終わったのです。
翌朝。
使用人たちの視線が、わずかに揺れていました。
察したのでしょう。
新婚の空気が、存在しないことを。
義母の視線は、さらに露骨でした。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
「ええ、とても」
私は微笑みます。
干渉しない契約は、すでに始まっているのです。
この家の誰も、まだ理解しておりません。
干渉しないということは――
助けない、ということでもあるのだと。
私は朝の紅茶を口に含みながら、穏やかに思いました。
理想的な結婚生活が、ここから始まりますわ。
干渉なさらないのでしょう?
でしたら私も、見ているだけにいたします。
崩れる時も、きっと静かですもの。
結婚式の夜というものは、もっと甘やかで、もっと気まずく、そして多少なりとも感情が揺れるものだと思っておりました。
けれど、現実はずいぶんと静かなものでした。
侯爵家の新しい寝室は、広く、整えられ、完璧でした。重厚な天蓋付きの寝台、暖炉の穏やかな火、磨き上げられた床。どこにも瑕疵はありません。まるでこの部屋そのものが、感情など不要だと告げているかのようでした。
私はその中央に立ち、ゆっくりと手袋を外しました。
目の前には、夫となったアレクシス・フォン・グランディス侯爵。軍務派の名門に生まれ、若くして武功を立て、冷徹と名高い方です。
そして彼は、私をまっすぐ見て、ためらいなく言いました。
「先に伝えておく。私には、想っている女性がいる」
ずいぶんと潔い告白ですこと。
私は瞬きを一つだけして、微笑みました。
「まあ」
驚くべき場面なのでしょう。泣き崩れるか、怒るか、あるいは詰るか。そういう反応を期待されたのかもしれません。
けれど、私は首をかしげただけでした。
「正直にお話しくださるのですね」
「……怒らないのか?」
低い声に、ほんのわずかに警戒が混じる。
怒る理由が、どこにありましょう。
「政略結婚でございますもの。お互いに事情があるのは当然ですわ」
私たちは今日、家と家の利害によって結ばれました。愛を誓い合ったわけではありません。式典は華やかでしたが、それは社交界への宣言に過ぎません。
彼が誰を想っていようと、契約内容に変更はないのです。
「では、提案がございます」
私はドレスの裾を整え、静かに言いました。
「白い結婚にいたしましょう」
彼の眉が、わずかに動きました。
「……どういう意味だ」
「夫婦としての義務を、互いに求めないということですわ。干渉もいたしません。もちろん、体裁は整えます。社交の場では仲睦まじい夫婦を演じましょう」
私は穏やかに続けました。
「その代わり、私の生活に干渉なさらないでくださいませ」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てました。
沈黙が落ちます。
彼は私を観察しているようでした。虚勢かどうかを測るように。
「君は……それでいいのか」
「ええ。理想的ですわ」
本心です。
夫が愛を求めないなら、私は自由を得られる。なんと素晴らしい契約でしょう。
私は公爵家の娘。実家の後ろ盾も、資産も、知識も持っております。ここで無理に感情を消耗する必要はありません。
静かな生活。読書。庭園の改修。慈善事業の運営。やりたいことは山ほどあります。
彼はまだ、信じられないという顔をしていました。
「嫉妬は」
「ございません」
「……恨みは」
「契約に含まれておりませんわ」
思わず、彼の口元がわずかに緩みました。初めて見る表情です。
「変わった女だな」
「よく言われます」
実際のところ、泣き喚く方が理解しやすいのでしょう。けれど私は、泣いても現実が変わらないことを知っております。
結婚とは、家同士の合意。そこに幻想を持ち込めば、傷つくのは自分です。
「……分かった」
彼は短く言いました。
「干渉はしない」
「ありがとうございます」
「だが」
低い声が続きます。
「この屋敷は私の家だ。規律は守ってもらう」
「もちろんですわ。奥方としての責務は果たします」
体裁は守る。それが契約。
私は一歩下がり、優雅に一礼しました。
「では、本日はお休みになられますか?」
彼は一瞬、言葉を失ったようでした。
「……同じ部屋で眠る必要はない」
「そうですわね」
私はあっさりとうなずきます。
「隣室を使わせていただきます」
そうしてその夜、私たちは別々の部屋で眠りました。
侯爵家の新しい奥方として迎えられた初夜は、驚くほど静かに終わったのです。
翌朝。
使用人たちの視線が、わずかに揺れていました。
察したのでしょう。
新婚の空気が、存在しないことを。
義母の視線は、さらに露骨でした。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
「ええ、とても」
私は微笑みます。
干渉しない契約は、すでに始まっているのです。
この家の誰も、まだ理解しておりません。
干渉しないということは――
助けない、ということでもあるのだと。
私は朝の紅茶を口に含みながら、穏やかに思いました。
理想的な結婚生活が、ここから始まりますわ。
干渉なさらないのでしょう?
でしたら私も、見ているだけにいたします。
崩れる時も、きっと静かですもの。
22
あなたにおすすめの小説
白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします
鷹 綾
恋愛
「白い結婚」であることを理由に、夫から離縁を突きつけられた公爵夫人エリシア。
だが彼女は泣かなかった。
なぜなら――その結婚は、最初から“成立していなかった”から。
教会法に基づき婚姻無効を申請。持参金を全額回収し、彼女が選んだ新たな居場所は修道院だった。
それは逃避ではない。
男の支配から離れ、国家の外側に立つという戦略的選択。
やがて彼女は修道院長として、教育制度の整備、女性領主の育成、商業と医療の再編に関わり、王と王妃を外から支える存在となる。
王冠を欲さず、しかし王冠に影響を与える――白の領域。
一方、かつての夫は地位を失い、制度の中で静かに贖罪の道を歩む。
これは、愛を巡る物語ではない。
「選ばなかった未来」を守り続けた一人の女性の物語。
白は弱さではない。
白は、均衡を保つ力。
白い結婚から始まる、静かなリーガル・リベンジと国家再編の物語。
出て行けと言ったものの、本当に出て行かれるとは思っていなかった旦那様
睡蓮
恋愛
ジーク伯爵は、溺愛する自身の妹レイアと共謀する形で、婚約者であるユフィーナの事を追放することを決めた。ただその理由は、ユフィーナが婚約破棄を素直に受け入れることはないであろうと油断していたためだった。しかしユフィーナは二人の予想を裏切り、婚約破棄を受け入れるそぶりを見せる。予想外の行動をとられたことで焦りの色を隠せない二人は、ユフィーナを呼び戻すべく様々な手段を講じるのであったが…。
王太子妃は離婚したい
凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。
だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。
※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。
綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。
これまで応援いただき、本当にありがとうございました。
レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。
https://www.regina-books.com/extra/login
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろう、カクヨムにも掲載中です)
《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから
ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。
彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。
【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました
よどら文鳥
恋愛
ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。
ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。
ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。
更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。
再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。
ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。
後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。
ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる