白い結婚は終わりました。――崩れない家を築くまで

しおしお

文字の大きさ
2 / 38

第二話 干渉しない契約書

しおりを挟む
第二話 干渉しない契約書

 白い結婚の提案をした翌朝、私はいつもより早く目を覚ましました。

 眠りは浅くも深くもなく、ただ穏やかでした。新婚の朝にしては驚くほど静かで、心の中にざわめきはありません。自分でも不思議に思います。普通の花嫁であれば、不安や期待や後悔が入り混じるのでしょうに。

 けれど私は、むしろ清々しい気分でした。

 これからの生活の輪郭が、はっきりと見えているからです。

 身支度を整え、侍女に髪を結わせながら、私は静かに言いました。

「筆記具と羊皮紙を用意してくださる?」

「奥様、今からでございますか?」

「ええ。大切なことは、曖昧にしてはいけませんもの」

 侍女は少し驚いた顔をしましたが、何も言わずに従いました。賢い子です。観察はするけれど、詮索はしない。

 私は机に向かい、羽根ペンを取りました。

 契約とは、口約束では意味を持ちません。

 言葉は揺らぎます。感情で変わります。都合よく解釈されます。

 けれど、文書は揺らがない。

 私はゆっくりと書き始めました。

 一、夫婦は互いの私生活に干渉しないこと。
 一、夫婦の義務は社交上の体裁維持に限定すること。
 一、後継ぎ問題については双方合意の上で決定すること。
 一、本契約に反する要求は無効とする。

 簡潔でよろしいでしょう。

 感情を挟む余地のない、乾いた条文。

 私は紙を整え、封蝋を用意しました。

 そこへ、扉を叩く音が響きます。

「入れ」

 低い声。

 アレクシスでした。

 彼は軍服姿のまま、朝の光を背負って立っています。無駄のない姿勢。鋭い眼差し。冷たい、と評される理由がよく分かります。

「何か用か」

「ええ。昨夜のお話を文書にまとめましたの」

 私は立ち上がり、羊皮紙を差し出しました。

 彼の眉が、わずかに動きます。

「……本気なのか」

「もちろんですわ。契約は明確であるべきですもの」

 彼は紙を受け取り、目を通しました。

 静かな沈黙が流れます。

 その間、私は彼の表情を観察しました。怒りはありません。困惑が、ほんの少し。

「随分と冷静だな」

「泣き喚くより合理的でしょう?」

「普通の女なら、ここで条件を突きつける」

「私も突きつけておりますわ」

 私は微笑みます。

「干渉しない、という条件を」

 彼は一瞬、言葉を失いました。

「……君は、本当に嫉妬しないのか」

「嫉妬は、相手に期待しているから生まれる感情ですわ」

 私は正直に答えました。

「期待しておりませんもの」

 その瞬間、彼の視線が鋭くなりました。

 あら、少し刺さりましたか?

 けれどこれは事実です。

 愛を前提としない結婚で、嫉妬を持つ方が不自然でしょう。

 彼はしばらく黙り込み、やがて羽根ペンを取りました。

「いいだろう」

 さらり、と署名が走ります。

 その音は、思いのほか重く響きました。

 私は自分の名をその下に添え、封蝋で封じます。

 契約成立。

 これで、曖昧さは消えました。

「これで、あなたも安心でしょう?」

「……安心?」

「私が面倒を起こすことはございません」

 彼はじっと私を見つめました。

 昨夜よりも、少し長く。

「君は不思議だ」

「よく言われます」

「怒らない女は信用できない」

「干渉しないと約束しましたもの」

 私は軽く頭を下げます。

「私も、あなたの自由を尊重いたします」

 その言葉に、彼の表情がほんのわずかに揺れました。

 自由。

 それは、彼が望んでいたはずのもの。

 けれど、それを差し出されると人は戸惑うのです。

「……好きにするといい」

「ありがとうございます」

 彼は背を向け、部屋を出ていきました。

 扉が閉まる音が、やけに乾いて響きます。

 私は深く息を吐きました。

 これでよろしい。

 干渉しない契約は、正式に成立したのです。

 その日の午後、義母に呼び出されました。

「随分と聞き分けが良いようね」

「そうでしょうか」

「夫を束縛しない妻は、賢いわ」

 ええ、賢いでしょうとも。

 束縛しない代わりに、助けもしません。

 その意味を、まだ誰も理解していない。

「あなたには期待しているわ」

「光栄ですわ」

 私は穏やかに微笑みました。

 義母は満足げにうなずきます。

 扱いやすい嫁だと、そう判断したのでしょう。

 構いません。

 扱いやすいと思ってくださって結構です。

 夕刻、庭園を歩きながら、私は思いました。

 契約とは対等な合意。

 干渉しないという約束は、双方に適用されます。

 つまり――

 困ったときも、私は干渉しない。

 助言も、支援も、先回りも、いたしません。

 私はただ、奥方として体裁を整え、静かに暮らすだけ。

 それが理想的な白い結婚。

 そして私は、驚くほど自由です。

 屋敷の空気はまだ穏やかですが、どこかで小さな歯車が噛み合っていない音がする。

 私はそれを、聞こえないふりをいたします。

 干渉しない契約ですもの。

 崩れるときも、きっと静かですわ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾
恋愛
「白い結婚」であることを理由に、夫から離縁を突きつけられた公爵夫人エリシア。 だが彼女は泣かなかった。 なぜなら――その結婚は、最初から“成立していなかった”から。 教会法に基づき婚姻無効を申請。持参金を全額回収し、彼女が選んだ新たな居場所は修道院だった。 それは逃避ではない。 男の支配から離れ、国家の外側に立つという戦略的選択。 やがて彼女は修道院長として、教育制度の整備、女性領主の育成、商業と医療の再編に関わり、王と王妃を外から支える存在となる。 王冠を欲さず、しかし王冠に影響を与える――白の領域。 一方、かつての夫は地位を失い、制度の中で静かに贖罪の道を歩む。 これは、愛を巡る物語ではない。 「選ばなかった未来」を守り続けた一人の女性の物語。 白は弱さではない。 白は、均衡を保つ力。 白い結婚から始まる、静かなリーガル・リベンジと国家再編の物語。

出て行けと言ったものの、本当に出て行かれるとは思っていなかった旦那様

睡蓮
恋愛
ジーク伯爵は、溺愛する自身の妹レイアと共謀する形で、婚約者であるユフィーナの事を追放することを決めた。ただその理由は、ユフィーナが婚約破棄を素直に受け入れることはないであろうと油断していたためだった。しかしユフィーナは二人の予想を裏切り、婚約破棄を受け入れるそぶりを見せる。予想外の行動をとられたことで焦りの色を隠せない二人は、ユフィーナを呼び戻すべく様々な手段を講じるのであったが…。

王太子妃は離婚したい

凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。 だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。 ※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。 綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。 これまで応援いただき、本当にありがとうございました。 レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。 https://www.regina-books.com/extra/login

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろう、カクヨムにも掲載中です)

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました

よどら文鳥
恋愛
 ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。  ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。  ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。  更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。  再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。  ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。  後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。  ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

処理中です...