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第二話 干渉しない契約書
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第二話 干渉しない契約書
白い結婚の提案をした翌朝、私はいつもより早く目を覚ましました。
眠りは浅くも深くもなく、ただ穏やかでした。新婚の朝にしては驚くほど静かで、心の中にざわめきはありません。自分でも不思議に思います。普通の花嫁であれば、不安や期待や後悔が入り混じるのでしょうに。
けれど私は、むしろ清々しい気分でした。
これからの生活の輪郭が、はっきりと見えているからです。
身支度を整え、侍女に髪を結わせながら、私は静かに言いました。
「筆記具と羊皮紙を用意してくださる?」
「奥様、今からでございますか?」
「ええ。大切なことは、曖昧にしてはいけませんもの」
侍女は少し驚いた顔をしましたが、何も言わずに従いました。賢い子です。観察はするけれど、詮索はしない。
私は机に向かい、羽根ペンを取りました。
契約とは、口約束では意味を持ちません。
言葉は揺らぎます。感情で変わります。都合よく解釈されます。
けれど、文書は揺らがない。
私はゆっくりと書き始めました。
一、夫婦は互いの私生活に干渉しないこと。
一、夫婦の義務は社交上の体裁維持に限定すること。
一、後継ぎ問題については双方合意の上で決定すること。
一、本契約に反する要求は無効とする。
簡潔でよろしいでしょう。
感情を挟む余地のない、乾いた条文。
私は紙を整え、封蝋を用意しました。
そこへ、扉を叩く音が響きます。
「入れ」
低い声。
アレクシスでした。
彼は軍服姿のまま、朝の光を背負って立っています。無駄のない姿勢。鋭い眼差し。冷たい、と評される理由がよく分かります。
「何か用か」
「ええ。昨夜のお話を文書にまとめましたの」
私は立ち上がり、羊皮紙を差し出しました。
彼の眉が、わずかに動きます。
「……本気なのか」
「もちろんですわ。契約は明確であるべきですもの」
彼は紙を受け取り、目を通しました。
静かな沈黙が流れます。
その間、私は彼の表情を観察しました。怒りはありません。困惑が、ほんの少し。
「随分と冷静だな」
「泣き喚くより合理的でしょう?」
「普通の女なら、ここで条件を突きつける」
「私も突きつけておりますわ」
私は微笑みます。
「干渉しない、という条件を」
彼は一瞬、言葉を失いました。
「……君は、本当に嫉妬しないのか」
「嫉妬は、相手に期待しているから生まれる感情ですわ」
私は正直に答えました。
「期待しておりませんもの」
その瞬間、彼の視線が鋭くなりました。
あら、少し刺さりましたか?
けれどこれは事実です。
愛を前提としない結婚で、嫉妬を持つ方が不自然でしょう。
彼はしばらく黙り込み、やがて羽根ペンを取りました。
「いいだろう」
さらり、と署名が走ります。
その音は、思いのほか重く響きました。
私は自分の名をその下に添え、封蝋で封じます。
契約成立。
これで、曖昧さは消えました。
「これで、あなたも安心でしょう?」
「……安心?」
「私が面倒を起こすことはございません」
彼はじっと私を見つめました。
昨夜よりも、少し長く。
「君は不思議だ」
「よく言われます」
「怒らない女は信用できない」
「干渉しないと約束しましたもの」
私は軽く頭を下げます。
「私も、あなたの自由を尊重いたします」
その言葉に、彼の表情がほんのわずかに揺れました。
自由。
それは、彼が望んでいたはずのもの。
けれど、それを差し出されると人は戸惑うのです。
「……好きにするといい」
「ありがとうございます」
彼は背を向け、部屋を出ていきました。
扉が閉まる音が、やけに乾いて響きます。
私は深く息を吐きました。
これでよろしい。
干渉しない契約は、正式に成立したのです。
その日の午後、義母に呼び出されました。
「随分と聞き分けが良いようね」
「そうでしょうか」
「夫を束縛しない妻は、賢いわ」
ええ、賢いでしょうとも。
束縛しない代わりに、助けもしません。
その意味を、まだ誰も理解していない。
「あなたには期待しているわ」
「光栄ですわ」
私は穏やかに微笑みました。
義母は満足げにうなずきます。
扱いやすい嫁だと、そう判断したのでしょう。
構いません。
扱いやすいと思ってくださって結構です。
夕刻、庭園を歩きながら、私は思いました。
契約とは対等な合意。
干渉しないという約束は、双方に適用されます。
つまり――
困ったときも、私は干渉しない。
助言も、支援も、先回りも、いたしません。
私はただ、奥方として体裁を整え、静かに暮らすだけ。
それが理想的な白い結婚。
そして私は、驚くほど自由です。
屋敷の空気はまだ穏やかですが、どこかで小さな歯車が噛み合っていない音がする。
私はそれを、聞こえないふりをいたします。
干渉しない契約ですもの。
崩れるときも、きっと静かですわ。
白い結婚の提案をした翌朝、私はいつもより早く目を覚ましました。
眠りは浅くも深くもなく、ただ穏やかでした。新婚の朝にしては驚くほど静かで、心の中にざわめきはありません。自分でも不思議に思います。普通の花嫁であれば、不安や期待や後悔が入り混じるのでしょうに。
けれど私は、むしろ清々しい気分でした。
これからの生活の輪郭が、はっきりと見えているからです。
身支度を整え、侍女に髪を結わせながら、私は静かに言いました。
「筆記具と羊皮紙を用意してくださる?」
「奥様、今からでございますか?」
「ええ。大切なことは、曖昧にしてはいけませんもの」
侍女は少し驚いた顔をしましたが、何も言わずに従いました。賢い子です。観察はするけれど、詮索はしない。
私は机に向かい、羽根ペンを取りました。
契約とは、口約束では意味を持ちません。
言葉は揺らぎます。感情で変わります。都合よく解釈されます。
けれど、文書は揺らがない。
私はゆっくりと書き始めました。
一、夫婦は互いの私生活に干渉しないこと。
一、夫婦の義務は社交上の体裁維持に限定すること。
一、後継ぎ問題については双方合意の上で決定すること。
一、本契約に反する要求は無効とする。
簡潔でよろしいでしょう。
感情を挟む余地のない、乾いた条文。
私は紙を整え、封蝋を用意しました。
そこへ、扉を叩く音が響きます。
「入れ」
低い声。
アレクシスでした。
彼は軍服姿のまま、朝の光を背負って立っています。無駄のない姿勢。鋭い眼差し。冷たい、と評される理由がよく分かります。
「何か用か」
「ええ。昨夜のお話を文書にまとめましたの」
私は立ち上がり、羊皮紙を差し出しました。
彼の眉が、わずかに動きます。
「……本気なのか」
「もちろんですわ。契約は明確であるべきですもの」
彼は紙を受け取り、目を通しました。
静かな沈黙が流れます。
その間、私は彼の表情を観察しました。怒りはありません。困惑が、ほんの少し。
「随分と冷静だな」
「泣き喚くより合理的でしょう?」
「普通の女なら、ここで条件を突きつける」
「私も突きつけておりますわ」
私は微笑みます。
「干渉しない、という条件を」
彼は一瞬、言葉を失いました。
「……君は、本当に嫉妬しないのか」
「嫉妬は、相手に期待しているから生まれる感情ですわ」
私は正直に答えました。
「期待しておりませんもの」
その瞬間、彼の視線が鋭くなりました。
あら、少し刺さりましたか?
けれどこれは事実です。
愛を前提としない結婚で、嫉妬を持つ方が不自然でしょう。
彼はしばらく黙り込み、やがて羽根ペンを取りました。
「いいだろう」
さらり、と署名が走ります。
その音は、思いのほか重く響きました。
私は自分の名をその下に添え、封蝋で封じます。
契約成立。
これで、曖昧さは消えました。
「これで、あなたも安心でしょう?」
「……安心?」
「私が面倒を起こすことはございません」
彼はじっと私を見つめました。
昨夜よりも、少し長く。
「君は不思議だ」
「よく言われます」
「怒らない女は信用できない」
「干渉しないと約束しましたもの」
私は軽く頭を下げます。
「私も、あなたの自由を尊重いたします」
その言葉に、彼の表情がほんのわずかに揺れました。
自由。
それは、彼が望んでいたはずのもの。
けれど、それを差し出されると人は戸惑うのです。
「……好きにするといい」
「ありがとうございます」
彼は背を向け、部屋を出ていきました。
扉が閉まる音が、やけに乾いて響きます。
私は深く息を吐きました。
これでよろしい。
干渉しない契約は、正式に成立したのです。
その日の午後、義母に呼び出されました。
「随分と聞き分けが良いようね」
「そうでしょうか」
「夫を束縛しない妻は、賢いわ」
ええ、賢いでしょうとも。
束縛しない代わりに、助けもしません。
その意味を、まだ誰も理解していない。
「あなたには期待しているわ」
「光栄ですわ」
私は穏やかに微笑みました。
義母は満足げにうなずきます。
扱いやすい嫁だと、そう判断したのでしょう。
構いません。
扱いやすいと思ってくださって結構です。
夕刻、庭園を歩きながら、私は思いました。
契約とは対等な合意。
干渉しないという約束は、双方に適用されます。
つまり――
困ったときも、私は干渉しない。
助言も、支援も、先回りも、いたしません。
私はただ、奥方として体裁を整え、静かに暮らすだけ。
それが理想的な白い結婚。
そして私は、驚くほど自由です。
屋敷の空気はまだ穏やかですが、どこかで小さな歯車が噛み合っていない音がする。
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