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第四話 優しい誤解
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第四話 優しい誤解
侯爵家の空気は、今日も穏やかでした。
少なくとも、表向きは。
朝の光が大広間の窓から差し込み、磨き上げられた床に淡く反射しています。使用人たちは静かに行き交い、義母は応接室で来客の予定を確認し、義弟はいつものように外出の支度をしている。
何も問題はないように見える。
けれど私は、紅茶を口に含みながら、その“何もなさ”の中にある微細な歪みを感じていました。
昨日、債権者が来訪した件は、使用人たちの間でもすでに話題になっているようです。ひそやかな視線。小さな囁き。
それでも表情は整えられている。
侯爵家は名門。簡単には揺らがない。
……揺らいでいるのは、内側だけ。
「奥様」
侍女のエミリアが、控えめに声をかけました。
「本日の午後、奥様宛てにお客様が」
「まあ、どなたかしら」
「リリア様と名乗る女性でございます」
その名に、私はわずかに目を細めました。
リリア。
夫が想っていると告げた女性。
ついに、来られましたのね。
「お通しして」
私は穏やかに答えました。
応接室に現れた彼女は、質素なドレスを身にまとった若い女性でした。上等とは言えませんが、清潔で丁寧に仕立てられています。緊張しているのが手に取るように分かる。
あら、想像よりもずっと素直そうな方。
「は、はじめまして……ルチアーナ様」
彼女は深く頭を下げました。
「リリアと申します」
「お顔を上げてくださいませ」
私は微笑みました。
「お会いしたかったのです」
彼女は目を丸くします。
「え……?」
「旦那様からお話は伺っております」
その瞬間、彼女の顔色が変わりました。
罪悪感。恐れ。決意。
ああ、この方は何も知らないのですね。
「申し訳ありません……!」
彼女は勢いよく頭を下げました。
「私は、奥様のお立場を奪うつもりなど――」
「まあ、立場は奪えませんわ」
私は首をかしげます。
「契約ですもの」
「……契約?」
私は白い結婚の説明を簡潔に伝えました。
干渉しないこと。夫婦の義務を求めないこと。体裁だけを整えること。
リリアは呆然としています。
「そ、そのような……」
「理想的でしょう?」
私は本心で言いました。
「旦那様には旦那様のお気持ちがある。私は私の生活を守る。それだけですわ」
彼女は混乱しながらも、じっと私を見つめました。
「……怒って、いらっしゃらないのですか」
「怒る理由がございませんもの」
リリアの目に、涙が滲みます。
これは罪悪感ではありません。
安堵です。
彼女は恐れていたのでしょう。侯爵夫人からの冷たい視線を。嫉妬を。排除を。
けれど私は何もしない。
それは彼女にとって、救い。
そして同時に――
侯爵家にとっては、見落とし。
「どうか、これからも旦那様をお支えくださいませ」
私はそう言って、紅茶を差し出しました。
リリアは震える手でカップを受け取ります。
「……奥様は、とてもお優しいのですね」
優しい。
その言葉に、私はほんの少しだけ目を伏せました。
優しいのでしょうか。
干渉しないだけ。
助けないだけ。
止めないだけ。
それは、優しさと呼べるのかしら。
夕刻、アレクシスが戻ると、彼はすぐに私を探しました。
「リリアが来たと聞いた」
「ええ。素敵な方でしたわ」
彼は明らかに動揺しています。
「……何を話した」
「契約のことを」
「なぜだ」
「隠す必要がございませんもの」
彼は唇を引き結びました。
「君は、どうしてそこまで平然としていられる」
「約束を守っているだけですわ」
私は彼をまっすぐ見つめます。
「干渉しないと決めたのは、あなたでしょう?」
彼は言葉を失いました。
私が責めないことが、彼を落ち着かせると思ったのでしょうか。
いいえ。
人は、許されると苦しくなるのです。
その夜、義母が私の部屋を訪れました。
「リリアに会ったそうね」
「ええ」
「賢明だわ。余計な揉め事は起こさないことよ」
「心得ております」
義母は満足そうに頷きました。
「あなたは本当に扱いやすい」
私は穏やかに微笑みました。
「光栄ですわ」
扱いやすい嫁。
干渉しない妻。
優しい奥方。
そう思っていただいて結構。
私は何も奪いません。
何も止めません。
何も言いません。
その代わり――
崩れる時も、私は手を伸ばしません。
優しい誤解が、この家を包んでいる。
それが解ける日まで、私はただ微笑んでいるだけです。
侯爵家の空気は、今日も穏やかでした。
少なくとも、表向きは。
朝の光が大広間の窓から差し込み、磨き上げられた床に淡く反射しています。使用人たちは静かに行き交い、義母は応接室で来客の予定を確認し、義弟はいつものように外出の支度をしている。
何も問題はないように見える。
けれど私は、紅茶を口に含みながら、その“何もなさ”の中にある微細な歪みを感じていました。
昨日、債権者が来訪した件は、使用人たちの間でもすでに話題になっているようです。ひそやかな視線。小さな囁き。
それでも表情は整えられている。
侯爵家は名門。簡単には揺らがない。
……揺らいでいるのは、内側だけ。
「奥様」
侍女のエミリアが、控えめに声をかけました。
「本日の午後、奥様宛てにお客様が」
「まあ、どなたかしら」
「リリア様と名乗る女性でございます」
その名に、私はわずかに目を細めました。
リリア。
夫が想っていると告げた女性。
ついに、来られましたのね。
「お通しして」
私は穏やかに答えました。
応接室に現れた彼女は、質素なドレスを身にまとった若い女性でした。上等とは言えませんが、清潔で丁寧に仕立てられています。緊張しているのが手に取るように分かる。
あら、想像よりもずっと素直そうな方。
「は、はじめまして……ルチアーナ様」
彼女は深く頭を下げました。
「リリアと申します」
「お顔を上げてくださいませ」
私は微笑みました。
「お会いしたかったのです」
彼女は目を丸くします。
「え……?」
「旦那様からお話は伺っております」
その瞬間、彼女の顔色が変わりました。
罪悪感。恐れ。決意。
ああ、この方は何も知らないのですね。
「申し訳ありません……!」
彼女は勢いよく頭を下げました。
「私は、奥様のお立場を奪うつもりなど――」
「まあ、立場は奪えませんわ」
私は首をかしげます。
「契約ですもの」
「……契約?」
私は白い結婚の説明を簡潔に伝えました。
干渉しないこと。夫婦の義務を求めないこと。体裁だけを整えること。
リリアは呆然としています。
「そ、そのような……」
「理想的でしょう?」
私は本心で言いました。
「旦那様には旦那様のお気持ちがある。私は私の生活を守る。それだけですわ」
彼女は混乱しながらも、じっと私を見つめました。
「……怒って、いらっしゃらないのですか」
「怒る理由がございませんもの」
リリアの目に、涙が滲みます。
これは罪悪感ではありません。
安堵です。
彼女は恐れていたのでしょう。侯爵夫人からの冷たい視線を。嫉妬を。排除を。
けれど私は何もしない。
それは彼女にとって、救い。
そして同時に――
侯爵家にとっては、見落とし。
「どうか、これからも旦那様をお支えくださいませ」
私はそう言って、紅茶を差し出しました。
リリアは震える手でカップを受け取ります。
「……奥様は、とてもお優しいのですね」
優しい。
その言葉に、私はほんの少しだけ目を伏せました。
優しいのでしょうか。
干渉しないだけ。
助けないだけ。
止めないだけ。
それは、優しさと呼べるのかしら。
夕刻、アレクシスが戻ると、彼はすぐに私を探しました。
「リリアが来たと聞いた」
「ええ。素敵な方でしたわ」
彼は明らかに動揺しています。
「……何を話した」
「契約のことを」
「なぜだ」
「隠す必要がございませんもの」
彼は唇を引き結びました。
「君は、どうしてそこまで平然としていられる」
「約束を守っているだけですわ」
私は彼をまっすぐ見つめます。
「干渉しないと決めたのは、あなたでしょう?」
彼は言葉を失いました。
私が責めないことが、彼を落ち着かせると思ったのでしょうか。
いいえ。
人は、許されると苦しくなるのです。
その夜、義母が私の部屋を訪れました。
「リリアに会ったそうね」
「ええ」
「賢明だわ。余計な揉め事は起こさないことよ」
「心得ております」
義母は満足そうに頷きました。
「あなたは本当に扱いやすい」
私は穏やかに微笑みました。
「光栄ですわ」
扱いやすい嫁。
干渉しない妻。
優しい奥方。
そう思っていただいて結構。
私は何も奪いません。
何も止めません。
何も言いません。
その代わり――
崩れる時も、私は手を伸ばしません。
優しい誤解が、この家を包んでいる。
それが解ける日まで、私はただ微笑んでいるだけです。
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