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第五話 小さな綻び
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第五話 小さな綻び
侯爵家の屋敷は、今日も静かでした。
表面だけを見れば、何も変わらない。義母は応接室で来客を迎え、義弟は相変わらず華やかな外套をまとって外出し、使用人たちは忙しなくも整然と動いている。
私は窓辺の長椅子に腰掛け、庭園を眺めておりました。
春の花が咲き始めています。私が手を入れた花壇は順調で、土の質も水の流れも整っている。きちんと管理すれば、植物は応えてくれる。
人間も同じならよろしいのに。
「奥様」
エミリアが小声で近づいてきました。
「今朝、納入業者が来ておりました」
「まあ、どの業者かしら」
「食料の卸でございます。支払いの件で……」
私はゆっくりと立ち上がりました。
「応接室へ案内して」
応接室に通された男は、恭しく頭を下げましたが、その額には薄く汗が浮いています。
「奥様、このようなことを申し上げるのは心苦しいのですが……」
「構いませんわ」
私は柔らかく言いました。
「契約の確認でしょう?」
男は一瞬、目を瞬かせました。
「はい。先月分の支払いが、まだでして」
帳簿上では“来月一括払い”に変更されているはず。
義弟の判断でしょう。
「本来なら侯爵様にお話しするべきかと存じましたが、奥様のお名前で契約更新がなされておりますので」
私は小さく息を吐きました。
そういう形に、なっているのですね。
「書類を拝見しても?」
男が差し出した契約書には、確かに私の名が記されています。筆跡は違いますが、印章は本物。
あら。
随分と大胆ですこと。
私はしばらく書類を眺め、そして静かに言いました。
「契約は守られるべきものですわ」
「では……」
「ですが、支払いの判断権は当主にございます」
男は戸惑います。
「私は干渉しない立場ですの」
それは事実。
屋敷内の経理管理は任されていますが、資金移動の最終承認は当主。
契約に反することはいたしません。
「旦那様に直接ご相談なさってくださいませ」
男は不安そうにしながらも、深く頭を下げて去っていきました。
エミリアが、心配そうに私を見上げます。
「奥様……よろしかったのでしょうか」
「よろしいのよ」
私は微笑みました。
「干渉しない約束ですもの」
午後、義母が珍しく苛立った様子で私の部屋を訪れました。
「業者が直接アレクシスのもとへ行ったそうよ」
「まあ」
「あなたが止めなかったからでしょう?」
私はゆっくりとカップを置きました。
「止める、とは?」
「あなたは奥方でしょう。屋敷の管理を任せているのよ」
「管理はしておりますわ」
私は穏やかに答えます。
「ですが、資金の最終決定権は旦那様」
義母は唇を噛みました。
「融通というものがあるでしょう」
「契約にない融通は、できませんわ」
義母の目に、はっきりとした不満が浮かびました。
けれど彼女は何も言えません。
私が間違っていないから。
その夜、アレクシスが珍しく苛立った様子で帰宅しました。
「支払いの件を聞いた」
「ええ」
「なぜ私に直接回した」
「契約通りですわ」
私は彼を見上げました。
「干渉しないと決めたのは、あなたでしょう?」
彼は沈黙します。
「屋敷の体裁が揺らげば、君の立場も危うい」
「体裁は整えております」
社交界では、何も問題は表面化していない。
まだ。
彼は私をじっと見つめました。
「君は……本当に何も思わないのか」
「思っておりますわ」
「何を」
「数字は正直だと」
彼の眉が寄ります。
「小さな綻びは、放置すれば広がります」
「ならば」
「干渉しない契約です」
私はやわらかく遮りました。
彼はそれ以上言えません。
約束は彼自身が選んだもの。
私はそれを守っているだけ。
その晩、廊下で義弟とすれ違いました。
「義姉上は、冷たい方ですね」
軽い笑み。
「そうかしら」
「もう少し融通が利けば、皆が楽になるのに」
私は彼を見つめました。
「融通は、契約に含まれておりません」
彼は肩をすくめます。
「変わった人だ」
「よく言われます」
彼は去っていきました。
背中に、ほんの少しの焦りを滲ませながら。
庭園の花は、順調に育っています。
けれど屋敷の中では、小さな亀裂が増えている。
私はそれを知っている。
知っていて、触れない。
干渉しない契約ですもの。
優しさと無関心は、時にとてもよく似ている。
そして今、侯爵家はその違いに、まだ気づいていないのです。
侯爵家の屋敷は、今日も静かでした。
表面だけを見れば、何も変わらない。義母は応接室で来客を迎え、義弟は相変わらず華やかな外套をまとって外出し、使用人たちは忙しなくも整然と動いている。
私は窓辺の長椅子に腰掛け、庭園を眺めておりました。
春の花が咲き始めています。私が手を入れた花壇は順調で、土の質も水の流れも整っている。きちんと管理すれば、植物は応えてくれる。
人間も同じならよろしいのに。
「奥様」
エミリアが小声で近づいてきました。
「今朝、納入業者が来ておりました」
「まあ、どの業者かしら」
「食料の卸でございます。支払いの件で……」
私はゆっくりと立ち上がりました。
「応接室へ案内して」
応接室に通された男は、恭しく頭を下げましたが、その額には薄く汗が浮いています。
「奥様、このようなことを申し上げるのは心苦しいのですが……」
「構いませんわ」
私は柔らかく言いました。
「契約の確認でしょう?」
男は一瞬、目を瞬かせました。
「はい。先月分の支払いが、まだでして」
帳簿上では“来月一括払い”に変更されているはず。
義弟の判断でしょう。
「本来なら侯爵様にお話しするべきかと存じましたが、奥様のお名前で契約更新がなされておりますので」
私は小さく息を吐きました。
そういう形に、なっているのですね。
「書類を拝見しても?」
男が差し出した契約書には、確かに私の名が記されています。筆跡は違いますが、印章は本物。
あら。
随分と大胆ですこと。
私はしばらく書類を眺め、そして静かに言いました。
「契約は守られるべきものですわ」
「では……」
「ですが、支払いの判断権は当主にございます」
男は戸惑います。
「私は干渉しない立場ですの」
それは事実。
屋敷内の経理管理は任されていますが、資金移動の最終承認は当主。
契約に反することはいたしません。
「旦那様に直接ご相談なさってくださいませ」
男は不安そうにしながらも、深く頭を下げて去っていきました。
エミリアが、心配そうに私を見上げます。
「奥様……よろしかったのでしょうか」
「よろしいのよ」
私は微笑みました。
「干渉しない約束ですもの」
午後、義母が珍しく苛立った様子で私の部屋を訪れました。
「業者が直接アレクシスのもとへ行ったそうよ」
「まあ」
「あなたが止めなかったからでしょう?」
私はゆっくりとカップを置きました。
「止める、とは?」
「あなたは奥方でしょう。屋敷の管理を任せているのよ」
「管理はしておりますわ」
私は穏やかに答えます。
「ですが、資金の最終決定権は旦那様」
義母は唇を噛みました。
「融通というものがあるでしょう」
「契約にない融通は、できませんわ」
義母の目に、はっきりとした不満が浮かびました。
けれど彼女は何も言えません。
私が間違っていないから。
その夜、アレクシスが珍しく苛立った様子で帰宅しました。
「支払いの件を聞いた」
「ええ」
「なぜ私に直接回した」
「契約通りですわ」
私は彼を見上げました。
「干渉しないと決めたのは、あなたでしょう?」
彼は沈黙します。
「屋敷の体裁が揺らげば、君の立場も危うい」
「体裁は整えております」
社交界では、何も問題は表面化していない。
まだ。
彼は私をじっと見つめました。
「君は……本当に何も思わないのか」
「思っておりますわ」
「何を」
「数字は正直だと」
彼の眉が寄ります。
「小さな綻びは、放置すれば広がります」
「ならば」
「干渉しない契約です」
私はやわらかく遮りました。
彼はそれ以上言えません。
約束は彼自身が選んだもの。
私はそれを守っているだけ。
その晩、廊下で義弟とすれ違いました。
「義姉上は、冷たい方ですね」
軽い笑み。
「そうかしら」
「もう少し融通が利けば、皆が楽になるのに」
私は彼を見つめました。
「融通は、契約に含まれておりません」
彼は肩をすくめます。
「変わった人だ」
「よく言われます」
彼は去っていきました。
背中に、ほんの少しの焦りを滲ませながら。
庭園の花は、順調に育っています。
けれど屋敷の中では、小さな亀裂が増えている。
私はそれを知っている。
知っていて、触れない。
干渉しない契約ですもの。
優しさと無関心は、時にとてもよく似ている。
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