政略結婚は義務だと言ったのに、一夜明けたら溺愛とか豹変しすぎでは?

しおしお

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貴族令嬢たちの嫉妬

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 3-1 

 王太子妃フェブラリーが王宮に迎えられてから、一か月が過ぎた。
 氷と噂された王太子イシュタルは見る影もなく溶け、甘露のような溺愛を惜しげもなく降り注ぐ。その様子は「王宮美談」として侍女長が嬉々として語り広め、やがて噂は宮廷全域に行き渡った。
 ――だが、美談は同時に棘を生む。
 中庭のバラが二度目の蕾をふくらませはじめたころ、貴族令嬢の噂話は甘い蜜から黒い毒に姿を変えていった。

* * *

「聞いた? 王太子殿下が妃殿下の口にお菓子を運ばれたのですって」
「しかも公務の合間にですわ。まったく、公私混同も甚だしいわね」
「“氷の王太子”がただの恋煩い? 妃殿下が何か薬でも盛ったのではなくて?」
「まあ、おそろしい!」

 午後のサロン。王宮西翼にある回廊付きの茶室では、薄釉のカップを鳴らす音にまじり、令嬢たちの翳りを帯びた笑い声がこだましていた。
 その中心に座すのは侯爵令嬢レイナ・オルベリウス。深紅の髪を意図的に波打たせ、瞳を伏せてほくそ笑む。

「まあまあ。妃殿下の行いを軽々しく疑うのは慎みましょう。――ただ、王家の未来を憂う声が上がるのも当然ですわよね」
 どう聞いても火に油を注ぐ声音。周囲の令嬢たちは一斉に頷き、扇子で口元を隠した。
「おっしゃる通りですわ。御子が誕生する前にあのように甘やかしては、王太子殿下のご威光も形無しですもの」
「それに、あの方は公爵家とはいえ辺境寄りの血筋。王妃としての器量が本当におありかしら」
「ご学友の間でも“真面目で地味”と評されていたそうですわ。王妃の華やかさには程遠いとか」

 悪意混じりの囁きが湯気に乗り、天井の施釉タイルに絡みつく。
 レイナは薔薇シロップを垂らしたティーを口に含み、陶然と目を細めた。
 ――王太子の隣に立つのはこの私であるはずだった。
 子どものころからそう教え込まれ、そう振る舞ってきた。躾、舞踏、文学、礼砲の撃ち方まで徹底的に仕込まれた自負が、フェブラリーの穏やかな微笑一つで打ち砕かれたのだ。

 侍女の一人が耳打ちする。
「令嬢、例の布地が手配できました」
「そう。ならば作戦開始よ」
 レイナは扇子で口元を隠し、真珠の歯を見せて笑った。
「まずは“王妃失格”の噂を、形にして差し上げましょう」

* * *

 夕刻。
 フェブラリーは侍女エリナの伴いで王宮内の礼法教室を訪れていた。舞踏会で使用する新素材のドレスの裾さばき確認と、次季節ホールの装花との調和を測るためだ。
 教室の鏡張りの壁に向かい、試作ドレスの裾をひらりと翻す。金糸が夕陽を捕らえ、床に小さな光輪を落とした。

「殿下のお好みに合わせて、ほんの少しだけ刺繍を増やしました」
 侍女長が説明すると、フェブは鏡越しに微笑み、裾を持ち上げて歩幅を調整した。
「動きやすく、しかも優美です。ありがとうございます」
 そのとき――スカートの奥で微かに布が裂ける音がした。
 フェブは足を止めた。つま先から伝わる違和感。
 そっと裾をめくり、縫い目を確かめると、腰から下へ続く一筋の糸が不自然に緩んでいる。
(裁断が甘い? いいえ……わざと?)

 疑念が脳裏を掠める。だが侍女長の前で声に出すのは得策ではない。
 フェブは静かに裾を下ろし、再び鏡を見つめた。
 ――鏡の中の自分は、穏やかな顔で立っている。何も知らない、無垢な王妃の仮面をつけて。

* * *

 同時刻、別の回廊。
 王太子イシュタルは国璽監の年次報告を終え、執務室へ戻る途中だった。
 側仕えが手帳を開きながら告げる。
「今宵の予定は舞踏会準備会議と、妃殿下のドレス最終採寸の立ち会いでございます」
「採寸? 必要なら妃の侍女に任せても」
 イシュタルは歩を止める。――そして、ふと思い出す。
 今朝、フェブが庭園散歩に出る前に見せた、かすかな不安の影。
 誰かが彼女を快く思っていないのでは、と胸の奥を掠めた違和感が再び疼く。

「やはり立ち会おう」
「は、畏まりました」

 王太子は踵を返し、彼女のいる礼法教室へ足を速めた。
 廊下のランプが彼の肩章を照らし、宦官たちは慌てて壁際へ避ける。
 氷の王太子と呼ばれた頃の冷徹な速歩が、今は“妃の異変”を嗅ぎ取る獣のように鋭い。

* * *

 礼法教室に戻ると、侍女たちが慌ただしく裾を縫い留め直す作業に取り掛かっていた。
 イシュタルは一歩で中へ踏み込み、鋭い視線を走らせる。
「何があった?」
 侍女長が震えた声で答える。
「縫い目がほどけておりました。急ぎ補修を――」
「なぜほどけた?」
「……分かりかねます。裁縫は熟練の者が」

 フェブは王太子の目を受け止め、やんわりと微笑んだ。
「殿下、ご心配なく。ただの糸の緩みですわ」
「君が怪我をしなくて良かった」
 イシュタルは拳を握り、縫い目を確かめる。糸が一部だけ切られているのを見て、青い瞳に氷の刃が灯った。

「これは“偶然”ではない。調査させる」
「殿下……」
「君が傷つく危険を放置できない」

 フェブは一歩近づき、袖口をそっと掴む。
「大丈夫。私は王妃ですもの。些細な波立ちは受け流せます」
「受け流す必要はない。私が守る」

 囁きは確固たる宣言。
 フェブは胸の奥で静かに息を吸った。――これでいい。これで、イシュタルは真実を見つけるだろう。
 彼女自身もまた、王妃として越えるべき試練の扉を見定めていた。

 窓の外、夕空に紫紺の雲が流れる。
 嫉妬と陰謀の幕が静かに上がり、王宮は次第にざわめきを孕んでいく。
 そしてフェブラリーは、鏡の中の自分へ小さく呟いた。

「……嵐なら、静かに待ち構えましょう。――私たち二人で」

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