政略結婚は義務だと言ったのに、一夜明けたら溺愛とか豹変しすぎでは?

しおしお

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“アーン”事件

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 2-6 

 翌昼。
 王宮中央棟の二階――陽光がよく射す小広間で、フェブラリーは試作菓子の品評会に招かれていた。王家付菓子職人たちが新作を競う恒例行事で、王太子妃の口に叶えば正式な晩餐メニューへ採用される。
 長卓の上には宝石めいたミニャルディーズが並び、シロップをまとった果実や絞りたてのクリームが甘い香りを放つ。淡いピンクのクリスタル皿に、最後の逸品が供されると、場にいた料理頭が緊張気味に礼を取った。

「こちら、本日の最後を飾る“バラの雫”でございます。砂糖菓子の花弁に、薔薇風味のジュレを閉じ込めました」

 見目にも麗しい小菓子を前に、フェブは感嘆のため息を漏らす。
「薔薇がほどけるように香りますわ。素晴らしい」
 周囲の職人たちがほっと胸を撫で下ろした――までは良かった。

「君に味わってほしかった」
 背後から低い声。王太子イシュタルである。
 午前の公務を終えると、執務服のまま広間へ直行して来たらしい。フェブは椅子に座ったまま振り返り、眉を上げた。

「殿下、試食会は私一人で十分ですわ」
「いや。君が口に運ぶ瞬間を、この目で見届けたい」

 さらりと囁くと、王太子は皿を手に取り、自らデザートフォークを構えた。横で侍従が硬直し、料理頭が青ざめる。
 イシュタルは薔薇の雫を一個掬い取ると、フェブの口元へ差し出した。

「さあ、口を開けて。アーン」

 周囲の空気が凍る。
 フェブは背筋を伸ばし、王太子の顔を真っ直ぐ見上げた。

「……自分でいただけます。公衆の面前で“アーン”を期待されても困ります」
「ここにいるのは料理人と侍従だけだ。気にする必要はない」
「彼らの視線の方が気になります。殿下、仕事の邪魔をしてはなりません」
「邪魔ではなく激励だ。私は君の笑顔が見たいだけ」

 職人たちが視線を交わす。――これは仕事どころではない、と。
 フェブは小声で嘆息した。
「では後ほど、控え室でいただきますから」
「控え室……。人目のないところ、という意味か?」
「はい。そこでなら“アーン”も検討いたします」

 王太子の瞳が歓喜に揺れ、甘い台詞が漏れそうになるのをフェブは手で制した。
「ただし条件があります。菓子を粗末にしないこと。職人の方々へ感想を伝えること。そして何より、公務を放棄しないこと」

 イシュタルは真剣な面持ちで頷く。
「約束しよう。だが先に味を確かめてもらえないか? 職人が待っている」
「……仕方ありませんわね」

 覚悟を決め、フェブは控えめに口を開く。王太子は得意げにフォークを差し出し、薔薇の雫が唇に触れた。
 とろりとしたジュレが花蜜の香りを広げ、繊細な甘みが舌に溶ける。思わず目を細めると、イシュタルが嬉しそうに身を乗り出した。

「どうだ?」
「……とても美味しいです」
「もう一つどうだ?」
「いえ、殿下」
「遠慮は無用だ」
「遠慮ではなく、羞恥です」
 耳まで赤くなるフェブを見て、イシュタルは満足そうに微笑む。

* * *

 試食会の後、控え室で“第二ラウンド”が行われた。
 誰もいない室内、王太子は再びスプーンを構えた。
「さあ、今度こそ心ゆくまで――」
「……自分で食べられます、と先ほど」
「いや、先ほどは公衆の面前だった。今は違う」
「殿下の情熱が公務より強いと、王宮全体に噂されます」
「よろしい。では公務も熱意も同列に語らせよう」

 フェブは笑いを堪え、フォークを奪い取る。
「殿下が甘やかされたいのは分かりました。ですが自制も王としての資質です」
「私はまだ王ではない。今は夫である」
「……もう」

 くすりと笑うフェブに、イシュタルは見惚れたように息を呑んだ。
 途端に顔が熱くなり、フェブは視線を逸らす。薔薇の雫を一つ掬い、ちいさな“アーン”の形にフォークを揺らした。

「では一つだけ。殿下がお召し上がりくださいませ」
「私が?」
「おあいこです」

 王太子は目を瞠り、それから少年めいた笑顔で口を開ける。
 フォークを唇に滑らせるとき、フェブは小声で囁いた。

「政務に戻る前のエネルギー補給ですよ」
「充分だ。これで夜まで乗り切れる」
「……夜はまた、優しくお願いしますね」
 イシュタルは顔を紅潮させ、食べかけの菓子より甘い視線を注いだ。

* * *

 その夜遅く。
 白磁の間に戻ったフェブの耳に、宮廷楽師を務める友人からの噂が飛び込んだ。――王太子が妃殿下へ“あーん”を強要したらしい、と。
 さっそく王宮中でほのぼのとした逸話として広まり、先日の“氷の王太子”像と矛盾するとのことで、大騒ぎになっているらしい。

「殿下……噂が先に走ってしまいましたわ」
 フェブはため息を漏らしながらも、頬の奥で小さな笑みが生まれるのを止められなかった。
 氷はたしかに溶け、甘い蜜の池になって広がり始めている。
 その蜜に溺れるか、泳ぎ切るか――それはまだ誰も知らない。

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