9 / 18
“アーン”事件
しおりを挟む
2-6
翌昼。
王宮中央棟の二階――陽光がよく射す小広間で、フェブラリーは試作菓子の品評会に招かれていた。王家付菓子職人たちが新作を競う恒例行事で、王太子妃の口に叶えば正式な晩餐メニューへ採用される。
長卓の上には宝石めいたミニャルディーズが並び、シロップをまとった果実や絞りたてのクリームが甘い香りを放つ。淡いピンクのクリスタル皿に、最後の逸品が供されると、場にいた料理頭が緊張気味に礼を取った。
「こちら、本日の最後を飾る“バラの雫”でございます。砂糖菓子の花弁に、薔薇風味のジュレを閉じ込めました」
見目にも麗しい小菓子を前に、フェブは感嘆のため息を漏らす。
「薔薇がほどけるように香りますわ。素晴らしい」
周囲の職人たちがほっと胸を撫で下ろした――までは良かった。
「君に味わってほしかった」
背後から低い声。王太子イシュタルである。
午前の公務を終えると、執務服のまま広間へ直行して来たらしい。フェブは椅子に座ったまま振り返り、眉を上げた。
「殿下、試食会は私一人で十分ですわ」
「いや。君が口に運ぶ瞬間を、この目で見届けたい」
さらりと囁くと、王太子は皿を手に取り、自らデザートフォークを構えた。横で侍従が硬直し、料理頭が青ざめる。
イシュタルは薔薇の雫を一個掬い取ると、フェブの口元へ差し出した。
「さあ、口を開けて。アーン」
周囲の空気が凍る。
フェブは背筋を伸ばし、王太子の顔を真っ直ぐ見上げた。
「……自分でいただけます。公衆の面前で“アーン”を期待されても困ります」
「ここにいるのは料理人と侍従だけだ。気にする必要はない」
「彼らの視線の方が気になります。殿下、仕事の邪魔をしてはなりません」
「邪魔ではなく激励だ。私は君の笑顔が見たいだけ」
職人たちが視線を交わす。――これは仕事どころではない、と。
フェブは小声で嘆息した。
「では後ほど、控え室でいただきますから」
「控え室……。人目のないところ、という意味か?」
「はい。そこでなら“アーン”も検討いたします」
王太子の瞳が歓喜に揺れ、甘い台詞が漏れそうになるのをフェブは手で制した。
「ただし条件があります。菓子を粗末にしないこと。職人の方々へ感想を伝えること。そして何より、公務を放棄しないこと」
イシュタルは真剣な面持ちで頷く。
「約束しよう。だが先に味を確かめてもらえないか? 職人が待っている」
「……仕方ありませんわね」
覚悟を決め、フェブは控えめに口を開く。王太子は得意げにフォークを差し出し、薔薇の雫が唇に触れた。
とろりとしたジュレが花蜜の香りを広げ、繊細な甘みが舌に溶ける。思わず目を細めると、イシュタルが嬉しそうに身を乗り出した。
「どうだ?」
「……とても美味しいです」
「もう一つどうだ?」
「いえ、殿下」
「遠慮は無用だ」
「遠慮ではなく、羞恥です」
耳まで赤くなるフェブを見て、イシュタルは満足そうに微笑む。
* * *
試食会の後、控え室で“第二ラウンド”が行われた。
誰もいない室内、王太子は再びスプーンを構えた。
「さあ、今度こそ心ゆくまで――」
「……自分で食べられます、と先ほど」
「いや、先ほどは公衆の面前だった。今は違う」
「殿下の情熱が公務より強いと、王宮全体に噂されます」
「よろしい。では公務も熱意も同列に語らせよう」
フェブは笑いを堪え、フォークを奪い取る。
「殿下が甘やかされたいのは分かりました。ですが自制も王としての資質です」
「私はまだ王ではない。今は夫である」
「……もう」
くすりと笑うフェブに、イシュタルは見惚れたように息を呑んだ。
途端に顔が熱くなり、フェブは視線を逸らす。薔薇の雫を一つ掬い、ちいさな“アーン”の形にフォークを揺らした。
「では一つだけ。殿下がお召し上がりくださいませ」
「私が?」
「おあいこです」
王太子は目を瞠り、それから少年めいた笑顔で口を開ける。
フォークを唇に滑らせるとき、フェブは小声で囁いた。
「政務に戻る前のエネルギー補給ですよ」
「充分だ。これで夜まで乗り切れる」
「……夜はまた、優しくお願いしますね」
イシュタルは顔を紅潮させ、食べかけの菓子より甘い視線を注いだ。
* * *
その夜遅く。
白磁の間に戻ったフェブの耳に、宮廷楽師を務める友人からの噂が飛び込んだ。――王太子が妃殿下へ“あーん”を強要したらしい、と。
さっそく王宮中でほのぼのとした逸話として広まり、先日の“氷の王太子”像と矛盾するとのことで、大騒ぎになっているらしい。
「殿下……噂が先に走ってしまいましたわ」
フェブはため息を漏らしながらも、頬の奥で小さな笑みが生まれるのを止められなかった。
氷はたしかに溶け、甘い蜜の池になって広がり始めている。
その蜜に溺れるか、泳ぎ切るか――それはまだ誰も知らない。
翌昼。
王宮中央棟の二階――陽光がよく射す小広間で、フェブラリーは試作菓子の品評会に招かれていた。王家付菓子職人たちが新作を競う恒例行事で、王太子妃の口に叶えば正式な晩餐メニューへ採用される。
長卓の上には宝石めいたミニャルディーズが並び、シロップをまとった果実や絞りたてのクリームが甘い香りを放つ。淡いピンクのクリスタル皿に、最後の逸品が供されると、場にいた料理頭が緊張気味に礼を取った。
「こちら、本日の最後を飾る“バラの雫”でございます。砂糖菓子の花弁に、薔薇風味のジュレを閉じ込めました」
見目にも麗しい小菓子を前に、フェブは感嘆のため息を漏らす。
「薔薇がほどけるように香りますわ。素晴らしい」
周囲の職人たちがほっと胸を撫で下ろした――までは良かった。
「君に味わってほしかった」
背後から低い声。王太子イシュタルである。
午前の公務を終えると、執務服のまま広間へ直行して来たらしい。フェブは椅子に座ったまま振り返り、眉を上げた。
「殿下、試食会は私一人で十分ですわ」
「いや。君が口に運ぶ瞬間を、この目で見届けたい」
さらりと囁くと、王太子は皿を手に取り、自らデザートフォークを構えた。横で侍従が硬直し、料理頭が青ざめる。
イシュタルは薔薇の雫を一個掬い取ると、フェブの口元へ差し出した。
「さあ、口を開けて。アーン」
周囲の空気が凍る。
フェブは背筋を伸ばし、王太子の顔を真っ直ぐ見上げた。
「……自分でいただけます。公衆の面前で“アーン”を期待されても困ります」
「ここにいるのは料理人と侍従だけだ。気にする必要はない」
「彼らの視線の方が気になります。殿下、仕事の邪魔をしてはなりません」
「邪魔ではなく激励だ。私は君の笑顔が見たいだけ」
職人たちが視線を交わす。――これは仕事どころではない、と。
フェブは小声で嘆息した。
「では後ほど、控え室でいただきますから」
「控え室……。人目のないところ、という意味か?」
「はい。そこでなら“アーン”も検討いたします」
王太子の瞳が歓喜に揺れ、甘い台詞が漏れそうになるのをフェブは手で制した。
「ただし条件があります。菓子を粗末にしないこと。職人の方々へ感想を伝えること。そして何より、公務を放棄しないこと」
イシュタルは真剣な面持ちで頷く。
「約束しよう。だが先に味を確かめてもらえないか? 職人が待っている」
「……仕方ありませんわね」
覚悟を決め、フェブは控えめに口を開く。王太子は得意げにフォークを差し出し、薔薇の雫が唇に触れた。
とろりとしたジュレが花蜜の香りを広げ、繊細な甘みが舌に溶ける。思わず目を細めると、イシュタルが嬉しそうに身を乗り出した。
「どうだ?」
「……とても美味しいです」
「もう一つどうだ?」
「いえ、殿下」
「遠慮は無用だ」
「遠慮ではなく、羞恥です」
耳まで赤くなるフェブを見て、イシュタルは満足そうに微笑む。
* * *
試食会の後、控え室で“第二ラウンド”が行われた。
誰もいない室内、王太子は再びスプーンを構えた。
「さあ、今度こそ心ゆくまで――」
「……自分で食べられます、と先ほど」
「いや、先ほどは公衆の面前だった。今は違う」
「殿下の情熱が公務より強いと、王宮全体に噂されます」
「よろしい。では公務も熱意も同列に語らせよう」
フェブは笑いを堪え、フォークを奪い取る。
「殿下が甘やかされたいのは分かりました。ですが自制も王としての資質です」
「私はまだ王ではない。今は夫である」
「……もう」
くすりと笑うフェブに、イシュタルは見惚れたように息を呑んだ。
途端に顔が熱くなり、フェブは視線を逸らす。薔薇の雫を一つ掬い、ちいさな“アーン”の形にフォークを揺らした。
「では一つだけ。殿下がお召し上がりくださいませ」
「私が?」
「おあいこです」
王太子は目を瞠り、それから少年めいた笑顔で口を開ける。
フォークを唇に滑らせるとき、フェブは小声で囁いた。
「政務に戻る前のエネルギー補給ですよ」
「充分だ。これで夜まで乗り切れる」
「……夜はまた、優しくお願いしますね」
イシュタルは顔を紅潮させ、食べかけの菓子より甘い視線を注いだ。
* * *
その夜遅く。
白磁の間に戻ったフェブの耳に、宮廷楽師を務める友人からの噂が飛び込んだ。――王太子が妃殿下へ“あーん”を強要したらしい、と。
さっそく王宮中でほのぼのとした逸話として広まり、先日の“氷の王太子”像と矛盾するとのことで、大騒ぎになっているらしい。
「殿下……噂が先に走ってしまいましたわ」
フェブはため息を漏らしながらも、頬の奥で小さな笑みが生まれるのを止められなかった。
氷はたしかに溶け、甘い蜜の池になって広がり始めている。
その蜜に溺れるか、泳ぎ切るか――それはまだ誰も知らない。
73
あなたにおすすめの小説
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】
iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――
ムラサメ
恋愛
伯爵家で使用人同然に扱われてきた少女、エリナ。
魔力も才能もないとされ、義妹アリシアの影で静かに生きていた。
ある日、王国第一王子カイルの視察で運命が動き出す。
誰も気づかなかった“違和感”に、彼だけが目を留めて――。
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。
er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——
【完結】番としか子供が産まれない世界で
さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。
何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。
そんなニーナが番に出会うまで
4話完結
出会えたところで話は終わってます。
「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い
腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。
お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。
当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。
彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。
白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません
鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。
「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」
そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。
——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。
「最近、おまえが気になるんだ」
「もっと夫婦としての時間を持たないか?」
今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。
愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。
わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。
政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ
“白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる