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夜会での罠
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初夏を告げる満月が昇り、王宮大広間は銀の光とシャンデリアの燭火に照らし出されていた。
天井近くまで届く紺青のカーテンには星座が金糸で散らされ、磨き抜かれた黒大理石の床は客人の影を鏡のように映し込む。
王家主催の“初夏の祝宴”。列席する貴族たちは艶やかな衣裳に身を包み、宮廷楽団の弦が奏でるワルツの調べに合わせてグラスを鳴らしている。
フェブラリーは淡い真珠色のドレスをまとっていた。
乳白の絹に極細の金糸で百合の蔦模様が刺繍され、腰にはブルートパーズの飾り留め。夜目には月光を写す水面のように柔らかく輝く。
侍女エリナが袖口を直しながら囁く。
「お嬢様、皆様の視線が――」
「いつものことよ」
フェブは微笑みで返し、扇子を軽く開閉して体を冷ました。
胃の奥にかすかな緊張がある。今日という舞台に、敵が罠を張り巡らせている気配を見逃していないからだ。
正面の大階段に視線を向けると、深紅のドレスに身を包んだレイナ・オルベリウスが取り巻きを従えて降りてくるところだった。
薔薇色の髪を高々と結い上げ、白鳥の羽根扇で口元を隠す仕草は、計算され尽くした優雅さだ。
視線が交わる。レイナは瞳の奥で冷い焔を揺らし、わざとらしく会釈した。フェブも礼を返す。
(来るなら来なさい。私は微笑みで返すだけ――)
* * *
やがて主催の宰相が開宴を告げ、舞踏が始まった。
イシュタルは公務のため遅れて到着すると伝えられている。
フェブは社交辞令を交わしながら、人垣が流れるように移動する様子を観察した。
楽団が二曲目のワルツを奏でたころ、給仕長が小声で耳打ちする。
「妃殿下、次の舞踏でお相手をご所望の令嬢が――」
振り返ると、レイナが微笑みながら手を差し伸べていた。
「王妃殿下、先導の役目を務めさせていただけませんこと?」
女性同士で踊るのは珍しくない。だが、差し伸べられた手首に巻かれた瑪瑙のブレスレットが、闇色の光を滴らせて不穏に見えた。
フェブはためらわず応じた。
「光栄ですわ、レイナ侯爵令嬢」
手を取り合い、一歩、二歩。旋回とともに裾が翻る。
するとドレスの腰下から、ピッ、と乾いた音がした。
――糸が切れる音。同時に布が裂ける感触が肌を掠める。
(来たわね)
振り向きざま、レイナの瞳が細く笑った。
周囲の令嬢たちも息を呑むように眼差しを集める。
フェブは咄嗟に扇子を閉じ、裂け目を隠すように腰に当てた。
しかし布は計算された角度で裂け、金糸の蔦が綻びを強調する。
舞曲は続く。楽団は気付かぬふりをして拍子を刻む。見物の貴族たちがひそひそと囁いた。
「まあ……縫製不良かしら」
「王妃殿下も粗忽ね」
「やはり器量不足という噂は本当――」
レイナは踊る歩幅を縮め、わざとフェブの耳元へ唇を寄せた。
「王妃殿下ともあろうお方が、糸一本の始末も出来ないなんて」
囁きは甘い毒。フェブは微笑んだまま、静かな声で返す。
「糸の緩みは直せますわ。でも、あなたの品位のほつれはどうかしら」
レイナの笑みが一瞬、引きつる。
その瞬間、楽曲が終わり、二人は優雅に礼を交わした。
新たな曲が始まる直前、レイナがステップを踏み外したふりをして、フェブの背に肘を当てた。
バランスを崩したふりのまま、フェブはドレスの裂け目をさらに広げさせる計算。
――裂けた布がパサリと音を立て、会場がざわめいた。
「まあ!」「見てごらんなさい!」
扇子の向こうで笑う唇、侮蔑と面白半分の視線。
真珠色の布が無惨に裂け、ガラスの破片のような沈黙が落ちる。
フェブは深呼吸し、視線を上げた。
大階段の上に、漆黒の礼服に身を包んだイシュタルが立っていた。
王太子の瞳が戦場の刃のように細められ、一瞬で会場の空気が凍る。
(殿下……来てくださったのね)
イシュタルは階段を降りながら、低く命じた。
「楽団、演奏を止めよ」
ワルツが途切れ、沈黙が大広間を満たす。
フェブは扇子を閉じ、裂け目を隠しながら微笑んだ。
嵐の中心で、王妃は怯まず立つ――その姿を見て、王太子の目に熱が灯る。
レイナが震える声で取り繕う。
「お、おいたわしい事故ですわ。縫製の不手際でしょうか」
イシュタルの足が止まり、氷刃の声が落ちた。
「事故かどうかは、これから調べよう。だが誰であれ、我が妃を笑った者は――」
宣告の続きが放たれる前に、フェブラリーはそっと一歩進み出た。
ドレスの裂け目を塞ぐように扇子を掲げ、会釈する。
「殿下、ご心配なく。私は無傷です」
イシュタルの怒気が和らぎ、視線が優しげに揺れた。
だが王太子はゆっくり振り向き、会場を眺め渡す。
凍てつく眼差しに、人々は息を呑む。
――次の瞬間、王宮史に残る鉄槌が下ることを、誰も予想し得なかった。
初夏を告げる満月が昇り、王宮大広間は銀の光とシャンデリアの燭火に照らし出されていた。
天井近くまで届く紺青のカーテンには星座が金糸で散らされ、磨き抜かれた黒大理石の床は客人の影を鏡のように映し込む。
王家主催の“初夏の祝宴”。列席する貴族たちは艶やかな衣裳に身を包み、宮廷楽団の弦が奏でるワルツの調べに合わせてグラスを鳴らしている。
フェブラリーは淡い真珠色のドレスをまとっていた。
乳白の絹に極細の金糸で百合の蔦模様が刺繍され、腰にはブルートパーズの飾り留め。夜目には月光を写す水面のように柔らかく輝く。
侍女エリナが袖口を直しながら囁く。
「お嬢様、皆様の視線が――」
「いつものことよ」
フェブは微笑みで返し、扇子を軽く開閉して体を冷ました。
胃の奥にかすかな緊張がある。今日という舞台に、敵が罠を張り巡らせている気配を見逃していないからだ。
正面の大階段に視線を向けると、深紅のドレスに身を包んだレイナ・オルベリウスが取り巻きを従えて降りてくるところだった。
薔薇色の髪を高々と結い上げ、白鳥の羽根扇で口元を隠す仕草は、計算され尽くした優雅さだ。
視線が交わる。レイナは瞳の奥で冷い焔を揺らし、わざとらしく会釈した。フェブも礼を返す。
(来るなら来なさい。私は微笑みで返すだけ――)
* * *
やがて主催の宰相が開宴を告げ、舞踏が始まった。
イシュタルは公務のため遅れて到着すると伝えられている。
フェブは社交辞令を交わしながら、人垣が流れるように移動する様子を観察した。
楽団が二曲目のワルツを奏でたころ、給仕長が小声で耳打ちする。
「妃殿下、次の舞踏でお相手をご所望の令嬢が――」
振り返ると、レイナが微笑みながら手を差し伸べていた。
「王妃殿下、先導の役目を務めさせていただけませんこと?」
女性同士で踊るのは珍しくない。だが、差し伸べられた手首に巻かれた瑪瑙のブレスレットが、闇色の光を滴らせて不穏に見えた。
フェブはためらわず応じた。
「光栄ですわ、レイナ侯爵令嬢」
手を取り合い、一歩、二歩。旋回とともに裾が翻る。
するとドレスの腰下から、ピッ、と乾いた音がした。
――糸が切れる音。同時に布が裂ける感触が肌を掠める。
(来たわね)
振り向きざま、レイナの瞳が細く笑った。
周囲の令嬢たちも息を呑むように眼差しを集める。
フェブは咄嗟に扇子を閉じ、裂け目を隠すように腰に当てた。
しかし布は計算された角度で裂け、金糸の蔦が綻びを強調する。
舞曲は続く。楽団は気付かぬふりをして拍子を刻む。見物の貴族たちがひそひそと囁いた。
「まあ……縫製不良かしら」
「王妃殿下も粗忽ね」
「やはり器量不足という噂は本当――」
レイナは踊る歩幅を縮め、わざとフェブの耳元へ唇を寄せた。
「王妃殿下ともあろうお方が、糸一本の始末も出来ないなんて」
囁きは甘い毒。フェブは微笑んだまま、静かな声で返す。
「糸の緩みは直せますわ。でも、あなたの品位のほつれはどうかしら」
レイナの笑みが一瞬、引きつる。
その瞬間、楽曲が終わり、二人は優雅に礼を交わした。
新たな曲が始まる直前、レイナがステップを踏み外したふりをして、フェブの背に肘を当てた。
バランスを崩したふりのまま、フェブはドレスの裂け目をさらに広げさせる計算。
――裂けた布がパサリと音を立て、会場がざわめいた。
「まあ!」「見てごらんなさい!」
扇子の向こうで笑う唇、侮蔑と面白半分の視線。
真珠色の布が無惨に裂け、ガラスの破片のような沈黙が落ちる。
フェブは深呼吸し、視線を上げた。
大階段の上に、漆黒の礼服に身を包んだイシュタルが立っていた。
王太子の瞳が戦場の刃のように細められ、一瞬で会場の空気が凍る。
(殿下……来てくださったのね)
イシュタルは階段を降りながら、低く命じた。
「楽団、演奏を止めよ」
ワルツが途切れ、沈黙が大広間を満たす。
フェブは扇子を閉じ、裂け目を隠しながら微笑んだ。
嵐の中心で、王妃は怯まず立つ――その姿を見て、王太子の目に熱が灯る。
レイナが震える声で取り繕う。
「お、おいたわしい事故ですわ。縫製の不手際でしょうか」
イシュタルの足が止まり、氷刃の声が落ちた。
「事故かどうかは、これから調べよう。だが誰であれ、我が妃を笑った者は――」
宣告の続きが放たれる前に、フェブラリーはそっと一歩進み出た。
ドレスの裂け目を塞ぐように扇子を掲げ、会釈する。
「殿下、ご心配なく。私は無傷です」
イシュタルの怒気が和らぎ、視線が優しげに揺れた。
だが王太子はゆっくり振り向き、会場を眺め渡す。
凍てつく眼差しに、人々は息を呑む。
――次の瞬間、王宮史に残る鉄槌が下ることを、誰も予想し得なかった。
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