政略結婚は義務だと言ったのに、一夜明けたら溺愛とか豹変しすぎでは?

しおしお

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未来への誓い

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4-5 

 戴冠式から一週間が過ぎた。
 王宮の喧騒はようやく落ち着きを取り戻し、調度を飾った百合と桜の混成花は瑞々しさを保ったまま、王冠を戴いた季節を静かに語り継いでいる。
 だが、窓の外に広がる晩夏の空は飽くなき蒼――国王イシュタルと王妃フェブラリーは、その下で早々に「国政巡幸」という名目を掲げ、王都を離れる準備を整えていた。

* * *

 巡幸前夜。
 夕陽が赤く染め上げた西空に、双翼の旅装船《セレネ号》が停泊している。魔導結晶で浮遊する新型帆船で、王家直轄の巡幸船は百年ぶりの建造とあって貴族も職人も胸を高鳴らせた。
 甲板に立つフェブは、潮風にほほ笑む。風がローブをはためかせ、肩口に絡んだ髪をイシュタルの手がそっと払いのけた。

「予定通り、明朝の出帆になる」
「船で東の海へ向かい、そのまま沿岸諸侯を歴訪……大胆な日程ですわね」
「王都の椅子に座ったままでは見えぬものが多い。君と同じ景色を――海も森も民の顔も――見ておきたいんだ」
「ええ、もちろんお伴します。……でも公文書を抱えたままですと揺れで酔いますわよ」
「書類は最小限にした。旅のあいだは君の感想を記録係にするつもりだから」
「感想?」
「民が君をどう呼ぶか、君は何を感じたか。君の言葉が王政の補正値になる」

 フェブは頬を染め、低く笑った。
「では旅日記の扉書きに、“私の心はすでに殿下に奪われております”とでも認めましょうか」
「そこは“王国の灯り”と書いてくれ」
「自分で言いますか?」
「君が言うよりは照れずに済む」

 淡い冗談が潮の匂いに溶け、陽が海に沈む。
 空と水面の境界に、金の道が敷かれてゆく――イシュタルはその光を指でなぞり、真剣な声で告げた。

「巡幸を終えたら、今度こそ海辺の王家別荘へ行こう」
「昨夜も同じ話を」
「大事だから何度でも言う。公務の合間に君が本を読む時間、私も隣で穏やかに過ごしたい」
「……ほんの少し“一人時間”を入れてくだされば、それも素敵かと」
「君が一人の時は、潮騒の音に嫉妬すると宣言しておく」
「嫉妬は命を短くします。ほどほどに」
「なら、嫉妬の矛先をキスに変えよう」

 朱く染まる甲板で触れ合った唇は、夕焼けより甘かった。

* * *

 出帆の朝。
 王都の港には早くも人々が詰めかけ、帆柱に結ばれた百合旗と桜旗が輝いた。舷梯を昇るフェブのドレスは海風を孕み、例のエメラルド指輪が朝陽を砕いて放った。
 イシュタルは乗船前に港の石畳で宣言した。

「我らは民の声を直接聞き、新しき王国の礎とする。帰還の日には新港計画と沿岸交易法を示し、国境を越えて友好を結ぼう」

 群衆が歓声を上げ、真新しい号砲が祝福を告げる。
 舳先が静かに浮き上がり、《セレネ号》は蒼穹へ乗り出した。

 甲板後方、港の景色が遠ざかるのを見送るフェブの耳に、帆鳴りと重なるように小さな足音が届く。
 振り向くと、まだ少年の近衛補佐が紅潮した顔で立っていた。
「こ、これは……開発局よりの第一次報告書でございます!」
 書巻を差し出すと同時に、船が波気流に揺れた。少年はよろめき、報告書が宙を舞う。
 瞬時にイシュタルが手を伸ばし、書巻を取り、少年を支えた。
「初任務か?」
「は、はい! 失礼しました!」
「落ち着け。風は読めば制御できる。人も同じだ」

 イシュタルは書巻をフェブへ渡す。
「君の感想欄だ。早速使ってくれ」
「最初の一文は……“王都の若葉は南風に揺れ、未来の若人を航路に送る”」
 フェブが筆を走らせると、少年の目が輝いた。

 王と妃の言霊は、何より強い羅針盤になる。
 船は雲の尾を裂き、光の海を進む。――どこまでも。

* * *

 その夜、船室の窓から月光が差し込む。
 遠い潮騒を聞きながら、フェブは寝台の上で横になったイシュタルの髪を梳いた。
「昼間、甲板で民の手紙を読みました。どれも温かくて……中には“二人の子どもを早く見たい”という声も」
「君が許すなら、すぐにでも取り組むが?」
「まずは巡幸を無事に終え、陛下の睡眠時間を整えてから」
「では今夜は寝かせてくれるか?」
「王としての疲れを取ることも、“優しさ”のうちです」

 それでもイシュタルは腕を伸ばし、フェブを抱き寄せた。
 船体が柔らかく揺れ、月の帯が二人の輪郭を淡く縁どる。
 王冠も王杖もここにはない。ただ互いの温度だけが確かで、揺るぎない。

「あなたが王である限り、私はその隣で灯りを掲げ続けます」
「私が王でなくなっても、君の夫であることは変わらない」
「では――何十年後、海辺の別荘に隠居したら、一緒に潮騒を聴きながら本を読みましょう」
「たまには“アーン”で菓子も食べさせてほしい」
「……老後までその冗談ですか?」
「冗談ではない。君の甘さは永遠に欲しい」
「仕方ありませんね。本が一段落したら考えますわ」

 ふふ、と二人で笑った。
 夜の波が船底を撫で、未来の拍動がゆるやかに刻まれる。
 ――政略で繋がれた鎖は、愛という名の航海へ姿を変えた。
 その舵を握るのは、王と王妃ではなく、一対の“心”だ。

 月が雲間を渡り、エメラルド指輪を淡く照らす。
 光は緑の波紋となり、寝台の影に落ちた。
 フェブラリー・ヴァルナ・ルーセントはそっと目を閉じ、悠久の旅路へ身をゆだねる。
 横でイシュタル・ルーセントが深い安堵の息をついた――。

 窓外の天空を、流れ星がひとすじ横切った。
 新しい王国の夜は、まだほんの序章。
 だがその星の尾は、二人が紡ぐ未来が無限の光へ続くことを、確かに示していた。

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