水仙の鳥籠

下井理佐

文字の大きさ
1 / 7

第一話 ある兄弟の話

しおりを挟む
「うそついたら 針千本 のます…」
 
 この世界はいつだって狭い。
 今日は雨が降っているのだろう。
 雨粒が落ちる音が響いている。
 格子の隙間から手を出し、水滴に触れにいく。
 今はどこにあるかも分からない故郷を思う。
 
『翡翠』
 
 兄に呼ばれた、そして今では決して呼ばれない名前をそっと誰にも聞こえない声でささやく。
 客に執拗に責められた体がジクジクと痛むせいで、まともに寝付けやしない。
 こうしてぼうっとしているだけで、あっという間に日は暮れ、また知らぬ男に抱かれるというのに。

「だれか、」

 そこまで呟き、自嘲する。
 誰に助けを求めると言うのだろう。
 みな、欲に駆られた獣なのだ。
 貪り尽くされた体など、誰も見向きやしない。
 この遊郭に連れてこられてから、もう六年が経つ。
 
「必ず、迎えに行くから」 
 
 かつて兄は苦虫を噛み潰したような顔で吐き出すように言った。
 
「兄さん、待ってる」
「ああ、約束だ」
「「指切った」」
 
 あの時交わした約束は、未だに果たされていない。
 
「……ぁ」

 不意に涙が溢れるが、何の涙なのか皆目見当も付かなかった。

◇ 
 
 弟の翡翠が廓に売られてもうすぐ六年が経つ。
 もう十六歳になっている頃だ。
 あの年のことは今でも夢に見るぐらい鮮明に頭に焼き付いている。
 夏だというのに肌寒く、その癖いつまでも雨が止まなかった。
 田畑がまともに実るわけもなく、苦労して手に入れた苗は腐り枯れ、秋に実をつけたものはほんの僅かだった。
 村で備蓄していたものも、ささやかなもので全員が冬を越せるほどの量はなかった。
 村の全員で集まり、話し合う。結論はあっさりと出た。

「誰かを犠牲にしよう」

 視線が俺たちに向けられた。
 所有する田畑は誰よりも小さい上に、家族は俺と翡翠の二人しかいない。
 それから話し合いは恐ろしいほどにまとまっていった。

「兄の方が力仕事ができるから弟の方が」
「兄の方が体が強いし弟の方が」
「幼いうちに芸を仕込むから弟の方が」

 皆好き勝手なことを口々に言い出す。
 横に座っていた翡翠が、俺の袖を震えた手で握る。
 翡翠を怖がらせないようにそっと肩を抱く。
 負けじと声を荒げるが、皆誰も取り合わなかった。
 
「娘はそろそろ嫁に行ける年だから」
「うちの息子は畑仕事に必要だから」

 まるで、翡翠こそが廓に売られるのが最適と言わんばかりの口ぶりに、俺は腹が煮え繰り返りそうになる。
 議論は火をくべたように燃え上がり、一向に結論が出ない中、沈黙を貫いていた村長が重い口を開く。

「翡翠はどうしたい」

 残酷なことだ。
 よりによって槍玉に挙げられている本人に結論を出させようというのだ。
 翡翠はか細い声で答えようとする。

「俺は……」
「翡翠!言わなくていい!」
「わしは翡翠に聞いておる」

 奥歯を噛み締めると、殺さんばかりの目つきで村長を睨みつける。

「俺、行きます」

 その場に凛とした声が響く。
 俺は翡翠を見る。
 その目はあまりにも澄み、凪いでいた。

「そうか、迎えは明日来る。準備をしなさい」

 村長たちは俺たちの顔を見ずに、そそくさとその場から立ち去っていく。
 残された俺はその場から動けず、項垂れる。
 出した声は思いの外震えていた。

「なんで、行くだなんて……」

 俯いたせいで涙が流れ落ち、膝の上で握りしめた拳を濡らしていく。

「兄さん」

 翡翠の小さい手が濡れた俺の拳をそっと包み込む。

「あのまま話を続けていたら、兄さんの居場所がなくなっちゃう」

 こんな時でも優しい言葉をかける翡翠が愛しいと思うと同時に、申し訳なく思う。
 俺は日が暮れるまで顔を上げることができず、ただただ涙を流すことしかできなかった。


 
 深夜。
 いつもは別々の布団で眠る翡翠が、そっと己の布団に潜り込む。

「寒いから一緒に寝て」

 快く己の布団に招き入れた。
 翡翠は今年で十歳になるが、村の子供達と比べてとても細い。病気がちで家にいることが多いことも相まってどちらかといえば女子に見える。
 だからこそあの場で槍玉に上がったのだろう。
 向かい合って寝る翡翠にそっと小指を差し出す。

「翡翠、指出して」

 翡翠も俺に習うように小指を差し出す。
 俺は小指同士を絡めると、きつく結ぶ。

「必ず迎えにいく。絶対に、絶対に」

 翡翠は目を見開くと、涙を堪えながら何度も何度も頷いた。
 努めて笑顔で浮かべるとできるだけ優しく歌う。

「「ゆびきりげんまん 嘘ついたら 針千本 飲ます」」

「「指切った」」

 俺たちはきつく抱きしめ合った。
 
 翌朝。
 空は憎たらしいほどの快晴で、今までの寒さや雨はなんだったのかと思うほど穏やかな日和だった。
 女衒が村の入り口までやってくると、己の罪悪感を薄めようと村人が次々と見送りに来た。
 口々に翡翠に優しい声をかけるが、どれも本心ではないだろう。
 女衒が翡翠を品定めするように見る。
 
「顔は悪くないな」

 ニヤリと笑うと重たい銭袋を村長に渡す。
 俺は、たったこれだけか。と思った。
 翡翠を失う対価と釣り合わない。
 腹に底からジクジクと痛みを伴う怒りが湧いてくる。

「兄さん、行ってきます」

 翡翠は俺の手にかすかに触れる。
 俺は翡翠の手を力強く握ると、目にその姿を焼き付ける。

「待っててくれ、必ず、必ず」

「うん、待ってる。ずっと」

 女衒が翡翠の肩を掴み、引きずるように連れていく。
 追いかけたい気持ちを抑えて見送る。
 俺も村人と同じ卑怯者だ。
 翡翠が見えなくなるまで、俺は後悔と怒りと悲しみに満ちた目で見送った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【BL】無償の愛と愛を知らない僕。

ありま氷炎
BL
何かしないと、人は僕を愛してくれない。 それが嫌で、僕は家を飛び出した。 僕を拾ってくれた人は、何も言わず家に置いてくれた。 両親が迎えにきて、仕方なく家に帰った。 それから十数年後、僕は彼と再会した。

記憶の代償

槇村焔
BL
「あんたの乱れた姿がみたい」 ーダウト。 彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。 そうわかっていたのに、俺は彼に抱かれてしまった。 だから、記憶がなくなったのは、その代償かもしれない。 昔書いていた記憶の代償の完結・リメイクバージョンです。 いつか完結させねばと思い、今回執筆しました。 こちらの作品は2020年BLOVEコンテストに応募した作品です

俺の彼氏は真面目だから

西を向いたらね
BL
受けが攻めと恋人同士だと思って「俺の彼氏は真面目だからなぁ」って言ったら、攻めの様子が急におかしくなった話。

《一時完結》僕の彼氏は僕のことを好きじゃないⅠ

MITARASI_
BL
彼氏に愛されているはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。 「好き」と言ってほしくて、でも返ってくるのは沈黙ばかり。 揺れる心を支えてくれたのは、ずっと隣にいた幼なじみだった――。 不器用な彼氏とのすれ違い、そして幼なじみの静かな想い。 すべてを失ったときに初めて気づく、本当に欲しかった温もりとは。 切なくて、やさしくて、最後には救いに包まれる救済BLストーリー。 続編執筆中

美澄の顔には抗えない。

米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け 高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。 ※なろう、カクヨムでも掲載中です。

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

幸せごはんの作り方

コッシー
BL
他界した姉の娘、雫ちゃんを引き取ることになった天野宗二朗。 しかし三十七年間独り身だった天野は、子供との接し方が分からず、料理も作れず、仕事ばかりの日々で、ずさんな育て方になっていた。 そんな天野を見かねた部下の水島彰がとった行動はーー。 仕事もプライベートも完璧優秀部下×仕事中心寡黙上司が、我が儘を知らない五歳の女の子と一緒に過ごすお話し。

αとβじゃ番えない

庄野 一吹
BL
社交界を牽引する3つの家。2つの家の跡取り達は美しいαだが、残る1つの家の長男は悲しいほどに平凡だった。第二の性で分類されるこの世界で、平凡とはβであることを示す。 愛を囁く二人のαと、やめてほしい平凡の話。

処理中です...