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【新妻編】
171 いざ、閨へ
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……頼りない灯りを手にした正勝に連れられ、家光は孝の待つ閨へと向かう。
「……ねえねえ、今夜は何もないんだよね? 普通に眠っていいんだよね?」
「ええ、何も御座いません。今宵は謝罪の為に設けた機会ですから。春日局様もそう仰っておりました」
閨に続く廊下を行きながら、さっきから家光は正勝に何度も確認を取っていた。
しつこいくらいの家光の同じ問い掛けに、先程から正勝は嫌な顔一つせず目を細めて繰り返し丁寧に言葉を返している。
……いつもなら案内する従者が前を行き、後ろに家光が続くのだが、正勝と家光は旧知の間柄。隣同士で歩いていた。
正勝は家光を案内する立場ながら、こうして一緒に歩いているだけでも幸せなのだろう、さっきから表情が緩みっぱなしである。
「ふーん……ならいいんだけど。孝の奴……今日はずっと黙っててさ……ひとっことも話さないんだよね~」
「そうなのですか?」
「うん……、なんか不気味でさ~」
「……そうですか……だんまり……(孝様がどう反省なさっているかは存じませんが……、もしかすると父上が絡んでいるのやも……)」
不意に腕を組み孝の異変を話す家光に、正勝はなんとなく思い当たることがあった。
……父のことだ。大方、孝の忠誠心でも試しているのだろう。
元々逆上しやすく傲慢な所があるあの孝を屈服させ、指導したのだ。
最後の仕上げとして我慢比べでもさせようというところ、か。
家光が先に折れれば謝り倒して来るに違いない。
そうすれば純粋な家光は簡単に許してしまうかもしれない。
そう……、家光を譲歩させられるくらいの人物でなければ正室として役に立たないとでも考えているのやも……。
なんて――。
……実際正勝の読みは正しいのだが、家光に教えることを彼はしない。
家光が優しい女性だとわかっている正勝は余計なことを言って仲直りなどされても面白くないわけで……。
孝にはもっと苦しめばいいとさえ思っているのだ。
「……謝りたいと言って人を呼び出しておいてだんまりなんて……正勝はどうしてか解る?」
「……えっ? あっ、いえ。私には狼藉者の考えることなど解りません。私は家光様を大切にしか扱ったことが御座いませんから」
家光に問われて、不敬に当たるが正勝は孝と己は違うのだと対比し言ってのける。
「あっ。ふふふっ! 正勝しぃーっ、孝のことを狼藉者なんて言ったら正勝の立場が悪くなっちゃうよ?」
正勝の言葉に家光は吹き出して口元にそっと人差し指を当てはにかんだ。
……廊下に誰も居なくて良かった。
誰かに訊かれでもしたら……特に孝の連れてきた従者にでも聞かれたら言ってもないことまで付け加えて回り回って徳川に長文の抗議文がやって来るに違いない。
……鷹司家から文句だけは、とにかく多いのだ。
当たり障りのない日常の苦言から、政務に関わることまで婚儀以降毎日のように文が届いているが、現在は春日局が全て処分している。
背後に後水尾天皇が居るからか、勝手に処分しては具合が悪いかと思い、始めは家光がまともに返事をしていたのだが、毎日のいわれなき抗議文に逆に春日局が後水尾天皇に抗議文を出したくらいである。
それでも鷹司家の抗議文は止まらず、先日家光が後水尾天皇に文を送った所、『目を通すだけ通し仕様もない内容は捨て置け』とのお墨付きをいただき、春日局に一任していた。
……表向き家光と後水尾天皇は仲が良くないということになっているからか、あちら側でも色々あるらしい。
文の締め括りには『みっつ~堪忍え♡』とキスマークが添えられていたから家光は文を前に笑うしかなかった。
「っ、家光様……私のことを心配して下さるのですか?」
思い掛けない家光の配慮に正勝の胸が熱くなる。
「そりゃそうでしょ! 正勝は私の大事な……」
「だ、大事な……?」
……ごくり。
己に向けてくれる家光の優しく明るい声と美しい笑みに正勝は喉を鳴らした。
――私は、家光様の……?
瞬刻、どくどく、と。
心の臓が大きく音を立て、正勝は言葉の続きを待つ。
……ところが家光は言葉の続きを発することはなく、正勝から前方へと目を移していた。
「……あ。…………孝……」
これから行く先、閨に入って行く人物を遠目に見つけ家光が呟く。
……当然だが一足先に孝が入室したようだ。
「……家光様、大丈夫ですよ。何も心配することは御座いません」
家光の顔が曇った気がして、正勝は静かに声を掛ける。
己のことを家光がどう想っていようと、自分自身の気持ちは今も昔も変わらない。
――家光様が私に笑い掛けて下さる。
……正勝はそれだけで良かった。
「ぁ、うん……だよね」
――今夜は黙って寝てれば終わるんだ……!
少しの不安と共に家光も孝の入った閨へと向かった……。
◇
……今宵の閨の前で正勝と別れ、家光は静かに黙ったまま部屋へと入る。
開く襖の敷居を擦れる音がやけに大きく聞こえた気がした。
「…………」
家光が薄ぼんやりとした灯りの中で部屋内部を見回すと、初夜の時とは異なり布団が二組敷かれている。
……今夜は御伽坊主も御添寝役も居ない。
謝罪の為に設けた機会だから当たり前なのだが、何も同じ部屋で過ごす必要はない気がする。
とはいえ家光は忙しい身の上。故に、夜にしか充分な時間が取れないのは確かで、昼間に同じ機会を……となれば当分先の話となったことだろう。
……手前の布団の上には孝が座っており、家光の姿を見るなり彼は無言で頭を伏せた。
(……やっぱ謝ってるつもりなのかな……?)
家光は頭を垂れる孝を横目に、早速隣の布団に横になることにする。
……今日は多少手が空いたとはいえ、それなりに忙しい一日だったのだ。
孝の無言の土下座に貴重な睡眠時間を削ってまで付き合ってやる元気は家光にはない。
明日も早くに目を覚まし、山積みの仕事を処理していかなければならない。
現在はパス出来ている総触れも近い内にしなければならなくなる。
……正室の一日がどうなのか、家光は知らないが将軍の一日は忙しいのだ。
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