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【城下逃亡編】
269 幸せな朝?
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「……みつ、おーい、家光~」
明くる朝。柔らかな朝陽が部屋を照らし始めると、聞き慣れた男の呼び声がすぐ側で聞こえる。
声を掛けられて初めて部屋が明るいことに気付いた家光の眉は歪み、小さな唸り声を上げた。
「ぅーん、もう朝……? みちるさぁああん……どうして私の本当のなまえを知ってるの~……? 寒いからもう少し一緒に温まっていませんか……?」
昨日の雨に加え、早朝の寒さで褥から出られない家光の手が もぞもぞと隣にいるであろう満を探して彷徨う。
満は早起きだから早速水を汲みに行こうとしているのかもしれない。自らも起きて手伝わなければ――。
そうは思うが、身体が起きることを拒否するかのように重過ぎて、目は開かず彼を見つけることはできなかった。
――初めてを迎えた朝くらい、ゆっくりしてもいいのに……♡ 一緒に目を覚ましたかったな……♡
真面目な満らしいから仕方ないかと、家光は目蓋を閉じたまま口角を上げる。「手伝えなくてごめんなさい……」声のした方へと手を伸ばし、ついでに呟いておいた。
その後も何度か「家光~、おーい」と声を掛けられたが目蓋は開かず、再び深い眠りに落ちかける。
「……なあ、家光。そろそろ起きないか? 誰と間違えてるんだ?」
「……ん……間違え……?」
はて、何を間違えているというのか。
そういえば満の声と口調がいつもと違うような……。
聞き慣れた声ではあるものの、頭上で語られる声音は満のしっとりした美音とはまったく違う。
さっぱり快活で、爽やかなその声の主を……よく知っている気がする。
それでも昨夜の睦事に疲れ果てた家光が目蓋を開けるにはエネルギー不足。辛うじて返答するも、閉じられた目蓋の下で眼球が多少運動しただけに留まった。
すぅ……と鼻から安らかな吐息が漏れ出す。
「っ、こら家光寝るな。起きろって言っただろ?」
「ぅう、ん……、やぁらあ……むりれすぅ……」
きゅっ。声の主から鼻を抓まれ、家光は顔を顰め鼻を抓む男の手を叩いて払い退けた。
「さて、俺はだーれだ? 当てられたら俺が作った握り飯をやろう」
声の主に諦める気配はなく、頬につんつん。指先が触れる。
言葉遣いは少々乱暴ではあるが、突く指先も声も優しい。
「ううん、その声聞き覚えが……」
――久しぶりに聞いた気がする……。
目蓋を擦り擦り、まだ起きたくはないが相手がしつこい。このままでは起きるまで声を掛け続けられそうだ。
仕方ないから唇を尖らせ不満を主張しつつ、目蓋を開ける準備をするだけして簡単には目覚めてやらないことにした。
身体が怠くて眠いのだ、まだ起きたくないというのが正直なところ。
「家光、昨日月花から聞かなかったか?」
「月花……? あ、うー……ん? あによ風鳥ぃー? ……って、なんで風鳥!? こ、ここ満さんの部屋……!」
男の口から月花の名前が出て、ぱっと目を開けた。
道理で聞いたことがあると思ったのだ。
二人きりで居る時だけ素の言葉遣いをしてくれる風鳥は――将軍家光、自らの隠密で、護衛。
目を開けた家光の目の前には思った通り、風鳥が居た。
護衛ゆえにほぼ毎日顔を合わせる男だが、城を出た日の前日に会って以来。あまりに密な日を過ごしていたからだろう、一週間でも随分と久しぶりに会った気がする。
――風鳥が居たら、満さんに最悪な形でばれちゃうでしょうが……!
慌てて部屋の中を見回すがそこに満の姿は見当たらない。安堵してほっと一息吐いた。
朝起きたら満に全てを話そうと思ってはいたが、もし事前の説明なしに風鳥が先に彼と出会ってしまっては非常に不味い。
こういったことは先ず本人の口から説明するのが大事だと家光は思う。
……のちの関係が抉れないためにも。
「あー……あれ? 家光……だよな?」
急に狼狽え、胸を撫で下ろす独り相撲を取る家光を前に、風鳥が目をぱちくりさせ首を傾げた。
顔に何か付いていたとでも言うのか、家光は思い当たる涎と目やにをそれぞれ拭う。
ところが拭い終えても風鳥の妙な視線はそのままで、不思議顔をしていた。
「は? そうだけど……てゆうか、早く隠れないと……!(なに私の顔をじっと見て……)」
「……どういうことだ?」
このままだと満が朝の水汲みから帰って来て鉢合わせてしまう。
いずれ紹介する護衛とはいえ、今は説明が先だ。
「なにが……? あっ、みちるさんが帰って来ちゃうから風鳥、早く隠れて!」
――お得意の忍術でぱぱーっと隠れちゃってよ……!
命令せど風鳥は腕組みをし始め、家光をじっと見つめて動く気配がない。
仕方なしに家光は褥から抜け出て、動かない風鳥の背をぎゅうぎゅう押して促すが、体格の良い風鳥の身体はびくともしなかった。
それに、顔だけこちらを窺うように追って来るから、視線だけ注がれ何だか妙な気分だ。
……何となくぼうっとしているように見えるのは気のせいだろうか。
(な、何でそんな見惚れたみたいな目してるの……まだ涎が付いてるのかな……。)
もう一度唇を拭おうとすると、急に振り返った風鳥に手を取られた。
取られた手の指先、先程唇を拭った箇所にちゅっと唇を押し付けられる。
おかしい。普段風鳥はこんなことしないはずなのだが……。
「なっ。ちょっと! こんなとこ みちるさんに見られたら誤解されちゃうから放してっ」
風鳥の突然の行動に家光は動揺した。
彼とはキスした仲ではあるが、それはもう過去のこと。今の自分は満一筋、あらぬ誤解を招く行動は慎まなければ……。
「みちる……。あ、いや……、戻って来ないと思う。それよかあんまり乱暴に唇を擦るな、傷がつくぞ。あー……ほら、さっきも擦ったから赤く腫れて……痛くないか?」
満に関してさらりと返答しつつ、その後の話を聞いていないかのように風鳥の眉は下がり、唇にそっと触れてくる。
赤くなっていたらしく、酷く心配そうな顔をしていた。
少々乱暴に擦ってしまったから、多少の腫れはあるだろう。
だが今そんなことはどうでも良い。
兎に角今は風鳥に身を隠してもらう方が大事なのだ。
「え……? 水汲みに行ってるんでしょ? すぐ戻って来ちゃうってば」
――早く身を隠してよっ!
風鳥の親指がふにふにと優しく下唇を押してくるが、いつ開くともわからない障子戸ばかりが気になって、手を払い除けるのも忘れた家光は話題を満に戻した。
今、あの障子戸が開いて満が帰って来たら終わる――。
今日の風鳥は何かおかしい。
なぜ瞳に熱が宿り、間近で見つめてくるのか。
障子戸と目前に迫る熱い瞳を交互に見やり、家光の額に汗粒が浮かぶ。
……浮気だと思われたら嫌われてしまう。
風鳥もいい男だが 本当の恋を知ってしまった今の家光には、満以外の男はその他大勢にしか見えないのだ。
「早く隠れて、みちるさんが戻って来ちゃう。ほらっ」
「……だから、みちるって奴は戻って来ないって……」
「は? なに言って……」
――戻って来ない……?
もう一度。身を隠すよう風鳥の手を引いて促したが、今度ははっきりと告げられた。
いったいどういう意味なのだろう。満が戻って来ないとは……?
家光の頭の中には疑問符ばかりがついてしまう。
「……俺がここに来る時、そいつ逃げて行ったからな」
「えっ……?」
「だから――」
……風鳥の口から語られる話に家光の脳内は真っ白になっていった。
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