Formalisme──A Priori

朝倉志月

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立冬

3.

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 心臓を掴まれたように、動けなくなる。

 片桐は対照的に、弾かれたように身体を起こして、入れ違いに横断歩道を渡り始めた。

 俺は惚けたように動けなかったが、一瞬遅れて脳が視覚情報を結びつけた。片桐が痛みを堪えるように抱えた胸には、確かに俺の───だった───スケッチブックがあった。

「待てよ!」

 振り向いて呼び止めた時には、片桐は既に車道四本分は渡っていた。びくりと肩を震わせたように見えたのはこちらのひいき目かもしれないが、振り返りはしなかった。

(……だよな)

 そもそも、片桐ここで足を止めるくらいなら、俺が部屋で一人、目覚めるようなことはなかった。

「待てったら!」

 ストライドが違いすぎる。横断歩道に掛かって全力疾走しかけたところで、がっくりと腰が抜けた。履きなれない革靴で走ったりしたから───脳は勝手に言い訳を始めたが、何のことはない、昨夜のあれこれが腰に来ただけだ。

 青の点滅が始まり、それが赤に変わる頃も、みっともなく横断歩道の真ん中でへたり込んだままだった。

 中央分離帯までもたどり着けずに、横断歩道の中心を走る、生温い点字ブロックにぴたりと手を突いたまま、立ち上がれない。

 片桐の、せいだ。あいつが昨日、あんなに蕩かすから。身体の芯が抜けたままだ。

 時間帯のせいか、数えるほどの車すら通らないが、このまま通りを車が走って来ても、俺は多分、動けない。色々諦めて、力を抜いた。

 コツ、と言う靴音に目を向けると、磨き抜かれた革靴。昨夜は気が付かなかったが、黒ではなく、濃い焦げ茶───ダークチョコレートみたいな色だった。

 ゆるゆると顔を上げると、遥かな高みから見下ろす視線と目があった。

「何をしている」

 咎めるように言われた。

「腰、やったみたい」

 渋面を作った片桐は、車が来たらどうする、とか、俺でも思い付くようなしょうもないことを無駄な美声で呟くと、俺の左腕を肩に廻して、右の腰を支えた。身長差で足が付かない俺を半ば担ぐようにして、俺を近い方───公園側の歩道に戻した。そればかりではなく、入り口からは左手に少し奥まったベンチまで迷いなく辿り着き、端のベンチの左側にそっと俺を降ろした。

 三人掛けくらいのベンチには、真ん中で区切るように手摺がある。一メートル間隔で延々と並んでいるけど、誰一人通りかからない。

 ありがとう、なんて言ったら、どういたしまして、とそのまま立ち去ってしまいそうだったので、関係ないことを聞いた。

「何してたの、こんなとこで」

「朝の……散歩だ」

 嘘つけ、とは言わないでおいてやった。

 昨日から着たままの奴の三つ揃えは、何事もなかったかのように今もぴしりとしている───いっそ、外を歩けないくらい汚してやれば良かった。
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