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立冬
2.
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(腕時計?)
思い出した途端に、片桐の手の感覚が肌の上で蘇った。あの手が心臓の上に来て、時計が掠って俺が冷たさに身を竦めた―――その、ほんの一瞬を、片桐は見逃さなかったのを思い出した。
光るものを手に取ってみると、それは、時計ではなかった。四角い銀色のカフスボタン。俺のものであるはずがない。前の宿泊客? 一瞬、逃避のような発想をしかけたが、こんなホテルが、ベッドメイクの時に見逃す筈がない。こんなものを使うのは、片桐に決まっている。昨夜、会社の郵便受けで騒いだ時に、手首に何か光ったのを思い出した。
わざわざカフスボタンなんか使うくせに、こんなにシンプルものを使うのか、と当たり前のようにこなれた洗練に、改めて苛ついた。
よく見ると、造りは重厚だった。丁寧に面取りされているのは当たり前として、デザイン性まで配慮した、美しい角度。鏡面が良く磨いてはあるけれど、使い込んであり、長く大切にされて来たものだとわかった。
冷たい金属を掌に握り込み。家の鍵とは逆のポケットに突っ込んだ。フロントに預ければ、落とし物として処理されるだろう。
もう、この部屋には何も残っていない。入口横のカードホルダーから鍵を抜いて、外に出た。
来た時とは違って一人でエレベータに乗って、地上階へ下りた。
受付の鍵のボックスにカードキーを入れようとしたけれど、思い直して今は一人だけ、フロント前で立ち番している係の前にカードキーを置いた。預けようと思っていたカフスボタンを、なぜポケットの中で握り直したのかわからない。礼を言うフロントに、頷いて見せる。
足が絨毯に沈み込みそうだった。一言でも発したら、色々決壊しそうだった。
まだ開いていないロビーラウンジを右目で捉えつつ、二重の自動扉を抜けて外の車寄せの前に立つと、室内との寒暖差に身が竦んだ。
時刻は五時半。東の空に差しているのは確かに朝の光なのに、陽はまだ昇っていない。夜の存在感の方がまだ大きいような気がした。界隈にやたらめったらある地下鉄入口は、探すまでもなく、横断歩道を隔ててエントランスの殆ど正面にあった。
昨日はぴよぴよ鳴っていた歩道の音も今の時間は消えている。何歩も進んでいないのに、目に入る物入る物───一緒に降りてきた車寄せから植え込みから、靴音を立てた石畳から────何から何までもが、あいつとの記憶に結び付いて、頭がおかしくなりそうだった。目だけじゃない。身体が竦んで、蹲っててしまいたくなるのを堪えて、横断歩道を渡る。
ホテル真正面から、向かって右にずれた公園の入り口を見ると。歴史的に有名な石造りの門柱にはまだ白銀灯がともっていて、まだ黒く浮かび上がる木々をより一層暗く浮かび上がらせていた。蛍光灯色に輝く地下鉄の案内板を避けるように───違う世界に誘われるように、足を踏み入れた。
(───目まで)
おかしくなったと思った。視界の範囲には誰もいないのに、何かが左目の隅をよぎった気がして、首を回すと、長身の人影が、門柱の陰に溶け込むように背を預けていた。
(離れろ)
理性がどこかで警鐘を鳴らす。やっとのことで身体を引き摺り起こしてここまで来たのに、本当に後戻りできなくなる。今なら見なかったことにして、このまま忘れてしまえばいい───でも、足が言うことを聞かなかった。二歩、三歩と進んだところで、様子がおかしいことに気付く。
苦し気に肩で息をして、額と胸を押さえている相手が、顔を上げた。驚くほど顔色が悪い。指と、落ちた前髪の間から覗く目は、手負いの獣のようだった。
思い出した途端に、片桐の手の感覚が肌の上で蘇った。あの手が心臓の上に来て、時計が掠って俺が冷たさに身を竦めた―――その、ほんの一瞬を、片桐は見逃さなかったのを思い出した。
光るものを手に取ってみると、それは、時計ではなかった。四角い銀色のカフスボタン。俺のものであるはずがない。前の宿泊客? 一瞬、逃避のような発想をしかけたが、こんなホテルが、ベッドメイクの時に見逃す筈がない。こんなものを使うのは、片桐に決まっている。昨夜、会社の郵便受けで騒いだ時に、手首に何か光ったのを思い出した。
わざわざカフスボタンなんか使うくせに、こんなにシンプルものを使うのか、と当たり前のようにこなれた洗練に、改めて苛ついた。
よく見ると、造りは重厚だった。丁寧に面取りされているのは当たり前として、デザイン性まで配慮した、美しい角度。鏡面が良く磨いてはあるけれど、使い込んであり、長く大切にされて来たものだとわかった。
冷たい金属を掌に握り込み。家の鍵とは逆のポケットに突っ込んだ。フロントに預ければ、落とし物として処理されるだろう。
もう、この部屋には何も残っていない。入口横のカードホルダーから鍵を抜いて、外に出た。
来た時とは違って一人でエレベータに乗って、地上階へ下りた。
受付の鍵のボックスにカードキーを入れようとしたけれど、思い直して今は一人だけ、フロント前で立ち番している係の前にカードキーを置いた。預けようと思っていたカフスボタンを、なぜポケットの中で握り直したのかわからない。礼を言うフロントに、頷いて見せる。
足が絨毯に沈み込みそうだった。一言でも発したら、色々決壊しそうだった。
まだ開いていないロビーラウンジを右目で捉えつつ、二重の自動扉を抜けて外の車寄せの前に立つと、室内との寒暖差に身が竦んだ。
時刻は五時半。東の空に差しているのは確かに朝の光なのに、陽はまだ昇っていない。夜の存在感の方がまだ大きいような気がした。界隈にやたらめったらある地下鉄入口は、探すまでもなく、横断歩道を隔ててエントランスの殆ど正面にあった。
昨日はぴよぴよ鳴っていた歩道の音も今の時間は消えている。何歩も進んでいないのに、目に入る物入る物───一緒に降りてきた車寄せから植え込みから、靴音を立てた石畳から────何から何までもが、あいつとの記憶に結び付いて、頭がおかしくなりそうだった。目だけじゃない。身体が竦んで、蹲っててしまいたくなるのを堪えて、横断歩道を渡る。
ホテル真正面から、向かって右にずれた公園の入り口を見ると。歴史的に有名な石造りの門柱にはまだ白銀灯がともっていて、まだ黒く浮かび上がる木々をより一層暗く浮かび上がらせていた。蛍光灯色に輝く地下鉄の案内板を避けるように───違う世界に誘われるように、足を踏み入れた。
(───目まで)
おかしくなったと思った。視界の範囲には誰もいないのに、何かが左目の隅をよぎった気がして、首を回すと、長身の人影が、門柱の陰に溶け込むように背を預けていた。
(離れろ)
理性がどこかで警鐘を鳴らす。やっとのことで身体を引き摺り起こしてここまで来たのに、本当に後戻りできなくなる。今なら見なかったことにして、このまま忘れてしまえばいい───でも、足が言うことを聞かなかった。二歩、三歩と進んだところで、様子がおかしいことに気付く。
苦し気に肩で息をして、額と胸を押さえている相手が、顔を上げた。驚くほど顔色が悪い。指と、落ちた前髪の間から覗く目は、手負いの獣のようだった。
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