Formalisme──A Priori

朝倉志月

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立冬

1.

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 夜が朝の気配に変わった気がして目が覚めたが、遮光カーテンの向こうは、まだ暗かった。冷え冷えとした空気を感じた気だってしたのに、部屋は空調が快適な温度を保っている。

 身体を起こすまでもない。昨夜ずっと背中にあった体温は消えている。

 ぴしりと整えられたシーツと、肩口まで掛けられた上掛け。二人で絡まり合っていた位置を避けて、反対側に、きちんとヘッドボード側を枕にして、横たえられている。

 わかっている。あいつの腕の中で目が覚めることを期待していたわけじゃない。

 時間を掛けて、ゆっくりゆっくり身体を引き摺り起こした。生まれてこの方、ここまで身体が重かったことはない。何よりも、胸が重い。身体は清めてあるらしく、このままでも服を着られそうだったが、微かなトワレが鼻腔の奥にまとわりついているような気がして、シャワー室に飛び込んだ。

 鼻腔の奥に残るトワレの匂いや体温まで洗い流そうと、頭の天辺からざんざか湯を浴びた。

 飛び出すのもあまりに業腹だったから、時間を掛けて丁寧に髪を乾かして、櫛から髭剃りから、使い切れない贅沢なアメニティを使えるだけ使って身支度を整えて。いつもと違う匂いが、まるで他人の───あいつとはまた違う誰かの気配が移ったようで、ひどく後悔した。

 クローゼットの中を漁る。スーツの上下は、プレスを掛けたみたいにきちんと掛かっているが、ポケットに物が入った分だけ、型が崩れている。胸ポケットの厚みは、触ってみる間でもなく、昨夜のままだった。スマホも上着のポケットに入って、パンツには家の鍵と、尻ポケットの財布もそのまま。らしくない。わざとだろう。

 あいつが整えたシャツ。ネクタイ。何もかもが忌々しい。行きずりの俺一人、一言もなく放り出して行くくせに、何一つぞんざいに扱わない。

 得体の知らない圧が目と肺に掛かり、息が苦しくなった。目を見開いたまま、やたらと大きく吸って、吐いた。何度も、何度も。

 肩で息を吐きながら、洗面台に両手をつく。

 こんなに苦しいのに、ここを出て、帰るだけなのに、なぜ鏡の前でネクタイまで締めているのか、自分でわからない。

 洗面所を出て、俺が転がっていたベッドと、何も乗っていないテーブルを見るともなく見る。何も残ってはいない───当たり前だ。そもそも、片桐は手ぶらだった。

 やっぱり、嫌だ。一秒でも早く、ここを出たい。

 背を向けかけたのに、なぜか自分が這い出てきた後の上掛けを伸ばして戻したりした。

 思い立って、クローゼットにあった不織布で就活靴も光らせた。

 そしてとうとう、することがなくなった。

 この部屋を出てしまったら今度こそすべての繋がりが切れてしまう。いや、出ようと出まいと、わかり切っていたことだ。

 どちらにしたって、後悔する―――俺自身が言ったくせに、未練たらしいこと、この上ない。

(今さら、だろうがよ)

 お笑いだ。俺は一体、何がしたかったんだ?

 あいつと、寝て───抱かれてみたかっただけ。

 ぼやけた視界で今度こそ背を向けようとして、目に入る光に気付く。俺が転がされていた方と反対の枕の側に、金属の光沢が見えた。
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