Formalisme──A Priori

朝倉志月

文字の大きさ
上 下
46 / 51
立冬

6.

しおりを挟む
 片桐は何も聞こえなかったかのように、目を落としたままだったが、やがてゆっくりと顔を上げた。自分が何を聞いたのか、わからないような顔をしている。

「ちゃんと聞こえたろ」

 片桐は、頷いているんだかなんだかわからない様子で再び頭を落とすと、存在を確認するみたいに俺の肩甲骨辺りに手を当てて引き寄せた。

 一旦はそれに身体を預けた後、俺は片桐の胸板をそっと押し返した。

「立てる? あんたが座り込んでたら、人がびっくりするよ」

 片桐は、俺の身体を離したが、握り直した俺の左手首は、離さなかった。

 そのまま、こいつとしてはありえないほど不格好に立ち上がると、服の埃も払わずに、俺の手首を引いたまま、放り出したスケッチブックを拾った。

 片手を引かれるままに、そのまま歩く。どこに行くのかと思いきや、片桐は道を渡ってホテルの車寄せで客待ちのタクシーに俺を押し込んで、自分も乗り込んだ。

「高輪台へ、一番速い道で」

 桜田通でいいですか、日曜ですし、今の時間は流れてますよ、と言う運転手に頷いて見せた後、黙り込んだ片桐は、車窓に目をやっているのに、やっぱり俺の手は離さない。

 まさか連行されているようには見えないだろうが、運転手はどう思っているだろう。

 ふと手元を見ると、昨夜左手を齧られた跡がまだ付いていて、慌てて目を反らした。

 人がいる前で口を開く気にもならない。そっぽを向いて流れていくビル群を見た。

 やがて、幹線道路を南下して二十分かそこら走ったところで、片桐は右手で俺の手首を握ったまま、不自由そうに隠しの財布を取り出そうとした。

「離しても逃げようがないだろ」

 呆れて声を掛けたら、片桐は親指と人差し指だけ放して万札を取り出し、片手で苦労して懐に戻すと言われた通りにマンションの車寄せに入った運転手に言った。

「釣りは結構」

 その四分の一くらいのところでメーターを止めた運転手が驚いた顔をすると、急いでいるので、と素っ気なく言って、やっぱり俺の手を引いて車を降りた。

 そこは一見して築年数が比較的新しいファミリータイプのマンションだ。やはり日曜のこんな時間、姦しいのは雀の声だけだった。

 中も予想通りと言うか、高級感のある、落ち着いたエントランスで数字を入力し、どんどん奥に入っていく。少しずつ足早になっていく片桐の歩幅についていけず、殆ど小走りになって引きずられた。

 エレベータを五階で降りると、ディンプルキーで扉を二箇所開錠し、俺を中に押し込むようにして玄関に入れると、後ろ手で鍵を締めてドアバーを掛け、俺の左腕を掴んだままの腕をやっと放した。

 うちの何倍もある、大理石の三和土で、片桐はゆっくり手を上げて、頬を辿った。薄暗い玄関で、片桐の指先が震えている───と思った瞬間、すっとその手が引かれた。構わずに一歩詰める。

「なに?」

 物言いたげな片桐の瞳に、こちらから問いかけた。微かに開いた唇に目が吸い寄せられる。自分自身が何を欲しがっているのか分かって、思わず目を反らした。思わず扉の前に立ち塞がっている片桐を脇へどけて、外に出ようとした。
しおりを挟む

処理中です...