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第二章 愛される覚悟の準備
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浴室から出てきた神崎部長は、先程の切羽詰まったオス剥き出しの表情から一変。
悪い事をして悄げている犬の様な顔で現れた。
「酒でも頼めばよかったな…」
「え?」
「はぁー…酒の勢いがあれば私も少しは違ったかもしれないと思いました」
さっき鳴り止んだはずの動悸が、また激しくなる。
この後の展開なんて、私には経験不足でどう対応したらいいのか全く分からない。
というか、生粋の28歳喪処女の私にこれは余りにもハードル高すぎやしません?
「…好きです、飯塚さん」
ちょーー!?
神崎部長さん! 準備くらいさせてくれても良くないですか?
私、準備出来てないですよ!
それ以前に、その顔!
何ですか、そのなんとも言えない…『観念しました。許して下さい』みたいな悪い事した後のゴールデンレトリバーみたいな顔!
いや、好きなんですよ、ゴールデンレトリバー。
いや、て言うかね! そんな顔、世の女性が見たら発狂して喜んで飛び付くに決まってます!
いや、私にその度胸はありませんがね?
「飯塚さん、聞いてますか?」
「ひょぁ?」
「はぁー…私はあなたが好きなんですよ、飯塚さん」
「…あ」
ダメ押しの告白。
これに今イエスと応える度胸のない私。
単純に嬉しい。
好意を持たれ、それを表現される事に慣れていないけれど、そうであっても神崎部長の告白は嬉しい。
だけど、それを受け入れる…私なんかが受け入れて良いものだろうか。と、変な靄もかかっている。
物珍しいだけかもしれない。
黄色の嬌声をあげて、神崎部長に擦り寄らない女の飯塚 涼子に、彼が勘違いを起こして興味を好意と間違えたのかもしれない。
「…飯塚さん、何を伝えればあなたに伝わりますか?」
「神崎部長…私は、」
「初めて会話をしたのは、君がインターンでうちに来た時です」
「…え?」
「リクルートスーツに、インターンバッチで誰よりもテキパキと動いて、笑顔で仕事をする君を見て、初めは気持ちのいい仕事の仕方をする子が入るんだな。と興味から目がいくようになりました」
話し始めた部長の目は、しっかりと私の双眼を離さず、見つめて懐かしむような柔らかい目をしている。
胸の締め付けはさらに酷くなるばかりで…。
「いつだったか、君が悪いわけではなかったのに君が怒られていた。明らかにあれはただの八つ当たりでした。それを君は反論せずにぐっと飲み込んで頭を下げていた」
懐かしいな…
そうだ。あの頃、楽しかったインターンも後少しって時に、当時禿げちゃびんデブの部長への電話を回して怒られたんだよね。
話を途中で遮るほどの内容じゃないんだから、状況判断して回せないのかってよく分からない事で怒られてさぁ、何も言えなくて悔しかった。
電話回せって言ってきたのは、課長だったのに、あいつもあいつで庇ったりせずに黙ってそれを見て、フォローもせずに外回りに出て行ってた。
それが今じゃ、重役様なんだから、おえらいこって。
「その後、あの自販機の前で声を殺して泣いている君を見て、どうしようもなく……抱き締めたくなった」
「…っ」
息を…一瞬、息をどうしていいのか分からなくなった。
無意識に、神崎部長の腕組みされた太い腕を見て緊張でカラカラだった口の中がジワリと唾液で満たされる。
動悸だって、尋常じゃないくらい速いし、どこを見ていたら良いのか分からない。
思わず視線を部長から逸らして、膝の上で固く握られた拳を見るしか術がない。
「あの日、君を抱きしめるのを我慢して、君にミルクティーを渡しました。君を励ますつもりで、『前を向いて』と伝えて背中を押して…その君が入社式で新卒の中にいた時、自分を呪いましたね」
「の、呪う?」
呆れたようなそんな声が、先程より近い所で聞こえる。
自分の周りに出来た影に神崎部長がすぐ目の前にいる事は分かった。
分かったけれど、顔を上げる勇気はない。
上げてしまえばきっと単純でバカな私は間に受けてしまう。
「君のインターンか終わってすぐ、私は入社式の翌日から、NY支社への赴任が決まっていました。5年かけて、ようやく戻って来れて、まだあなたがいる事に安堵しました」
「…5年、も?」
「バカだと思うかもしれない。でも、5年も君を忘れられない程、私は君にメロメロのようですよ?」
「っ!?」
しゃがんだ神崎部長が、下を向く私に視線を合わせた。
近くで見るブラウンの瞳は、ダークブラウンにも見えてキレイだな。とか呑気な事を思ってしまった。
「5年もあれば、きっともっと早く君を抱きしめられたかもしれない」
「…か、んざき…部長」
部長は、スカートから少しだけ除く膝に、唇を当てた。湿気を孕んだ熱い吐息が素肌を撫ぜて、お腹の奥がきゅんとする。
「君は自分には魅力がないと言うが、そんな事はない。凛と伸びた背筋も、どんな事にも真っ直ぐな所も、たまに傷付いてへこむところも、それを我慢するところも、笑うと三日月型になる目も、困った時に下がる眉毛も…上げればキリがないほど、魅力的だ…はぁー」
矢継ぎ早にどんどん出てくる私の魅力とやらの細かさに驚きの方が勝る。
だって、神崎部長の存在は知っていたけれど、入社してから話した事なんてなかったし、NYにいた期間もあるから会ったことだってない。噂しか、知らない。
なのに、どうしてこうも私の癖というか、仕草というか…そういう細かいところが?
これが、ブ男だったならきっと気持ち悪いと思うんだろうな。なんて、検討違いを考えて現実逃避をはかってみる。
「まるでストーカーだな…自分で言ってて気持ち悪い気分になりますね、すみません」
「(ひょあー!!)」
なんだその顔!
何でそんなにあま~い顔になってんの?
ってか、あなたがイケメンだから別に大丈夫だと思います! だって、現に私は気持ち悪いとは思わない!
これが俗に言う──だが、イケメンに限る。ってヤツなんだな。
とか、関心までしてしまう始末です、えぇ!
だから、大丈夫です!
「気持ち悪いついでに言うと、先程…あなたに迫ってみて分かりました。」
「へ?」
「あの距離が限界の一歩手前ですね」
「…限界? 何のですか?」
聞かなければいいものを、聞いてしまったのは私が無知すぎだったからなのか、それとも何処かで期待をしていたからなのか・・・
──おそらくは前者だと思う。
「あなたを襲いたい衝動を抑えられる理性の限界です。この距離だって、結構ギリギリです」
「な、なら、もう少し離れても…」
「私が近づくのは嫌ですか?」
あー! その聞き方はずるいと思います!
だって、イケメンにそんな事言われて、「はい、イヤです」なんて言える人いると思いますか?
つーか、その前にさっきから徐々に近くなってませんか?
ひょえぇー! ちょーーーー!
イケメン近すぎて、息の仕方分かんねーよぉー
ぎゅっと口元を結んで、限界まで絞った鼻息、苦しくなるし、限界だって言っていた距離まで容赦なく詰めてくる神崎部長。
さっき、浴室に戻って正気になったと思っていたのに、出てきたらさっきより積極的過ぎませーーーん!??
「…飯塚さん。嫌だったらひっぱたくなり、蹴るなり、押し退けるなりして下さい」
「っ」
「でないと私は卑怯な手を使ってしまう」
いえ、もう十二分に卑怯な手でここに閉じ込められております。
どうか、28歳喪処女に御慈悲をお与え下さい。御慈悲うぉ~(→)ぉ~(↑)ぉ~(↓)・・・
いや、抑揚をつけた理由は特にあるわけではないの・・・無いけど、もうふざけた事考えてないと正気でいられないんだって!!
すぐ近くで神崎部長の吐息がかかるのが分かる。
どう考えても、この距離を男性と経験したことのない私には許容範囲をオーバー……メーターは振り切っているし、少しでも動こうものならきっと神崎部長に触れてしまう。
速くなり続ける心臓の音が身体の中からダイレクトに伝わる。こんな経験は、きっとこれから先もないだろう。これで、少しは私の恋愛偏差値も上がっただろうか。
なんて、呑気なことを考え始めてしまうくらいには、てんぱっている。
「飯塚さん、目を開けないとこのままキスしてしまいますよ?」
「ひょ!?……っ」
硬く結んだ拳を大きな熱い手が覆いかぶさってそこだけ火傷しそうなほどだ。
思い余って開けた視界はブラウンの瞳としっかりぶつかって、後悔してしまった。
あぁ、これがイケメンフェロモン製造機の罠ですね。
「急いでしまった事は謝ります。でも、逃がさないと宣言したので、おとなしく捕まってくれませんか?」
「あ、あの…私…」
なんて言えばいいの?
私の中で、もう一人の臆病な私が必死に訴えている。
胸もない、男前な女、身長もひょろ長くて、おまけにこじらせアラサーの喪処女の女に、真剣になる男なんていない!
恋愛百戦錬磨であろうこの男に捕まったら、絶対に傷ついて後悔するに決まってる。これまでだってそうだったように、これからだって変わらない!
そうだ。私には、こんなハイレベルな男と恋愛が出来るほどの経験なんてない。
がんばったところで、疲れて息切れするだけだ。
分かっている。分かっているんだ。
ツーンと鼻の奥が熱くなって、ジワリと目頭も熱くなって視界が歪む。
あぁ、こぼれてしまう。我慢してきた。
女になりきれない女の私で、それを諦めて受け入れてきたつもりだったのに…。
溢れる涙を見せたくなくて、また視線は膝の上に戻る。そこにある筈の私の拳が見える訳もなく、あるのは大きな血管の浮き出た男の人の手。
あぁ、この人の手はこんなにも大きいんだ…。
「私…自信なんてありません。か、神崎部長のように経験だってあるわけじゃないんです。む、胸だってぺったんこで、仕事だって男みたいにやるし、と、特別かわいいわけでも、キレイなわけでもないです。そ、それに、しょ、処女…だし…28にもなって経験すらない、少女マンガ好きのこじらせアラサー喪処女ですよ?! それなのに、なんで私なんですか…私は…だから…」
「…それだけですか?」
「え?」
「貴方が私のものにならない理由は、それだけかと聞いたんです」
「…あのっ」
握った拳の上に置かれた神崎部長の手にぎゅっと力が入ったのが分かった。
一気にまくし立てて、こぼれそうな涙を携えたままでいたのに、急に低くなった神崎部長の声に反射的に顔を上げると鋭い視線に捕まった。
「君が自信がないというなら、私が君に自信をあげます。私が諦めるための理由を君がどんなに並べても、それでは諦めなんてつかない。君が思っている以上に、私は君に夢中ですよ。10も離れたおじさんに言い寄られてかわいそうとは思いますが、観念しなさい。君が女に成りきれないというのなら、私が女にしてあげます。年の功で経験した過去は変えられませんが、これから先の時間は貴方に差し上げます。だから…飯塚さん、黙って…」
「…ふぁッ」
「俺に食われてろ」
ぐっと近づいた神崎部長が、これでもかというほどに甘ったるい声を右耳に流し込んだ。
チュッと軽いリップ音が耳に何度もダイレクトに浴びせられる。
耳の裏、耳たぶの付け根、首筋まで下がる神崎部長の唇。
時折ハァと漏れる熱い吐息にゾクリと背中がしびれるような感覚。
押さえつけようにも、漏れる自分の声。
握られっぱなしの手は、逃がしはしないと言わんばかりにしっかりと神崎部長の中でぎゅっと握られたまま。
「ん…ふぁ…ぁ」
「ハァ…ダメだ、そんな甘ったるい声」
「待っ…んぅ…ぶちょ」
「…拒む理由がなくなったら、止めてあげます」
いやいやいや!!
今すぐ止めてくださいよ! もう、恥ずかしいやら、熱いやら、心臓破裂しそうやらで、どうにかなってしまいます!?
ってゆか、死んだらとーしてくれるんですか?!
断る以外の選択肢すら選ばせてもらえない状況にされて、脳内で訴えていたもう一人の私の発言なんてすっかりなりを潜めてしまってる。
でも、なんていえば正解なのか分かりもしないし、どう言えば収まるのかも分からない。
何処までも拗らせた経験値のない28歳喪処女、それが私である。
「もう、諦めて私のものになれそうですか?」
助け舟のような、その問いには『イエス』か『はい』でしか答えられそうにない。
神崎部長の質問に何て答えたのかはあまり記憶にない。むしろ、応えたのかも不明だが…。
でも、解かれた部長の手が私の体を強く抱きしめていたのは事実で、もう逃げる事が出来ないと観念した自分がいた事を実感した。
久しぶりに外気にふれた拳の中は、28年間で初めての経験にじっとりと汗でぬれていた。
悪い事をして悄げている犬の様な顔で現れた。
「酒でも頼めばよかったな…」
「え?」
「はぁー…酒の勢いがあれば私も少しは違ったかもしれないと思いました」
さっき鳴り止んだはずの動悸が、また激しくなる。
この後の展開なんて、私には経験不足でどう対応したらいいのか全く分からない。
というか、生粋の28歳喪処女の私にこれは余りにもハードル高すぎやしません?
「…好きです、飯塚さん」
ちょーー!?
神崎部長さん! 準備くらいさせてくれても良くないですか?
私、準備出来てないですよ!
それ以前に、その顔!
何ですか、そのなんとも言えない…『観念しました。許して下さい』みたいな悪い事した後のゴールデンレトリバーみたいな顔!
いや、好きなんですよ、ゴールデンレトリバー。
いや、て言うかね! そんな顔、世の女性が見たら発狂して喜んで飛び付くに決まってます!
いや、私にその度胸はありませんがね?
「飯塚さん、聞いてますか?」
「ひょぁ?」
「はぁー…私はあなたが好きなんですよ、飯塚さん」
「…あ」
ダメ押しの告白。
これに今イエスと応える度胸のない私。
単純に嬉しい。
好意を持たれ、それを表現される事に慣れていないけれど、そうであっても神崎部長の告白は嬉しい。
だけど、それを受け入れる…私なんかが受け入れて良いものだろうか。と、変な靄もかかっている。
物珍しいだけかもしれない。
黄色の嬌声をあげて、神崎部長に擦り寄らない女の飯塚 涼子に、彼が勘違いを起こして興味を好意と間違えたのかもしれない。
「…飯塚さん、何を伝えればあなたに伝わりますか?」
「神崎部長…私は、」
「初めて会話をしたのは、君がインターンでうちに来た時です」
「…え?」
「リクルートスーツに、インターンバッチで誰よりもテキパキと動いて、笑顔で仕事をする君を見て、初めは気持ちのいい仕事の仕方をする子が入るんだな。と興味から目がいくようになりました」
話し始めた部長の目は、しっかりと私の双眼を離さず、見つめて懐かしむような柔らかい目をしている。
胸の締め付けはさらに酷くなるばかりで…。
「いつだったか、君が悪いわけではなかったのに君が怒られていた。明らかにあれはただの八つ当たりでした。それを君は反論せずにぐっと飲み込んで頭を下げていた」
懐かしいな…
そうだ。あの頃、楽しかったインターンも後少しって時に、当時禿げちゃびんデブの部長への電話を回して怒られたんだよね。
話を途中で遮るほどの内容じゃないんだから、状況判断して回せないのかってよく分からない事で怒られてさぁ、何も言えなくて悔しかった。
電話回せって言ってきたのは、課長だったのに、あいつもあいつで庇ったりせずに黙ってそれを見て、フォローもせずに外回りに出て行ってた。
それが今じゃ、重役様なんだから、おえらいこって。
「その後、あの自販機の前で声を殺して泣いている君を見て、どうしようもなく……抱き締めたくなった」
「…っ」
息を…一瞬、息をどうしていいのか分からなくなった。
無意識に、神崎部長の腕組みされた太い腕を見て緊張でカラカラだった口の中がジワリと唾液で満たされる。
動悸だって、尋常じゃないくらい速いし、どこを見ていたら良いのか分からない。
思わず視線を部長から逸らして、膝の上で固く握られた拳を見るしか術がない。
「あの日、君を抱きしめるのを我慢して、君にミルクティーを渡しました。君を励ますつもりで、『前を向いて』と伝えて背中を押して…その君が入社式で新卒の中にいた時、自分を呪いましたね」
「の、呪う?」
呆れたようなそんな声が、先程より近い所で聞こえる。
自分の周りに出来た影に神崎部長がすぐ目の前にいる事は分かった。
分かったけれど、顔を上げる勇気はない。
上げてしまえばきっと単純でバカな私は間に受けてしまう。
「君のインターンか終わってすぐ、私は入社式の翌日から、NY支社への赴任が決まっていました。5年かけて、ようやく戻って来れて、まだあなたがいる事に安堵しました」
「…5年、も?」
「バカだと思うかもしれない。でも、5年も君を忘れられない程、私は君にメロメロのようですよ?」
「っ!?」
しゃがんだ神崎部長が、下を向く私に視線を合わせた。
近くで見るブラウンの瞳は、ダークブラウンにも見えてキレイだな。とか呑気な事を思ってしまった。
「5年もあれば、きっともっと早く君を抱きしめられたかもしれない」
「…か、んざき…部長」
部長は、スカートから少しだけ除く膝に、唇を当てた。湿気を孕んだ熱い吐息が素肌を撫ぜて、お腹の奥がきゅんとする。
「君は自分には魅力がないと言うが、そんな事はない。凛と伸びた背筋も、どんな事にも真っ直ぐな所も、たまに傷付いてへこむところも、それを我慢するところも、笑うと三日月型になる目も、困った時に下がる眉毛も…上げればキリがないほど、魅力的だ…はぁー」
矢継ぎ早にどんどん出てくる私の魅力とやらの細かさに驚きの方が勝る。
だって、神崎部長の存在は知っていたけれど、入社してから話した事なんてなかったし、NYにいた期間もあるから会ったことだってない。噂しか、知らない。
なのに、どうしてこうも私の癖というか、仕草というか…そういう細かいところが?
これが、ブ男だったならきっと気持ち悪いと思うんだろうな。なんて、検討違いを考えて現実逃避をはかってみる。
「まるでストーカーだな…自分で言ってて気持ち悪い気分になりますね、すみません」
「(ひょあー!!)」
なんだその顔!
何でそんなにあま~い顔になってんの?
ってか、あなたがイケメンだから別に大丈夫だと思います! だって、現に私は気持ち悪いとは思わない!
これが俗に言う──だが、イケメンに限る。ってヤツなんだな。
とか、関心までしてしまう始末です、えぇ!
だから、大丈夫です!
「気持ち悪いついでに言うと、先程…あなたに迫ってみて分かりました。」
「へ?」
「あの距離が限界の一歩手前ですね」
「…限界? 何のですか?」
聞かなければいいものを、聞いてしまったのは私が無知すぎだったからなのか、それとも何処かで期待をしていたからなのか・・・
──おそらくは前者だと思う。
「あなたを襲いたい衝動を抑えられる理性の限界です。この距離だって、結構ギリギリです」
「な、なら、もう少し離れても…」
「私が近づくのは嫌ですか?」
あー! その聞き方はずるいと思います!
だって、イケメンにそんな事言われて、「はい、イヤです」なんて言える人いると思いますか?
つーか、その前にさっきから徐々に近くなってませんか?
ひょえぇー! ちょーーーー!
イケメン近すぎて、息の仕方分かんねーよぉー
ぎゅっと口元を結んで、限界まで絞った鼻息、苦しくなるし、限界だって言っていた距離まで容赦なく詰めてくる神崎部長。
さっき、浴室に戻って正気になったと思っていたのに、出てきたらさっきより積極的過ぎませーーーん!??
「…飯塚さん。嫌だったらひっぱたくなり、蹴るなり、押し退けるなりして下さい」
「っ」
「でないと私は卑怯な手を使ってしまう」
いえ、もう十二分に卑怯な手でここに閉じ込められております。
どうか、28歳喪処女に御慈悲をお与え下さい。御慈悲うぉ~(→)ぉ~(↑)ぉ~(↓)・・・
いや、抑揚をつけた理由は特にあるわけではないの・・・無いけど、もうふざけた事考えてないと正気でいられないんだって!!
すぐ近くで神崎部長の吐息がかかるのが分かる。
どう考えても、この距離を男性と経験したことのない私には許容範囲をオーバー……メーターは振り切っているし、少しでも動こうものならきっと神崎部長に触れてしまう。
速くなり続ける心臓の音が身体の中からダイレクトに伝わる。こんな経験は、きっとこれから先もないだろう。これで、少しは私の恋愛偏差値も上がっただろうか。
なんて、呑気なことを考え始めてしまうくらいには、てんぱっている。
「飯塚さん、目を開けないとこのままキスしてしまいますよ?」
「ひょ!?……っ」
硬く結んだ拳を大きな熱い手が覆いかぶさってそこだけ火傷しそうなほどだ。
思い余って開けた視界はブラウンの瞳としっかりぶつかって、後悔してしまった。
あぁ、これがイケメンフェロモン製造機の罠ですね。
「急いでしまった事は謝ります。でも、逃がさないと宣言したので、おとなしく捕まってくれませんか?」
「あ、あの…私…」
なんて言えばいいの?
私の中で、もう一人の臆病な私が必死に訴えている。
胸もない、男前な女、身長もひょろ長くて、おまけにこじらせアラサーの喪処女の女に、真剣になる男なんていない!
恋愛百戦錬磨であろうこの男に捕まったら、絶対に傷ついて後悔するに決まってる。これまでだってそうだったように、これからだって変わらない!
そうだ。私には、こんなハイレベルな男と恋愛が出来るほどの経験なんてない。
がんばったところで、疲れて息切れするだけだ。
分かっている。分かっているんだ。
ツーンと鼻の奥が熱くなって、ジワリと目頭も熱くなって視界が歪む。
あぁ、こぼれてしまう。我慢してきた。
女になりきれない女の私で、それを諦めて受け入れてきたつもりだったのに…。
溢れる涙を見せたくなくて、また視線は膝の上に戻る。そこにある筈の私の拳が見える訳もなく、あるのは大きな血管の浮き出た男の人の手。
あぁ、この人の手はこんなにも大きいんだ…。
「私…自信なんてありません。か、神崎部長のように経験だってあるわけじゃないんです。む、胸だってぺったんこで、仕事だって男みたいにやるし、と、特別かわいいわけでも、キレイなわけでもないです。そ、それに、しょ、処女…だし…28にもなって経験すらない、少女マンガ好きのこじらせアラサー喪処女ですよ?! それなのに、なんで私なんですか…私は…だから…」
「…それだけですか?」
「え?」
「貴方が私のものにならない理由は、それだけかと聞いたんです」
「…あのっ」
握った拳の上に置かれた神崎部長の手にぎゅっと力が入ったのが分かった。
一気にまくし立てて、こぼれそうな涙を携えたままでいたのに、急に低くなった神崎部長の声に反射的に顔を上げると鋭い視線に捕まった。
「君が自信がないというなら、私が君に自信をあげます。私が諦めるための理由を君がどんなに並べても、それでは諦めなんてつかない。君が思っている以上に、私は君に夢中ですよ。10も離れたおじさんに言い寄られてかわいそうとは思いますが、観念しなさい。君が女に成りきれないというのなら、私が女にしてあげます。年の功で経験した過去は変えられませんが、これから先の時間は貴方に差し上げます。だから…飯塚さん、黙って…」
「…ふぁッ」
「俺に食われてろ」
ぐっと近づいた神崎部長が、これでもかというほどに甘ったるい声を右耳に流し込んだ。
チュッと軽いリップ音が耳に何度もダイレクトに浴びせられる。
耳の裏、耳たぶの付け根、首筋まで下がる神崎部長の唇。
時折ハァと漏れる熱い吐息にゾクリと背中がしびれるような感覚。
押さえつけようにも、漏れる自分の声。
握られっぱなしの手は、逃がしはしないと言わんばかりにしっかりと神崎部長の中でぎゅっと握られたまま。
「ん…ふぁ…ぁ」
「ハァ…ダメだ、そんな甘ったるい声」
「待っ…んぅ…ぶちょ」
「…拒む理由がなくなったら、止めてあげます」
いやいやいや!!
今すぐ止めてくださいよ! もう、恥ずかしいやら、熱いやら、心臓破裂しそうやらで、どうにかなってしまいます!?
ってゆか、死んだらとーしてくれるんですか?!
断る以外の選択肢すら選ばせてもらえない状況にされて、脳内で訴えていたもう一人の私の発言なんてすっかりなりを潜めてしまってる。
でも、なんていえば正解なのか分かりもしないし、どう言えば収まるのかも分からない。
何処までも拗らせた経験値のない28歳喪処女、それが私である。
「もう、諦めて私のものになれそうですか?」
助け舟のような、その問いには『イエス』か『はい』でしか答えられそうにない。
神崎部長の質問に何て答えたのかはあまり記憶にない。むしろ、応えたのかも不明だが…。
でも、解かれた部長の手が私の体を強く抱きしめていたのは事実で、もう逃げる事が出来ないと観念した自分がいた事を実感した。
久しぶりに外気にふれた拳の中は、28年間で初めての経験にじっとりと汗でぬれていた。
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