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「けど、ちょっとだけ訂正させてもらうね」
「訂正?」
「怪我の治療はしてないよ。身体拭いたり服とか着替えさせたりはしたけれどね」
正吾が安心したのも束の間。
あまりに予想外の事を昌が言い出した。
(え、と。つまりどういう事だ?)
数拍遅れで正吾は昌の言葉の意味を考える。
大雑把に言えば刺さっていた木から抜いて家まで運んでくれた。
けれど、怪我には何の処置もしていない。
にも拘らず怪我は気付いた時には治っていた。
つまり――
「あんな怪我が治療もせずに勝手に塞がったって言いたいのか?」
昌の言葉をそのまま解釈するならそういう事になる筈だ。
もしそうなら事件は結局何も進まない。
昌はただ怪我した正吾を運んだだけの通りすがりでしかなく、当事者ではない。
即死するほどの怪我が治ったという超常現象については何も解らない事になるからだ。
「そうなるんだけど、とりあえず色々ややこしいから疑問は置いといて先に説明させてほしい。単に屋上から落ちた後には治療してないってだけだから」
「ふむ……」
落ちた後に治療してないという言葉の意味が解らなかったが、説明してくれるというのなら無理に妨げる必要はないと正吾は思ったようだ。
昌の言葉に正吾は頷いて視線で話の続きを促す。
「んーと、とりあえず怪我が治った理由についてなんだけど、正吾。有栖川さんが持っていた栄養ドリンク飲んじゃったよね?」
「ああ。あの三万もするヤツだよな?」
それは奈緒が自分の胸を大きくする為に買った薬だ。
間違って飲んでしまったという印象も強いが、それ以上にあまりに不味過ぎて忘れる事が出来ない薬だった。
「そうそう。アレは『アナタが望む理想の身体に』っていう触れ込みで僕が作っている薬なんだけど――」
(あの怪しい通販サイト、昌のかよ……)
どう考えても詐欺商品を扱うぼったくりサイトにしか見えなかったが、昌がそんな風に人を騙して金儲けするタイプには思えない。
それならマトモな物を扱っているんだろうし、怪し過ぎるからもっと謳い文句とか考えろと言うべきか。
それとも、そもそも薬なんて作れたのかとか何を突っ込むべきかと迷い、何も言えない正吾に気付かず昌は続きを口にする。
「飲むと不老不死になる薬なんだ」
「不老……不死?」
正吾の口から思わず間の抜けた声が漏れるが、それも仕方ない反応と言えるだろう。
豊胸薬か詐欺商品と思っていた物が不老不死の薬と言われたのだ。
戸惑って当然である。
「うん。正確には身体の状態を大体記憶して、何かあったら記憶した状態に戻ろうとするって感じかな」
原理としては細胞の異常増殖と制御なんだけどね、と昌は付け加える。
「それは不老不死とは違うのか?」
飲んだ瞬間の身体が維持され続けるのなら、それは不老不死と言っていいんじゃないかと正吾は思う。
「大体似たようなものだよ。違うのは元に戻ろうとするのにエネルギーが必要だって事。元に戻る為のエネルギーが足りないならさすがに死んじゃうよ」
そんな正吾の疑問に昌は平然と答える。
「とりあえず物凄い再生能力が付いたと思っていればいいかな。そしてその再生能力を使う為にはエネルギーが必要。勿論、エネルギーが無くなるくらい死に続けたら死んじゃうよ」
「なるほど……」
要するに死ぬ時は死ぬという事だ。
死に続けるという状況はイマイチ想像し難いが、海で溺れて沈んだままだったりしたら多分死ぬだろう、と正吾は解釈した。
「そんな薬を三万で売っているのか?」
昌の言葉を信じる信じない以前に、真っ先に正吾が気になったのは薬の値段だった。
何せ多少の制約はあるだけで不老不死の薬といって過言がないものだ。
かつて多くの権力者や億万長者などが求め続けても手に入れられなかった、ある種の人間からすればまさに理想の身体と言って過言でない一品だ。
それこそ億や兆掛かってでも、買いたい人間は居るだろう。
「確かに安いよね。いくら円高でもどう頑張っても一千万にも届かないし、かといって作るのにそこまで掛かってないし誰も知らないから無駄に値を吊り上げる必要もないし……」
昌自身も安過ぎると思っているのか同意の言葉を示してくるが、そこで正吾は引っ掛かりを覚えた。
「円高? 一千万?」
値段に関する認識が一致していないのだ。
確かにお互い不老不死の薬にしては安過ぎる、という話をしているがその根本となる値段がズレているのである。
「もしかして正吾、領収書か何かの数字だけを見たり聞いたりでもしたのかい? 三万だけど円じゃないよ。日本円に換算すると多分三百万円くらいだと思う」
それでも効能考えたら安過ぎるくらいだと思うけどね。
なんて昌は軽い調子で付け加える。
(三百……万円?)
けれど、あまりの衝撃に正吾は途中から昌の話が全く耳に入っていなかった。
確かに昌の言う通り奈緒から見せられた領収書は日本語で書かれていなかった為、正吾は数字しか見なかったし、三百万という値段に驚いたのは確かだ。
しかし、正吾が一番衝撃を受けたのは薬の値段そのものではない。
(そんな馬鹿高い物を盗まれたのに、有栖川さんは一発殴るだけで済ませようとしたのか?)
そんな高価な物を奪われたにも関わらず、奈緒が弁償しろなんて言葉を一度も言わなかった事に一番驚いていた。
(三百万だぞ? いくら有栖川さんの家がお金持ちだからって、そんなホイホイ出せる金額じゃないだろう)
奈緒の家は裕福な方ではあるが、それでも完全に世界が違うほどの資産家であるかと言えば答えは否である。
精々がちょっとした資産家でしかない。
おまけにその娘でしかない筈の奈緒にとって三百万はおそらく倹約に倹約を重ね何年も掛けて貯金し、それでも届くかどうかという大金だった筈だ。
(それなのに置いてた自分も悪いからって、値段一つ俺に言わずに?)
確かにその値段なら弁償しろって言われても正吾ではどうにも出来なかったし、言うだけ無駄だと思っても不思議ではない。
だが――
(有り得ない。そんな値段だって知ってたら、それこそ殺されたって文句なんて言わなかった)
何も言わずに済ませるなんて、どう考えても正吾には理解出来なかった。
むしろ屋上に呼び出された時に事情を聞かされ、死んで償えと言われていれば本気で飛び降りていただろう。
(それなのに弁当とか分けてくれたりしたのか?)
そして殺し掛けた負い目からか。
奈緒は薬の件を責めるどころか、逆に優しくしてくれたり、正吾以上に真摯に事件を調べてくれた。
(どうして、そんな風に優しく出来る……)
正吾には奈緒の事がまるで理解出来なかった。
いくらほとんど事故だったとはいえ、三万の品が原因で殺してしまったのなら、少しくらい負い目を感じて優しくなるだろうと思っていた。
けれど正吾が奪ってしまったのは三百万の品だったのだ。
負い目を覚えるどころか、それこそ仮に正吾が死んでたとしても「悪い事するからこうなるのよ」なんて吐き捨てるくらいで丁度良いとさえ正吾は思う。
奪った物の価値を考えれば、奈緒の反応はあまりに優し過ぎた。
(変、だな……)
奈緒の優しさに気付いた瞬間、正吾の胸に締め付けるような痛みが走り始める。
かと思うと指先が僅かに震え、唇がカラカラに渇き始めた。
(こういう時、嬉しいとか感謝したりするのが普通なのに……)
正吾の胸に走った痛みや指先の震えの原因は嬉しさや感動から来るものでも、ましてや恋のトキメキとかそういう色っぽいものでもない。
(次に有栖川さんと顔を合わせるのが怖い……)
ただ言い知れない程の恐怖と不安感が正吾の胸の中を駆け巡っていた。
悲しい事に正吾は人に優しくされた、と感じた経験が極端に少ない。
特に今回のように自分に大き過ぎるほどの落ち度があるにも関わらず、許してもらったり優しくしてもらった経験に関して言えば皆無と言っていいだろう。
人は未知の感覚に対して恐怖や怯えを抱く事がほとんどだ。
正吾にとって大き過ぎる優しさや慈愛は、体調に異常が起きるほどの苦痛と緊張を与えるものでしかなかったのだ。
「訂正?」
「怪我の治療はしてないよ。身体拭いたり服とか着替えさせたりはしたけれどね」
正吾が安心したのも束の間。
あまりに予想外の事を昌が言い出した。
(え、と。つまりどういう事だ?)
数拍遅れで正吾は昌の言葉の意味を考える。
大雑把に言えば刺さっていた木から抜いて家まで運んでくれた。
けれど、怪我には何の処置もしていない。
にも拘らず怪我は気付いた時には治っていた。
つまり――
「あんな怪我が治療もせずに勝手に塞がったって言いたいのか?」
昌の言葉をそのまま解釈するならそういう事になる筈だ。
もしそうなら事件は結局何も進まない。
昌はただ怪我した正吾を運んだだけの通りすがりでしかなく、当事者ではない。
即死するほどの怪我が治ったという超常現象については何も解らない事になるからだ。
「そうなるんだけど、とりあえず色々ややこしいから疑問は置いといて先に説明させてほしい。単に屋上から落ちた後には治療してないってだけだから」
「ふむ……」
落ちた後に治療してないという言葉の意味が解らなかったが、説明してくれるというのなら無理に妨げる必要はないと正吾は思ったようだ。
昌の言葉に正吾は頷いて視線で話の続きを促す。
「んーと、とりあえず怪我が治った理由についてなんだけど、正吾。有栖川さんが持っていた栄養ドリンク飲んじゃったよね?」
「ああ。あの三万もするヤツだよな?」
それは奈緒が自分の胸を大きくする為に買った薬だ。
間違って飲んでしまったという印象も強いが、それ以上にあまりに不味過ぎて忘れる事が出来ない薬だった。
「そうそう。アレは『アナタが望む理想の身体に』っていう触れ込みで僕が作っている薬なんだけど――」
(あの怪しい通販サイト、昌のかよ……)
どう考えても詐欺商品を扱うぼったくりサイトにしか見えなかったが、昌がそんな風に人を騙して金儲けするタイプには思えない。
それならマトモな物を扱っているんだろうし、怪し過ぎるからもっと謳い文句とか考えろと言うべきか。
それとも、そもそも薬なんて作れたのかとか何を突っ込むべきかと迷い、何も言えない正吾に気付かず昌は続きを口にする。
「飲むと不老不死になる薬なんだ」
「不老……不死?」
正吾の口から思わず間の抜けた声が漏れるが、それも仕方ない反応と言えるだろう。
豊胸薬か詐欺商品と思っていた物が不老不死の薬と言われたのだ。
戸惑って当然である。
「うん。正確には身体の状態を大体記憶して、何かあったら記憶した状態に戻ろうとするって感じかな」
原理としては細胞の異常増殖と制御なんだけどね、と昌は付け加える。
「それは不老不死とは違うのか?」
飲んだ瞬間の身体が維持され続けるのなら、それは不老不死と言っていいんじゃないかと正吾は思う。
「大体似たようなものだよ。違うのは元に戻ろうとするのにエネルギーが必要だって事。元に戻る為のエネルギーが足りないならさすがに死んじゃうよ」
そんな正吾の疑問に昌は平然と答える。
「とりあえず物凄い再生能力が付いたと思っていればいいかな。そしてその再生能力を使う為にはエネルギーが必要。勿論、エネルギーが無くなるくらい死に続けたら死んじゃうよ」
「なるほど……」
要するに死ぬ時は死ぬという事だ。
死に続けるという状況はイマイチ想像し難いが、海で溺れて沈んだままだったりしたら多分死ぬだろう、と正吾は解釈した。
「そんな薬を三万で売っているのか?」
昌の言葉を信じる信じない以前に、真っ先に正吾が気になったのは薬の値段だった。
何せ多少の制約はあるだけで不老不死の薬といって過言がないものだ。
かつて多くの権力者や億万長者などが求め続けても手に入れられなかった、ある種の人間からすればまさに理想の身体と言って過言でない一品だ。
それこそ億や兆掛かってでも、買いたい人間は居るだろう。
「確かに安いよね。いくら円高でもどう頑張っても一千万にも届かないし、かといって作るのにそこまで掛かってないし誰も知らないから無駄に値を吊り上げる必要もないし……」
昌自身も安過ぎると思っているのか同意の言葉を示してくるが、そこで正吾は引っ掛かりを覚えた。
「円高? 一千万?」
値段に関する認識が一致していないのだ。
確かにお互い不老不死の薬にしては安過ぎる、という話をしているがその根本となる値段がズレているのである。
「もしかして正吾、領収書か何かの数字だけを見たり聞いたりでもしたのかい? 三万だけど円じゃないよ。日本円に換算すると多分三百万円くらいだと思う」
それでも効能考えたら安過ぎるくらいだと思うけどね。
なんて昌は軽い調子で付け加える。
(三百……万円?)
けれど、あまりの衝撃に正吾は途中から昌の話が全く耳に入っていなかった。
確かに昌の言う通り奈緒から見せられた領収書は日本語で書かれていなかった為、正吾は数字しか見なかったし、三百万という値段に驚いたのは確かだ。
しかし、正吾が一番衝撃を受けたのは薬の値段そのものではない。
(そんな馬鹿高い物を盗まれたのに、有栖川さんは一発殴るだけで済ませようとしたのか?)
そんな高価な物を奪われたにも関わらず、奈緒が弁償しろなんて言葉を一度も言わなかった事に一番驚いていた。
(三百万だぞ? いくら有栖川さんの家がお金持ちだからって、そんなホイホイ出せる金額じゃないだろう)
奈緒の家は裕福な方ではあるが、それでも完全に世界が違うほどの資産家であるかと言えば答えは否である。
精々がちょっとした資産家でしかない。
おまけにその娘でしかない筈の奈緒にとって三百万はおそらく倹約に倹約を重ね何年も掛けて貯金し、それでも届くかどうかという大金だった筈だ。
(それなのに置いてた自分も悪いからって、値段一つ俺に言わずに?)
確かにその値段なら弁償しろって言われても正吾ではどうにも出来なかったし、言うだけ無駄だと思っても不思議ではない。
だが――
(有り得ない。そんな値段だって知ってたら、それこそ殺されたって文句なんて言わなかった)
何も言わずに済ませるなんて、どう考えても正吾には理解出来なかった。
むしろ屋上に呼び出された時に事情を聞かされ、死んで償えと言われていれば本気で飛び降りていただろう。
(それなのに弁当とか分けてくれたりしたのか?)
そして殺し掛けた負い目からか。
奈緒は薬の件を責めるどころか、逆に優しくしてくれたり、正吾以上に真摯に事件を調べてくれた。
(どうして、そんな風に優しく出来る……)
正吾には奈緒の事がまるで理解出来なかった。
いくらほとんど事故だったとはいえ、三万の品が原因で殺してしまったのなら、少しくらい負い目を感じて優しくなるだろうと思っていた。
けれど正吾が奪ってしまったのは三百万の品だったのだ。
負い目を覚えるどころか、それこそ仮に正吾が死んでたとしても「悪い事するからこうなるのよ」なんて吐き捨てるくらいで丁度良いとさえ正吾は思う。
奪った物の価値を考えれば、奈緒の反応はあまりに優し過ぎた。
(変、だな……)
奈緒の優しさに気付いた瞬間、正吾の胸に締め付けるような痛みが走り始める。
かと思うと指先が僅かに震え、唇がカラカラに渇き始めた。
(こういう時、嬉しいとか感謝したりするのが普通なのに……)
正吾の胸に走った痛みや指先の震えの原因は嬉しさや感動から来るものでも、ましてや恋のトキメキとかそういう色っぽいものでもない。
(次に有栖川さんと顔を合わせるのが怖い……)
ただ言い知れない程の恐怖と不安感が正吾の胸の中を駆け巡っていた。
悲しい事に正吾は人に優しくされた、と感じた経験が極端に少ない。
特に今回のように自分に大き過ぎるほどの落ち度があるにも関わらず、許してもらったり優しくしてもらった経験に関して言えば皆無と言っていいだろう。
人は未知の感覚に対して恐怖や怯えを抱く事がほとんどだ。
正吾にとって大き過ぎる優しさや慈愛は、体調に異常が起きるほどの苦痛と緊張を与えるものでしかなかったのだ。
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