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第1話 憂鬱な書記官その4/4
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4.運命の交差点
ふと、強烈な視線を感じた。
歓声に沸く群衆とは別の場所。夕暮れの路地の暗がり、建物の影に、一人の若者が立っていた。
ボロボロの衣服。腰には、安物だが手入れの行き届いた直刀を一振り。
髪は乱れ、全身から「野良犬」のような危うい雰囲気を漂わせている。その若者は、賈仁の演説には目もくれず、一点を凝視していた。
彼の視線の先には、賈仁の馬車の車輪に泥を跳ねられ、慌てて土下座をしている一人の下級役人――先ほどの倉庫番、柳安の姿があった。
賈仁の護衛兵が、柳安を怒鳴りつけ、蹴り飛ばしている。
「無礼者!賈仁様の馬車を汚すとは!」
柳安は無抵抗のまま、ただ泥の中で頭を下げ続けている。
賈仁はそれを見ても止めることなく、むしろ楽しげに眺めていた。
「…………」
若者の目は、燃えていた。
怒りとも、悲しみともつかない、暗く静かな炎。
彼は拳を握りしめている。爪が食い込み、そこから赤い血が滴り落ちていた。
それは、向朗が文書庫で感じた「事務的な違和感」など吹き飛ばすほどの、鮮烈な「殺意」の気配だった。
(……やばい奴がいる)
向朗の本能が警鐘を鳴らした。関わってはいけない。あれは、理屈や計算が通じる相手ではない。触れれば斬られる、抜き身の刃だ。しかし、根がお人好しなのだろうか。あるいは、その若者のあまりに真っ直ぐで悲痛な横顔に、自分の中にある「計算外」の何かが共鳴してしまったのか。向朗は通り過ぎざま、小声で呟くように声をかけてしまった。
「……やめておいた方がいいよ。その目は、損をする目だ」
若者が、ギロリと向朗を睨んだ。至近距離で見ると、存外に整った顔立ちをしているが、その瞳孔は飢えた獣のように開いていた。
「……あ?」
低く、地を這うような声。向朗はすぐに後悔した。「めんどくさい」ことになった、と。
「……なんでもない。独り言だ」
「待て。あんた、役所の人間か?」
若者が一歩踏み出してくる。殺気が肌を刺す。向朗は足を止めず、背を向けたまま答えた。
「通りすがりの書記だ。計算が得意でね。……今、君が飛び出していって、あの督郵を殺せる確率はゼロだ。逆に君と、君の友人が死ぬ確率は百に近い」
「確率だ?……俺は学のない馬鹿だが、鼻は利くんだ。あのデブからは、腐った肉の臭いがする」
「奇遇だね。僕もさっき、帳簿から同じ臭いを嗅いだところだ」
一瞬、二人の間に奇妙な沈黙が流れた。理屈の向朗と、直感の若者。手法(アプローチ)は正反対だが、二人は同じ「悪」を見抜いていた。若者は、握りしめた拳をゆっくりと解いた。
「……ふん。変な野郎だ」「君に言われたくないね」
向朗は、それ以上言葉を交わさず、足早にその場を立ち去った。背中に、若者の鋭い視線が突き刺さるのを感じながら。
(忘れよう。明日もまた、埃まみれの仕事だ)
宿舎の粗末な寝台に横たわっても、向朗は眠れなかった。脳裏に焼き付いているのは、賈仁の完璧すぎる帳簿と、あの若者の飢えた獣のような目。そして、泥の中で頭を下げる柳安の姿。窓の外では風が強まり、ガタガタと窓枠を揺らしていた。それは、潁川に近づく巨大な嵐の前触れのように聞こえた。
その時の向朗はまだ知らない。その野良犬のような若者こそが、後に親友となり、共に天下を揺るがす大罪を犯すことになる相棒となることを。そして、太守府の奥で回した一本の筆と、路地裏で研がれた一本の剣が、やがて交錯し、この腐った潁川の夜を切り裂くことになる運命を。
中平六年の春。漢帝国の黄昏の中で、二人の若者の物語が静かに幕を開けた。
ふと、強烈な視線を感じた。
歓声に沸く群衆とは別の場所。夕暮れの路地の暗がり、建物の影に、一人の若者が立っていた。
ボロボロの衣服。腰には、安物だが手入れの行き届いた直刀を一振り。
髪は乱れ、全身から「野良犬」のような危うい雰囲気を漂わせている。その若者は、賈仁の演説には目もくれず、一点を凝視していた。
彼の視線の先には、賈仁の馬車の車輪に泥を跳ねられ、慌てて土下座をしている一人の下級役人――先ほどの倉庫番、柳安の姿があった。
賈仁の護衛兵が、柳安を怒鳴りつけ、蹴り飛ばしている。
「無礼者!賈仁様の馬車を汚すとは!」
柳安は無抵抗のまま、ただ泥の中で頭を下げ続けている。
賈仁はそれを見ても止めることなく、むしろ楽しげに眺めていた。
「…………」
若者の目は、燃えていた。
怒りとも、悲しみともつかない、暗く静かな炎。
彼は拳を握りしめている。爪が食い込み、そこから赤い血が滴り落ちていた。
それは、向朗が文書庫で感じた「事務的な違和感」など吹き飛ばすほどの、鮮烈な「殺意」の気配だった。
(……やばい奴がいる)
向朗の本能が警鐘を鳴らした。関わってはいけない。あれは、理屈や計算が通じる相手ではない。触れれば斬られる、抜き身の刃だ。しかし、根がお人好しなのだろうか。あるいは、その若者のあまりに真っ直ぐで悲痛な横顔に、自分の中にある「計算外」の何かが共鳴してしまったのか。向朗は通り過ぎざま、小声で呟くように声をかけてしまった。
「……やめておいた方がいいよ。その目は、損をする目だ」
若者が、ギロリと向朗を睨んだ。至近距離で見ると、存外に整った顔立ちをしているが、その瞳孔は飢えた獣のように開いていた。
「……あ?」
低く、地を這うような声。向朗はすぐに後悔した。「めんどくさい」ことになった、と。
「……なんでもない。独り言だ」
「待て。あんた、役所の人間か?」
若者が一歩踏み出してくる。殺気が肌を刺す。向朗は足を止めず、背を向けたまま答えた。
「通りすがりの書記だ。計算が得意でね。……今、君が飛び出していって、あの督郵を殺せる確率はゼロだ。逆に君と、君の友人が死ぬ確率は百に近い」
「確率だ?……俺は学のない馬鹿だが、鼻は利くんだ。あのデブからは、腐った肉の臭いがする」
「奇遇だね。僕もさっき、帳簿から同じ臭いを嗅いだところだ」
一瞬、二人の間に奇妙な沈黙が流れた。理屈の向朗と、直感の若者。手法(アプローチ)は正反対だが、二人は同じ「悪」を見抜いていた。若者は、握りしめた拳をゆっくりと解いた。
「……ふん。変な野郎だ」「君に言われたくないね」
向朗は、それ以上言葉を交わさず、足早にその場を立ち去った。背中に、若者の鋭い視線が突き刺さるのを感じながら。
(忘れよう。明日もまた、埃まみれの仕事だ)
宿舎の粗末な寝台に横たわっても、向朗は眠れなかった。脳裏に焼き付いているのは、賈仁の完璧すぎる帳簿と、あの若者の飢えた獣のような目。そして、泥の中で頭を下げる柳安の姿。窓の外では風が強まり、ガタガタと窓枠を揺らしていた。それは、潁川に近づく巨大な嵐の前触れのように聞こえた。
その時の向朗はまだ知らない。その野良犬のような若者こそが、後に親友となり、共に天下を揺るがす大罪を犯すことになる相棒となることを。そして、太守府の奥で回した一本の筆と、路地裏で研がれた一本の剣が、やがて交錯し、この腐った潁川の夜を切り裂くことになる運命を。
中平六年の春。漢帝国の黄昏の中で、二人の若者の物語が静かに幕を開けた。
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