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第5話法の死と修羅の目覚め 2/3
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3.理(ことわり)の敗北
一刻後。降り始めた雨が水鏡塾の瓦を叩く音が響く中、向朗たちは塾の最奥、司馬徽の書斎にいた。
部屋には古い竹簡の匂いと、微かな香の香りが立ち込めている。
普段ならば、ここは天下の英才が真理を求める聖域であった。しかし、今の若者たちにとって、そこはあまりに静かすぎ、冷たすぎる「理の墓場」のように感じられた。
向朗は震える手で木簡を広げた。
その指先には、徹夜で帳簿を捲り続けた際の墨の汚れが痛々しく残っている。
彼は石韜と孟建の協力によって導き出された、賈仁の罪を証明する「理の数式」を、血を吐くような思いで説いた。
「先生……見てください。この月の兵糧受給量と、実際に民に配られた量の差分を。そして、同時期に葛陂の賊が手に入れた軍需物資の出所を。賈仁は私腹を肥やすだけでなく、賊と通じて潁川の血を売り飛ばしています。柳安はこれに気づいたがゆえに消されたのです。先生、先生の御名を持ってすれば太守も動きます。どうか、この不条理を正す言葉を!」
石韜が古の判例を引用し、孟建が官僚機構の不備を補足する。四人の若者による、知力の限りを尽くした必死の包囲陣であった。しかし、司馬徽は木簡を手に取ることさえしなかった。ただ深い悲しみの色を湛えた瞳を閉じ、ゆっくりと首を振るばかりであった。
「向朗よ。お主の計算は完璧じゃ。石韜、孟建、お主らの状況分析も一点の曇りもない。……じゃがな、これを持って太守府へ行っても、門前払いを食らうのが落ちじゃ。あるいは、その帰り道に不運な『事故』に遭うのが関の山であろうな」
「なぜですか!証拠はここにあるのに!」
「向朗、お主が証明したのはあくまで『数字の齟齬』であって、賈仁本人が賊と取引したという『動かぬ物証』ではないのだ。官軍の倉庫から物資が消えたのは、賈仁に言わせれば『不測の略奪』であり、賊の物資が官製なのは『戦利品の横流し』で片付けられてしまう」
「柳安が……柳安が命懸けで持ち出した書状があったはずです!」
「それこそが賈仁の手の中にある。法というのは、真実を照らす鏡ではないのだ。それは手続きを重んじ、現状を維持するための重い枷なのじゃ。……公式の記録を見よ。柳安は罪を認め、自らの舌を噛み切って果てた。法的には、この事件は完璧な幕引きとして、既に書庫に収められておるのだよ」
バンッ!徐福が床を殴りつけた。その衝撃で書斎の床板が悲鳴を上げ、積み上げられた書物が崩れ落ちる。
「自白だと!?舌を抜かれてどう喋るんだ!てめぇら、あの処刑場での惨状を見ていなかったのか!あいつは喋りたくても、言葉そのものを奪われたんだぞ!」
司馬徽は、教え子の怒りから目を逸らさなかった。
その瞳には、彼らと同じ、あるいはそれ以上の深い絶望が澱のように沈んでいた。
「……その『あいつら』こそが、今のこの郡の、いや、この漢帝国の理そのものなのじゃよ、徐福。督郵という監察の仕組みそのものが腐敗しておる時、誰がそれを裁ける?太守の耳には、賈仁が用意した『心地よい真実』しか届かん。賈仁は中央の十常侍らにも多額の賂を送っておる。李旻太守とて、確たる物証もなく彼を糾弾すれば、翌日には自らの首が飛ぶことを知っておるのだ」
司馬徽の声は次第に小さくなり、激しくなる雨音に溶けていった。
「ワシはただの書生。天下の賢者などと持て囃されておるが、この巨大な悪意の仕組み、利権と恐怖で編み上げられた網の前では、無力な老人に過ぎぬ。……お主たちの正義は、今の世にはあまりに眩しすぎるのだ」
その言葉は、少年たちにとって冷酷な死刑宣告であった。
向朗は、自分が丹精込めて書き上げた木簡を見つめた。
非の打ち所のない論理、完璧な計算。
だが、それはこの腐った現実という荒波の前では、ただの焚き付けにさえならない「無価値な木の板」に過ぎなかった。
向朗の心臓の奥で、何かが冷たく凍りついていく音がした。
それは、彼が生涯をかけて信じようとした「論理による救済」への、静かで凄絶な決別であった。
一刻後。降り始めた雨が水鏡塾の瓦を叩く音が響く中、向朗たちは塾の最奥、司馬徽の書斎にいた。
部屋には古い竹簡の匂いと、微かな香の香りが立ち込めている。
普段ならば、ここは天下の英才が真理を求める聖域であった。しかし、今の若者たちにとって、そこはあまりに静かすぎ、冷たすぎる「理の墓場」のように感じられた。
向朗は震える手で木簡を広げた。
その指先には、徹夜で帳簿を捲り続けた際の墨の汚れが痛々しく残っている。
彼は石韜と孟建の協力によって導き出された、賈仁の罪を証明する「理の数式」を、血を吐くような思いで説いた。
「先生……見てください。この月の兵糧受給量と、実際に民に配られた量の差分を。そして、同時期に葛陂の賊が手に入れた軍需物資の出所を。賈仁は私腹を肥やすだけでなく、賊と通じて潁川の血を売り飛ばしています。柳安はこれに気づいたがゆえに消されたのです。先生、先生の御名を持ってすれば太守も動きます。どうか、この不条理を正す言葉を!」
石韜が古の判例を引用し、孟建が官僚機構の不備を補足する。四人の若者による、知力の限りを尽くした必死の包囲陣であった。しかし、司馬徽は木簡を手に取ることさえしなかった。ただ深い悲しみの色を湛えた瞳を閉じ、ゆっくりと首を振るばかりであった。
「向朗よ。お主の計算は完璧じゃ。石韜、孟建、お主らの状況分析も一点の曇りもない。……じゃがな、これを持って太守府へ行っても、門前払いを食らうのが落ちじゃ。あるいは、その帰り道に不運な『事故』に遭うのが関の山であろうな」
「なぜですか!証拠はここにあるのに!」
「向朗、お主が証明したのはあくまで『数字の齟齬』であって、賈仁本人が賊と取引したという『動かぬ物証』ではないのだ。官軍の倉庫から物資が消えたのは、賈仁に言わせれば『不測の略奪』であり、賊の物資が官製なのは『戦利品の横流し』で片付けられてしまう」
「柳安が……柳安が命懸けで持ち出した書状があったはずです!」
「それこそが賈仁の手の中にある。法というのは、真実を照らす鏡ではないのだ。それは手続きを重んじ、現状を維持するための重い枷なのじゃ。……公式の記録を見よ。柳安は罪を認め、自らの舌を噛み切って果てた。法的には、この事件は完璧な幕引きとして、既に書庫に収められておるのだよ」
バンッ!徐福が床を殴りつけた。その衝撃で書斎の床板が悲鳴を上げ、積み上げられた書物が崩れ落ちる。
「自白だと!?舌を抜かれてどう喋るんだ!てめぇら、あの処刑場での惨状を見ていなかったのか!あいつは喋りたくても、言葉そのものを奪われたんだぞ!」
司馬徽は、教え子の怒りから目を逸らさなかった。
その瞳には、彼らと同じ、あるいはそれ以上の深い絶望が澱のように沈んでいた。
「……その『あいつら』こそが、今のこの郡の、いや、この漢帝国の理そのものなのじゃよ、徐福。督郵という監察の仕組みそのものが腐敗しておる時、誰がそれを裁ける?太守の耳には、賈仁が用意した『心地よい真実』しか届かん。賈仁は中央の十常侍らにも多額の賂を送っておる。李旻太守とて、確たる物証もなく彼を糾弾すれば、翌日には自らの首が飛ぶことを知っておるのだ」
司馬徽の声は次第に小さくなり、激しくなる雨音に溶けていった。
「ワシはただの書生。天下の賢者などと持て囃されておるが、この巨大な悪意の仕組み、利権と恐怖で編み上げられた網の前では、無力な老人に過ぎぬ。……お主たちの正義は、今の世にはあまりに眩しすぎるのだ」
その言葉は、少年たちにとって冷酷な死刑宣告であった。
向朗は、自分が丹精込めて書き上げた木簡を見つめた。
非の打ち所のない論理、完璧な計算。
だが、それはこの腐った現実という荒波の前では、ただの焚き付けにさえならない「無価値な木の板」に過ぎなかった。
向朗の心臓の奥で、何かが冷たく凍りついていく音がした。
それは、彼が生涯をかけて信じようとした「論理による救済」への、静かで凄絶な決別であった。
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