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第7話 夜に嗤(わら)う幽霊 6/7
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8.詰みの盤面
水鏡塾の書庫、その最奥にある一室には、死臭にも似た濃い墨の香りと、行き詰まった男の絶望が充満していた。
向朗は、机に広げられた図面を血走った眼で見つめていた。
傍らには、石韜と孟建が命懸けで持ち帰った太守府の巡回表、看守の交代時間、そして牢獄の構造図が散乱している。
パチリ、パチリ、と算木を弾く乾いた音だけが、深夜の静寂に響く。
(北壁の破壊……。工兵並みの火薬が必要だ。爆破音で兵が集まるまで、わずか三呼吸。不可)
(夜間の強襲……。看守五十に対し、動けるのは僕ら三人。全滅の確率は九割を超える。論外だ)
(賄賂による買収……。看守長は太守の親戚。保身を捨ててまで金を取る確率は二分にも満たない)
計数を繰り返すたび、向朗の指先は震え、筆の先は割れていった。
向朗という男は、常に正解を求めてきた。数理に嘘はない。だが、その嘘のない数理が、今は「友の死」という残酷な解しか提示してくれないのだ。
「くそっ……!まだだ、どこかに穴があるはず。答を探さないと……!」
向朗は折れた筆を床に叩きつけ、机に突っ伏した。爪を噛む癖が再発し、指先からは血が滲んでいる。
向朗の計算は、牢獄の分厚い石壁の前で、無残に砕け散っていた。
「……あーあ。相変わらず、君の部屋は墨と、負け犬の脂汗の匂いがするねぇ」
窓枠に腰掛けた影が、月光を背に受けて揺れた。向朗が顔を上げると、そこには瓢箪を弄び、退屈そうにこちらを見下ろす郭嘉がいた。
「郭嘉か……。冷やかしなら帰れ。僕は今、計算に忙しいんだ」
「計算?違うな」
郭嘉はひらりと部屋に降り立ち、泥のついた靴で散らばった図面を無造作に踏みつけた。
「君はただ、壁の厚さを測って『硬い、硬い』と泣いているだけだ。そんなものは軍師の仕事じゃない。……測量士の仕事だよ」
郭嘉は向朗の肩に、冷たく、しかし滑らかな手つきで触れた。
「硬いなぁ。頭も、やり方も、君そのものも。……硬いよ、軍師くん」
郭嘉は向朗の目の前で、牢獄の図面を裏返した。
真っ白な紙の裏に、彼は酒を含んだ筆で、淀んだ円を一つ描いた。
「いいかい向朗。策とはね、相手を騙すことじゃないんだ。相手に『騙されたい』と思わせ、自らその嘘へ飛び込ませる誘導のことだよ」
郭嘉の瞳が、月明かりの下で艶めかしく輝いた。
「例えばだ。夫の浮気を疑い、嫉妬に狂っている女がいるとする。彼女は毎晩、夫の衣の匂いを嗅ぎ、不在の時間を計り、証拠を探している。……さて、向朗。彼女が本当に欲しいのは、不貞の証拠だと思うかい?」
向朗は困惑した。
「……証拠がなければ、彼女は納得しないだろう」
「逆さ。彼女が一番恐れているのは、決定的な証拠を見つけてしまうことだ。だって、証拠を見つけてしまえば、彼女の生活は壊れ、愛する夫を失わなければならない。……彼女が心の底から欲しがっているのは、真実じゃない。自分を安心させてくれる、甘い嘘なんだよ」
郭嘉は酒を一口あおり、向朗の耳元に唇を寄せた。
「太守・李旻も同じさ。彼は今、賈仁が殺された事件に自分の関与が疑われるのを、死ぬほど恐れている。徐庶を殺してしまえば事件は迷宮入りし、いずれ中央の調査官に弱みを握られるかもしれない。……彼だって、救われたいのさ。『この男は殺さず、どこか遠くへやって正解だった』と思える、完璧な言い訳が欲しいんだ」
「壁を壊すんじゃない。太守に目隠しを渡してやるんだよ。彼が自分の保身のために、喜んで徐庶を放り出したくなるような、美しく、ドロドロとした物語をね」
向朗の全身に、戦慄が走った。
自分は壁の厚さを計算していた。だが、目の前の男は「人間の汚れ」を計算していた。
自分は正解を探していた。だが、郭嘉は「相手が欲しがる妥協点」を創り出していた。
(ああ……これが、天賦の差か)
向朗は、目の前の飄々とした天才に対し、深い諦念を覚えた。軍師というものは、人の心を弄び、闇を光に見せかけ、毒を薬として飲ませる「怪物」なのだ。自分のような、生真面目に数字を積み上げるだけの男には、一生かかっても到達できない、悪意の深淵。
「……参ったな。君には、逆立ちしたって敵わないよ」
向朗の肩から、憑き物が落ちたように力が抜けた。
自嘲気味な笑いがこぼれる。しかし、その眼差しの奥に宿る光は、かつての迷いを振り払っていた。
「僕は郭嘉、君のような人の心を喰らう怪物にはなれない。……でもね」
向朗は牢獄の図面を脇に除け、山のように積まれた太守府の公文書の写しを、一際強く引き寄せた。
「君が描く物語を、歴史の公的な記録に定着させること。太守が信じたがっている嘘を、法的に完璧な真実へと整形すること。……それは、僕にしかできない、最高に面倒な仕事だ」
「屠るんじゃない。……書類の海の中で、世界の辻褄を合わせてやる」
向朗の指先から、震えが消えた。郭嘉はそれを見て、満足げに目を細めた。
「いい顔だ。冷たくて、鋭くて、……実にいい。期待してるよ、軍師(事務屋)さん」
水鏡塾の書庫、その最奥にある一室には、死臭にも似た濃い墨の香りと、行き詰まった男の絶望が充満していた。
向朗は、机に広げられた図面を血走った眼で見つめていた。
傍らには、石韜と孟建が命懸けで持ち帰った太守府の巡回表、看守の交代時間、そして牢獄の構造図が散乱している。
パチリ、パチリ、と算木を弾く乾いた音だけが、深夜の静寂に響く。
(北壁の破壊……。工兵並みの火薬が必要だ。爆破音で兵が集まるまで、わずか三呼吸。不可)
(夜間の強襲……。看守五十に対し、動けるのは僕ら三人。全滅の確率は九割を超える。論外だ)
(賄賂による買収……。看守長は太守の親戚。保身を捨ててまで金を取る確率は二分にも満たない)
計数を繰り返すたび、向朗の指先は震え、筆の先は割れていった。
向朗という男は、常に正解を求めてきた。数理に嘘はない。だが、その嘘のない数理が、今は「友の死」という残酷な解しか提示してくれないのだ。
「くそっ……!まだだ、どこかに穴があるはず。答を探さないと……!」
向朗は折れた筆を床に叩きつけ、机に突っ伏した。爪を噛む癖が再発し、指先からは血が滲んでいる。
向朗の計算は、牢獄の分厚い石壁の前で、無残に砕け散っていた。
「……あーあ。相変わらず、君の部屋は墨と、負け犬の脂汗の匂いがするねぇ」
窓枠に腰掛けた影が、月光を背に受けて揺れた。向朗が顔を上げると、そこには瓢箪を弄び、退屈そうにこちらを見下ろす郭嘉がいた。
「郭嘉か……。冷やかしなら帰れ。僕は今、計算に忙しいんだ」
「計算?違うな」
郭嘉はひらりと部屋に降り立ち、泥のついた靴で散らばった図面を無造作に踏みつけた。
「君はただ、壁の厚さを測って『硬い、硬い』と泣いているだけだ。そんなものは軍師の仕事じゃない。……測量士の仕事だよ」
郭嘉は向朗の肩に、冷たく、しかし滑らかな手つきで触れた。
「硬いなぁ。頭も、やり方も、君そのものも。……硬いよ、軍師くん」
郭嘉は向朗の目の前で、牢獄の図面を裏返した。
真っ白な紙の裏に、彼は酒を含んだ筆で、淀んだ円を一つ描いた。
「いいかい向朗。策とはね、相手を騙すことじゃないんだ。相手に『騙されたい』と思わせ、自らその嘘へ飛び込ませる誘導のことだよ」
郭嘉の瞳が、月明かりの下で艶めかしく輝いた。
「例えばだ。夫の浮気を疑い、嫉妬に狂っている女がいるとする。彼女は毎晩、夫の衣の匂いを嗅ぎ、不在の時間を計り、証拠を探している。……さて、向朗。彼女が本当に欲しいのは、不貞の証拠だと思うかい?」
向朗は困惑した。
「……証拠がなければ、彼女は納得しないだろう」
「逆さ。彼女が一番恐れているのは、決定的な証拠を見つけてしまうことだ。だって、証拠を見つけてしまえば、彼女の生活は壊れ、愛する夫を失わなければならない。……彼女が心の底から欲しがっているのは、真実じゃない。自分を安心させてくれる、甘い嘘なんだよ」
郭嘉は酒を一口あおり、向朗の耳元に唇を寄せた。
「太守・李旻も同じさ。彼は今、賈仁が殺された事件に自分の関与が疑われるのを、死ぬほど恐れている。徐庶を殺してしまえば事件は迷宮入りし、いずれ中央の調査官に弱みを握られるかもしれない。……彼だって、救われたいのさ。『この男は殺さず、どこか遠くへやって正解だった』と思える、完璧な言い訳が欲しいんだ」
「壁を壊すんじゃない。太守に目隠しを渡してやるんだよ。彼が自分の保身のために、喜んで徐庶を放り出したくなるような、美しく、ドロドロとした物語をね」
向朗の全身に、戦慄が走った。
自分は壁の厚さを計算していた。だが、目の前の男は「人間の汚れ」を計算していた。
自分は正解を探していた。だが、郭嘉は「相手が欲しがる妥協点」を創り出していた。
(ああ……これが、天賦の差か)
向朗は、目の前の飄々とした天才に対し、深い諦念を覚えた。軍師というものは、人の心を弄び、闇を光に見せかけ、毒を薬として飲ませる「怪物」なのだ。自分のような、生真面目に数字を積み上げるだけの男には、一生かかっても到達できない、悪意の深淵。
「……参ったな。君には、逆立ちしたって敵わないよ」
向朗の肩から、憑き物が落ちたように力が抜けた。
自嘲気味な笑いがこぼれる。しかし、その眼差しの奥に宿る光は、かつての迷いを振り払っていた。
「僕は郭嘉、君のような人の心を喰らう怪物にはなれない。……でもね」
向朗は牢獄の図面を脇に除け、山のように積まれた太守府の公文書の写しを、一際強く引き寄せた。
「君が描く物語を、歴史の公的な記録に定着させること。太守が信じたがっている嘘を、法的に完璧な真実へと整形すること。……それは、僕にしかできない、最高に面倒な仕事だ」
「屠るんじゃない。……書類の海の中で、世界の辻褄を合わせてやる」
向朗の指先から、震えが消えた。郭嘉はそれを見て、満足げに目を細めた。
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