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第13話 散りゆく星々、閉ざされた南路 3/3
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5.黄金の変数、豪商の投資
その夜、向朗は文書庫に閉じこもった。
ろうそくの火が揺れる中、彼は狂ったように筆を走らせていた。
机の上は、数字の羅列で埋め尽くされた。
『一〇万人の消費熱量』
『荷車の積載限界』
『一日の移動距離』
『飲水の確保』
『糞尿による感染症リスク』……。
それは英雄的な作戦ではない。
地味で、陰湿で、吐き気がするほど膨大な実務作業だった。
地図の上に線を引き、距離を測り、時間を削り出す。
「……食料が足りない。絶対に足りない。荷車もだ。老人と子供を歩かせれば、三日で隊列は崩壊する。かといって、調達しようにも太守府の金庫は空だ」
向朗は、頭を抱えた。
計算式は常に「死」という答えを弾き出す。
金がない。物資がない。変数を一つ間違えれば、一万人が死ぬ。
計算ミスが、そのまま死体の山になる。
そのプレッシャーで胃に穴が開きそうになりながら、それでも彼は計算をやめなかった。
その時だった。カラン、と重たい金属音が静寂を破った。
「……計算に行き詰まっている顔だな、向朗」
向朗が弾かれたように顔を上げると、そこには豪奢な衣を纏った男が立っていた。
陳留の豪商、衛臻である。
彼は手に持っていた大きな革袋を、無造作に向朗の机の上に放り投げた。
ドサリ、ジャララ……。
袋の口が緩み、中から黄金色の輝きが溢れ出した。
「……これは?」
向朗が、金貨の山を見て目を丸くする。
それは、一介の書生が生涯かかっても拝めないほどの巨額だった。
「先の君のしでかした『賈仁英雄化事業』と、それに伴う『武器防具』だけでなく『魔除けの護符』や『石碑』の販売で儲けた利益の全てだ」
衛臻は、扇子でその黄金の山を指した。涼しい顔でとんでもないことを言う。
「民は熱狂し、飛ぶように売れたよ。……まあ、元々半分は君のお金のようなものだ。これを、あんたに投資する」
「投資……?私に?」
向朗は困惑した。
「この金で、近隣の村々から食料と荷車を買い占めろ。道中の関所を通る賄賂に使え。足りない分は、私の名で手形を切ればいい。陳留衛氏の信用があれば、大概の無理は通る」
「……どういう風の吹き回しですか?返すあてはありませんよ?」
向朗の問いに、衛臻はニヤリと笑った。
それは慈悲深い篤志家の顔ではなく、獲物を狙う商人の顔だった。
「損得だよ」
衛臻は断言した。
「十万人がここで野垂れ死ねば、商売相手がいなくなる。ただの死体からは銭は取れん。だが、十万人が生き残れば、そこには巨大な市場が生まれる。彼らは命の恩人である私から、生涯にわたって物を買うだろう。……私は、あんたのその計算能力に賭けたんだ」
衛臻は、北を指差した。
「私は一族と共に北へ逃れる。だが、資産の一部はこの『南の可能性』に賭けておく。……頼んだぞ、向朗。私の金をドブに捨てるなよ」
そう言い残し、衛臻は風のように去っていった。
後に残されたのは、机上の黄金と、向朗だけ。
向朗は、目の前の金貨の山を見つめた。
そして、脳内の計算式に、新たな変数「莫大な資金」を代入する。
カネ。ヒト。モノ。バラバラだった変数が、黄金の潤滑油を得て、一つの式に収まっていく。
買える。食料が買える。荷車が買える。兵の忠誠も、関所の通行許可も、金があれば「計算」できる。
「……はぁ。これで言い訳ができなくなりましたね」
向朗は、重い溜息をつき、眼鏡を直す癖のように眉間を揉んだ。
もう後戻りはできない。
物理的な障壁は、この金で消滅した。
あとは、それを運用する自分の頭脳次第だ。
彼の頭脳だけが頼りの、十万人の命を懸けた「計算」が、実行の時を迎えようとしていた。
「やりましょう。……まずは、この金で荷車を買い占めます。全ては計画通りに進めないと、全員野垂れ死にですから」
夜が更け、蝋燭が短くなり、また新しい蝋燭に変える。
彼の周りには、無数の竹簡が散乱し、まるで彼自身が数字の海に溺れているかのようだった。
目から血が出るほど地図を睨み、筆先が割れるほど書き殴る。
東の空が白み始めた頃。向朗の筆が、ピタリと止まった。
彼は震える手で、最後の一行を書き入れた。解が出た。
それは針の穴を通すような、脆く、危うい、しかし唯一の生存ルートだった。
6.導き出された解、十万人の大移動
翌朝。
水鏡塾の庭には、不安げな顔をした司馬徽と、徐福たちが待っていた。
彼らは一睡もできずに、朝を待っていたのだ。門の外の民衆も、夜通し泣き叫び、今は疲労で静まり返っている。
そこへ、目の下にどす黒いクマを作り、幽鬼のような顔をした向朗がふらふらと現れた。髪はボサボサで、服は墨で汚れ、目は充血して真っ赤だった。
「……向朗、どうだ?」
徐福が恐る恐る尋ねる。その声は震えていた。もし「無理だ」と言われれば、それが死刑宣告になることを知っていたからだ。
向朗は、書き殴ったボロボロの木簡の束を、徐福の胸に押し付けた。
ドサリと重い音がした。それはただの木の重さではなく、十万の命の重さだった。
「……出たよ」
向朗は、充血した目を細め、気だるげに言った。声は枯れていたが、そこには確かな力が宿っていた。
「答えが見えた。……全員で、行くぞ。荊州・襄陽へ」
場が凍りついた。
襄陽までは、七百里(約三百キロメートル)の道程がある。
その間には険しい山道もあれば、大河もある。
敵対する袁術の勢力圏も通過しなければならない。
老人や子供を含む十万の民を連れての移動など、正気の沙汰ではない。
軍隊ですら困難な行軍を、烏合の衆で行おうというのだ。
「正気か?そんなこと、できるわけが……」
「できる。この手順書通りにやれば、九割は生き残れる」
向朗は断言した。
その言葉には、徹夜の計算に裏打ちされた、揺るぎない確信があった。
向朗の計算式が、絶望的な盤面に、細い細い「生存の糸」を一本だけ通した瞬間だった。
歴史に残る十万人の大脱出劇が、今、始まろうとしていた。
それは、一人の書生の「計算」から始まった、奇跡への挑戦だった。
その夜、向朗は文書庫に閉じこもった。
ろうそくの火が揺れる中、彼は狂ったように筆を走らせていた。
机の上は、数字の羅列で埋め尽くされた。
『一〇万人の消費熱量』
『荷車の積載限界』
『一日の移動距離』
『飲水の確保』
『糞尿による感染症リスク』……。
それは英雄的な作戦ではない。
地味で、陰湿で、吐き気がするほど膨大な実務作業だった。
地図の上に線を引き、距離を測り、時間を削り出す。
「……食料が足りない。絶対に足りない。荷車もだ。老人と子供を歩かせれば、三日で隊列は崩壊する。かといって、調達しようにも太守府の金庫は空だ」
向朗は、頭を抱えた。
計算式は常に「死」という答えを弾き出す。
金がない。物資がない。変数を一つ間違えれば、一万人が死ぬ。
計算ミスが、そのまま死体の山になる。
そのプレッシャーで胃に穴が開きそうになりながら、それでも彼は計算をやめなかった。
その時だった。カラン、と重たい金属音が静寂を破った。
「……計算に行き詰まっている顔だな、向朗」
向朗が弾かれたように顔を上げると、そこには豪奢な衣を纏った男が立っていた。
陳留の豪商、衛臻である。
彼は手に持っていた大きな革袋を、無造作に向朗の机の上に放り投げた。
ドサリ、ジャララ……。
袋の口が緩み、中から黄金色の輝きが溢れ出した。
「……これは?」
向朗が、金貨の山を見て目を丸くする。
それは、一介の書生が生涯かかっても拝めないほどの巨額だった。
「先の君のしでかした『賈仁英雄化事業』と、それに伴う『武器防具』だけでなく『魔除けの護符』や『石碑』の販売で儲けた利益の全てだ」
衛臻は、扇子でその黄金の山を指した。涼しい顔でとんでもないことを言う。
「民は熱狂し、飛ぶように売れたよ。……まあ、元々半分は君のお金のようなものだ。これを、あんたに投資する」
「投資……?私に?」
向朗は困惑した。
「この金で、近隣の村々から食料と荷車を買い占めろ。道中の関所を通る賄賂に使え。足りない分は、私の名で手形を切ればいい。陳留衛氏の信用があれば、大概の無理は通る」
「……どういう風の吹き回しですか?返すあてはありませんよ?」
向朗の問いに、衛臻はニヤリと笑った。
それは慈悲深い篤志家の顔ではなく、獲物を狙う商人の顔だった。
「損得だよ」
衛臻は断言した。
「十万人がここで野垂れ死ねば、商売相手がいなくなる。ただの死体からは銭は取れん。だが、十万人が生き残れば、そこには巨大な市場が生まれる。彼らは命の恩人である私から、生涯にわたって物を買うだろう。……私は、あんたのその計算能力に賭けたんだ」
衛臻は、北を指差した。
「私は一族と共に北へ逃れる。だが、資産の一部はこの『南の可能性』に賭けておく。……頼んだぞ、向朗。私の金をドブに捨てるなよ」
そう言い残し、衛臻は風のように去っていった。
後に残されたのは、机上の黄金と、向朗だけ。
向朗は、目の前の金貨の山を見つめた。
そして、脳内の計算式に、新たな変数「莫大な資金」を代入する。
カネ。ヒト。モノ。バラバラだった変数が、黄金の潤滑油を得て、一つの式に収まっていく。
買える。食料が買える。荷車が買える。兵の忠誠も、関所の通行許可も、金があれば「計算」できる。
「……はぁ。これで言い訳ができなくなりましたね」
向朗は、重い溜息をつき、眼鏡を直す癖のように眉間を揉んだ。
もう後戻りはできない。
物理的な障壁は、この金で消滅した。
あとは、それを運用する自分の頭脳次第だ。
彼の頭脳だけが頼りの、十万人の命を懸けた「計算」が、実行の時を迎えようとしていた。
「やりましょう。……まずは、この金で荷車を買い占めます。全ては計画通りに進めないと、全員野垂れ死にですから」
夜が更け、蝋燭が短くなり、また新しい蝋燭に変える。
彼の周りには、無数の竹簡が散乱し、まるで彼自身が数字の海に溺れているかのようだった。
目から血が出るほど地図を睨み、筆先が割れるほど書き殴る。
東の空が白み始めた頃。向朗の筆が、ピタリと止まった。
彼は震える手で、最後の一行を書き入れた。解が出た。
それは針の穴を通すような、脆く、危うい、しかし唯一の生存ルートだった。
6.導き出された解、十万人の大移動
翌朝。
水鏡塾の庭には、不安げな顔をした司馬徽と、徐福たちが待っていた。
彼らは一睡もできずに、朝を待っていたのだ。門の外の民衆も、夜通し泣き叫び、今は疲労で静まり返っている。
そこへ、目の下にどす黒いクマを作り、幽鬼のような顔をした向朗がふらふらと現れた。髪はボサボサで、服は墨で汚れ、目は充血して真っ赤だった。
「……向朗、どうだ?」
徐福が恐る恐る尋ねる。その声は震えていた。もし「無理だ」と言われれば、それが死刑宣告になることを知っていたからだ。
向朗は、書き殴ったボロボロの木簡の束を、徐福の胸に押し付けた。
ドサリと重い音がした。それはただの木の重さではなく、十万の命の重さだった。
「……出たよ」
向朗は、充血した目を細め、気だるげに言った。声は枯れていたが、そこには確かな力が宿っていた。
「答えが見えた。……全員で、行くぞ。荊州・襄陽へ」
場が凍りついた。
襄陽までは、七百里(約三百キロメートル)の道程がある。
その間には険しい山道もあれば、大河もある。
敵対する袁術の勢力圏も通過しなければならない。
老人や子供を含む十万の民を連れての移動など、正気の沙汰ではない。
軍隊ですら困難な行軍を、烏合の衆で行おうというのだ。
「正気か?そんなこと、できるわけが……」
「できる。この手順書通りにやれば、九割は生き残れる」
向朗は断言した。
その言葉には、徹夜の計算に裏打ちされた、揺るぎない確信があった。
向朗の計算式が、絶望的な盤面に、細い細い「生存の糸」を一本だけ通した瞬間だった。
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